
「戒」は、仏陀が生きとし生けるものの倖せの為に開かれた大道であります。
戒は授戒作法という儀式をとおし、授かることによってはじめて「その人の戒」になる、と言われるのですが、では一体、何を授け、何を受け取るののか、という疑問が生じてきます。戒が単なる文字情報でよいのならば、その情報の本だけを読んで、今日から「戒を守ろう」と決意すればいいことになります。
ところが仏教の文脈では、戒というのは本やテレビからの情報ではなくて、既に授戒しそれを大切にたもっているお坊さんから伝達される「戒体(カイタイ)」というナニかであるといいます。そして、儀式をとおして伝達された「戒体」がその人のこころの性質に組みこまれて、以後、意識せずとも戒を守ろうとする力が発揮されるのだ、というなかなかにふしぎなお話であります。この辺は科学的な根拠を出して貰わないと納得できないと言われてもむりで、仏教内部のロジックでそれを納得してもらうしかないんですよね。
天台宗では、戒の性質はもともと誰にでも本来的にこころに備わっている、つまり仏性の種子として眠っていて、授戒作法を通してようやく眠りから覚め、じっさいの行為へと花開いてくる、というのが伝統的解釈になります。
実は「戒体」という言葉は現在のところ、インドの古語文献まで溯れないことが分かっていて、その扱いは厳密にはむずかしいのですが(それ故、ふしぎというタイトルになりました)、善き結果をもたらす善き行為へとみちびく仏教の特有さとは何か、ということを今回お伝えしたいと思いました。
浄土真宗だけはニュアンスが違うようですが、殆どの宗派のお葬式は、亡くなった方への授戒作法が中心となっています。願わくばご縁のある方に「菩提心(ボダイシン)」をおこし、戒を授かることをおすすめしたいものです。それも生きているうちに。
本日もお読みいただきありがとうございました。
(明日から浴油の準備及び祈祷に入りますので、当面記事の更新はお休みになります)
