
仏教の世界において、人間とはいったいどういう存在なんでしょう。
調べてみると、巷の言説にはいろいろな言い方があるようなんですね。たとえば煩悩だらけで阿弥陀佛の本願にすがる以外ぜったいに救われない存在とか、はんたいに自発的に菩薩として生きようと決心し、行動することで、もともと心の深い部分に誰にでもある仏としての性質を開花させることができる存在であるとか、だいたいそんな二つの説明の仕方にわけられるようです。
人間の心のはたらきやあり方を、最初から人間という生き物だけに限定して考えると、どちらもなるほどと思える部分があります。さらにそれらは、みずから仏門に入られた人の固有の実践から生まれた言葉であることは疑いありません。ということは、簡単には一般化できないお話なんだと思います。
さて、最初の問いに答えるもう一つ伝統的な説明は、他の生き物のあり方との比較によるものがあります。人間いがいの生き物のあり方は五種類に分類されていて以下のようになっています。
地獄(ヂゴク)‥‥身体的・肉体的な痛みにさいなまれているあり方
餓鬼(ガキ)‥‥満たされない飢えと渇きにさいまれているあり方
畜生(チクショウ)‥‥三大本能(食・淫・睡眠)に没入しているあり方
修羅(シュラ)‥‥常に争いを好むあり方
天 (テン)‥‥ 身体的・肉体的な痛みもなく、飢えも乾きもなく、争いも好まず、三
大本能もないか、或いはあってもきわめて微細なあり方で、天上に住
み、楽を享受する神様たちもこれに含める
人間いがいの生き物は、認識対象の感じ方が比較的一定で変わりづらいらしく、例えば地獄[に属する生き物]と言った場合は、かなり長い期間、肉体や精神が痛い状態という生き物のあり方であるといいます。
いっぽう、幾つかの資料をみると、人間の特徴は認識の対象に対していろいろと思慮ができてしまう、といいます。はやい話が、思慮のバリエーション、感じ方のバリエーションが圧倒的に多い生き物=人間、ということですね。
もし、その意味をさらに拡大することがゆるされるなら、人間とは、あることにもないことにも痛みを感じて苦しみ、またはなにかに対し愛着を起こしては追いかけまわし、時にはつかのまの喜びや満足にひたり、再び苦痛や恐怖のどん底に落ちる、ということをはやい速度で輪がまわるように繰り返し経験している生き物、すなわち、さきの五つの生き物のあり方を日々刻々、経験し続けている生き物、という定義になろうかと思います。
学校でもテレビでも、人類のことを「ホモ・サピエンス」なんて言ったりします。もし、私たち人類が文字どおり「ホモ・サピエンス(ラテン語で「賢い人」)」であれば、同じような失敗を繰り返し、同じような歴史を延々とまわり続けるようなことはしないような気がします。少なくともこの私は「ホモ・サピエンス」という言葉には当てはまらない生き物だと思いますね。
ちなみに、皮肉にも人類に「ホモ・サピエンス」という名前をつけたのは「リンネ」というスウェーデンの博物学者でした。
本日もお読みいただき有難う御座いました。