仏教の文脈で真言(シンゴン)を、明(ミョウ)ともいい、陀羅尼(ダラニ)ともいい、神咒(シンジュ)ともいいます。それらは、如来や菩薩や神々のこころの内をそのまま表した秘密語といいます。
皆さんがよくご存じの、玄奘三蔵さまが訳された『般若心経』の末尾には、例の真言が説かれていますよね。そこでは「大いなる神咒、大いなる明咒、このうえなき咒、等しきものがない咒」と最高の賛辞をもってほめたたえられています。さらに驚くべきことに、般若波羅蜜(ハンニャハラミツ;智慧の完成)と呼ばれる、人間が認識する世界の本質をありのままに映し出して、いっさいの苦厄を除いてしまう智慧が、じつはその真言なのですよ、という結びになっています。
しかし、真言は上述のように、仏菩薩、或いは明王、神々の、ふかいふかいこころの世界からちょくせつ立ち上がってきた秘密語であるため、人間(cf.『人間とはなにか』)の次元から意味を読み取ろうとしても正確には不可能とされたので、なまの音を直接伝えるのが重要、ということになっています。
実は、いろいろある真言の中には、所どころ文法的に解釈できそうなのもなくはないのですが、仮にそうであってもそれらの古語の意味を、古語のニュアンスをもって現代の私たちの心やからだの深い所に落としこむのは限界があります。つまり文法や修辞法といった私たちの脳機能が了解可能なぶぶんだけでなんとかしようとか構造が分かるだろうのはおそらくまとが外れているのです。
この真言という不思議な音や語のことをかんがえていると、思い出されることがあります。
私は二十代後半から、ヴァーラーナスィーという北インドの地方都市で、とあるタントラ王のもとで正式に学んでいたことがあります。
わが国でいうところの灌頂(カンヂョウ)、加行(ケギョウ)がおわったあと、二つの真言(以後インドの伝統にしたがい「マントラ」といいます)の伝授がありました。伝授のあと、一定期間の行があり、テストがあります。マントラがほんとうに使えるようになっているかどうか、というんですよね。しかも抜き打ち。
幸いテストは合格したようなので一息ついていた私は、そのマントラの意味を文法的に解読してみたくなりました。そこで、モニュエルというあの分厚くて重い辞書を取り出し、一語づつ読んでみたのです。すると、一部どうしても解釈ができないところがみつかりました。
いろいろ考えた挙句、もしかしたら、こういう音の間違いではないかな?という疑いが不遜にも生じてきました。そこで、意味の通りにくい部分を、じぶんの納得のいく音に変え、意味が通るようにしてじっさいにそのマントラを使ってみることにしました。
マントラを実践でつかうことをインドの言葉で「プラヨーガ」といいます。結果は、無効でした(無効であるか、有効であるかの特殊な基準があるのですが、こういう知識は悪用する人が必ずいると思うので詳しい情報は伏せます)。あわてた私は伝授されたままの音で再度、プラヨーガを一心に修しますとまた使えることがわかりました。もちろん、タントラ王の伝授に疑いをもち、浅はかな初歩文法知識をもちだして修正をはかった自分を恥じ、ヒンドゥーの神様におわびをしたことはいうまでもありません。
私はそのとき、血脈(ケチミャク)というものの存在をはっきりと確信し、その意義を理解したと思います。かつて私は『戒体のふしぎ』のなかで、授戒によってなにが伝わるのか、というお話をしましたが、インドのマントラも、わが国の真言や印も、どうように太古からの血脈をとおして人から人へ、こころからこころへ、たいせつに守られながら伝わっていくのです。
あなたがもし本当のことを学び、太古からの精神的な流れに連なりたいと考えるなら、過去の私のようにこざかしいことを考えてかからないほうがいいでしょうね。
本日もお読みいただきありがとうございました。