
菩提をもとめる心、菩提心(ボダイシン)こそ仏教のエッセンス、はじまりであり、おわりであります。
菩提をもとめ、菩提心をおこすこと=「発菩提心(ホツボダイシン)」は、この世界で最も不可思議な現象であるともいえます。ひとりの人間が菩提心をおこせば、悪魔が住む魔宮も振動する、と真言八祖のおひとり、龍猛菩薩(リュウミョウボサツ)はおっしゃっていて、菩提心をおこすというのはそれくらい稀有なことだ、という象徴表現なのだろうとおもいます。
どういう風に稀有なのか、これは譬えばなしとしてですが、いままで自分のことしかまったく考えてなかった[ように見えた]人が、ある日、他者のくるしみをなんとかしてあげたいという[慈悲の]こころをおこした、とします。なぜ、こころの変容が起こったのか、ということなんですね。
人間は状況、環境によって、いくらでも利己的に、独善的に、貪欲的に、攻撃的に、搾取的になれる、そういうのはじぶん自身にひきよせてよく分かります。むしろ、生物としてはそれが自然だ、というもっともらしいフレーズを錦の御旗にして日々をいとなんでいるのが通常モードなんでしょう。
そんな「こころ」に、ある日をさかいに、じぶんでもよくわからないまま変容がおこったら、自分にいったいなにが起こったんだ??ということにならないでしょうか。
室町時代に、本願寺中興の祖とうたわれた蓮如上人という方がおられて、興味深い文章を残されています。上人は浄土真宗の方ですから、その教義にのっとるならば、救われる条件はただひとつ、阿弥陀如来が過去におこされたひとつの本願だけを信じ、他の仏菩薩の教えをすべて投げうって捨て、念仏もうすことができるかどうか、だけをつねに問うておられました。しかし、周囲にあつまってくる何百何千という人をみていると、何年、口を酸っぱくしておしえても、わかるひとがいるようにみえない、はなはだ残念だ、と仰っておられたようです。
うえのような記録は、阿弥陀如来の教えを信じること、信心を[能動的に]おこすことはじつにむずかしい、ということをしめしています。じっさいに『阿弥陀経』に「難信難解」と説かれていることからも、数あるお経に書かれている内容の中で、阿弥陀如来の本願(お誓い)を信じることは、特に難しいのだということがインドでも考えられたわけです。
上人によれば、ひとが仏の世界に往生=「転生」するためには、そのなかのたったひとつの本願(※1)のみを信じることができるかどうか、それ以外はまったく関係ないし、むしろその他の仏説を信じてしたがうことは「わろきこと」として退けることができるかどうかをわかるかどうか、というお話なんですね。
じっさい、これはなかなか分かりにくい教えだったようで、宗祖・親鸞上人が御存命の当時から異説が多くあったようです。
さて、蓮如上人の結論は、のこされた文章の文脈から、三つにしぼることができます。
①阿弥陀如来の十八願を信じられるかどうかは「宿善(シュウゼン/シュクゼン)」による。(※2)
②阿弥陀如来の本願を信じられたとしたら、それは阿弥陀如来の「回向(エコウ)」による。(※3)
というものです。
はやい話が、信じられるかどうか、往生転生できるかどうかは、いま生きている私たちの努力の埒外だというのですね。是非はおいて、私が理解する蓮如上人はそういう考え方のようです。
では、信じられるかどうかは自分の主体的な選択や努力とは無関係だとすると、信じられない人の場合はどうしたらいいんでしょう。
そして蓮如上人は三つ目の結論をかきのこしています。
③「五輪塔、卒塔婆(※4)を拝みなさい。拝めば信じるとか信じないとか関係なく、卒塔婆を一見するだけで三悪道をまぬがれる利益があるとお経にはっきり書いてあるから」と(取意)。
それぞれのひとが仏教を、そしてそのなかのどの教えを信じられるかは宿世の縁。あるいは他者が回向してくれた善きカルマの結果。あるいは五輪卒塔婆じたいが無条件に持つ加持力。
あなたはどう考えますか?
本日もお読みいただきありがとうございました。
(※1)本願は誓願ともいい、大乗仏教の文脈で仏がいまだ修行を始める際に立てた誓いのこと。阿弥陀如来の本願のコンテンツは全部で48種類あり、親鸞ー蓮如義によれば、第十八願を信じ称名ができれば、臨終を待たずして往生は確定すると強調されている。第十八願は以下の通り。「もし我れ仏を得ば、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生まれんと欲し、乃至十念せん。もし生ぜずば、正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗するをば除く。」
(※2)宿善 前世、過去世におこなった善業。
(※3)回向 自分自身のよきカルマの結果を相手にふりむけて与えること。
(※4)五輪塔、卒塔婆 もとは仏舎利を安置し祀る塔。古代インドの宇宙観において五輪は世界の生成そのものであるが、のちに塔として表現され法身仏を表すようになった。