
仏教では、通常の私たちの認識は、その根底においてつねに根源的な誤解をまぬがれないといいます。この根源的な誤解がある限り、ひとは生まれ、老、病、死を経験する、というのが仏陀がこの世界にあらわにした教えの土台であると考えられています。
おそらく私たちは、上のような仏陀の教えを個別に考えていく思考が必要で、老と、病と、死がつよい苦しみと感じるかどうかは、私たちがその時おかれた状況や、心理状態によりそれぞれ違った雰囲気をかもしだすということだけはいえると思います。
病による痛みや、老いてゆく悔しさや、死をこわいとか、つらいとかおっしゃらず、自然のことわりとして静かに受け入れていかれる方も世の中にはおられると思います。大変すばらしく、称賛したくなりますね。
まえに書いたのですが、私が若いときの悩みというのは精神論的なものでして、病といってもせいぜいインフルエンザにかかって布団のなかですごす程度のものでしたし、老いの不安というのは少しもリアルに感じられないし、いまでも不思議に思うのですが死については、文学的なあこがれすら持っていました。いまから反芻しますと、まったく肉体の若さが現出させる幻という以外なにもなく、恥ずかしくて苦笑いするしかないんですね。
ところで今年、自宅介護をしていた父が亡くなり、母は老齢施設にはいるなどして身近なひとのからだとこころの変化、そして臨終を見てまいりますと、苦というのがこの世界のリアルで、楽というのは幻ではないか、という思いが次第につよくなってきます。
私たちが家族でおいしい食卓をかこんでいるいまも、パソコンの前で気ままにコーヒーを飲みながら過ごしているいまも、この地上では戦争をしている国々があり、いつミサイルが飛んでくるか分からないという方々がおられます。
その時…思い出した…
この光景は今までに…
何度も…何度も…見てきた…
いつだって…目に入っていた…でも…
見なかった事にしていた…
そうだ…この世界は…残酷なんだ…!!
(ミカサ・アッカーマン『進撃の巨人』より)
さて、私たちの認識に最初からつきまとう根源的な誤解を「無明(ムミョウ)」と呼んでいます。無明の反対は明(ミョウ)で、この明をもってゴータマ・シッダールタは仏陀(buddha : 目覚めた者)となられました。
この無明が明(ミョウ)に転じ、ひとが智慧と一つになった時、仏陀、あるいは如来(ニョライ)、あるいは阿羅漢(アラカン)と呼ばれる存在となります。
ちなみに、昨今の日本語では、還暦近くの人を「アラカン」と呼ぶそうです。私も幻に心を奪われているうちに年齢だけを重ね、気づけば還暦目前。誰かに「ああ、あなたもついにアラカンだね」と言われたら、なんとも身の置き所に困ってしまいそうです。
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