
祈祷をたんに「祈り」と言い換えても別に構わないのだろうか?と考えてみました。
言葉の意味としては、とくだん変わらないように思うのですが、文脈によってニュアンスが変わってくるともいえます。ひろく仏教を背景したもの、神道を背景にしたもの、あるいはキリスト教、ユダヤ教、イスラーム教の祈祷というものがあり、さらにここ二、三十年くらいは、いわゆる「スピ系」とよばれる歴史とか伝統という思想背景をほとんど意図的にはなれた領域の祈りというものもあります。
それらのどれもが、もともと個人というミクロな次元の、切実な悩みや苦しみから産まれ、そういう行為じたいなにか人間として不自然ということはないと考えています。
さて、もうずいぶん昔に流行ったアニメ『進撃の巨人』のオープニング主題歌の歌詞でこんなのがありました。
「祈ったところで何も変わらない いまを変えるのは戦う覚悟だ」
このフレーズは、当時のおおくの視聴者のこころをゆさぶったんじゃないかと想像しますし、私も深夜に、この主題歌を年甲斐もなくノリノリで口ずさみながら、じぶんがおこなってきた祈祷といういとなみを考えなおしていました。そこでは、祈るという行為が、現実を変える行動を選択しないことや、自由ではなく「家畜の安寧」と言い換えられていたわけですから。
祈りという行為いっぱんには心理的、社会儀礼的、共同体的な意味があって(私はそこにほんらいの祈りの意味、超自然的、非合理的な意味を加えたい)、仮にそれらをぜんぶ否定されたら、戦う覚悟以外の人間のいとなみは、価値が少なく、よわいものとしてみなされてしまうと予想します。
と、そんなふうにだらだらと言い訳じみたことを考えてみたのち、祈りの場において、やっぱりある種の覚悟というのは大切だよなぁ、と思いなおしました。
なぜなら覚悟のない祈りは、すくなくとも大乗仏教の内部において、ひとつの重い批判、「菩提心の闕(ボダイシンノケツ)」を許してしまうだろうからです。
そして、この覚悟を「発菩提心(ホツボダイシン)」といいます。
本日もお読みいただきありがとうございました。