
先の記事で、仏教の祈りにはある種の覚悟、菩提心(ボダイシン)がひつよう、というお話をさせていただきました。
この「菩提心」という一語には、じつに仏教の核心、ある意味、仏教のすべてがその一語に集約されていると言っても過言ではないものでして、私としても正面からおいそれと扱うことは勇気のいるものであります。
しかし、そんなおよび腰のままではこのさきブログをやっていけるのか不安になりますので、菩提心についてもうすこし続けてみましょう。
言葉の意味としては菩提(ボダイ)とは「目覚め」のことなのですが、わが国では一般に「悟り」という言い方が多いです。悟り(/目覚め)を求める心、これが菩提心だといいます。
菩提を得れば、ひとは仏陀(目覚めた人)となるわけです。したがって、仏教徒と称するには、いつになるかはともかく仏陀になることを目指すのですから、最初にかならず菩提心をおこす、「発菩提心」ということが必須となるわけですね。
しかし、この説明にはひとつ補足をせねばなりません。さとりを求めて、じぶんだけが救われようとするのはアウトなんですね。なぜかというと、じぶんひとりが苦しみの世界から救われ、涅槃にはいることは原理的にありえないことを大乗仏教徒は見出したからです(cf.『すべてがつながりあっています。 - 満願寺教會ブログ』)。
鎌倉時代の華厳宗中興の祖、明恵(ミョウエ)上人は、浄土宗祖・法然(ホウネン)上人を、「菩提心に欠けている」と強烈に批判したといい、また浄土宗がわからその反論がつづいていきます。
このお話は、仏教史の初期から多くの思索がなされてきた経緯があり、私的につよい関心をもっています。
そもそも私は、はずかしながら、ことの発端からして仏教のただしい理解や理想、こころざしをもって仏門に近づいた人間ではありません。ひとことでいえば、「自分だけが苦しみから助かり、悲しみから救われればよかった」のであります。利己的、独善的か、それとも利他的か博愛的か、といえば間違いなく前者の分類でした。
足を組んで座り、精神統一をするとか瞑想なんどをし、忘我の状態にはいること、こころの静止状態、損得勘定と愛憎のうずまくわずらわしい人間関係をはなれて自然の美と一体化する。そんなイメージを仏教の世界にもかぶせていました。ところが仏教徒になるということは、じぶんより先に他のすべての生き物を平安の世界にわたす、といい、それをお誓いしなければならない、というではありませんか。
ひとより勝れた才能もなく、むしろ人生上手くゆかないことだらけで悩みまくっているのに、いったいなにを根拠にそんなことをできるっていえるのでしょう?
30歳もなかばをすぎて、あるできごとを契機に私の考えは変化したのですが、これについてはまたいつの日か言語化してみたいと思います。
本日もお読みいただきありがとうございました。
