気質というのは、認識対象に対する固有の反応の仕方だと言い換えられると思います。
たとえば、私は宿曜でみると柳宿で、そのかたちは「蛇の如し」とあるので、認識の対象に対して毒のある歯で噛みつき、からみつき、丸呑みにし、片や何もしていなければとぐろを巻いて蛇的な瞑想(獲物やいけにえを考えているとか)をしているのが本質的なはたらきといえるかもしれません。言葉どおりなら間違いなくやばいタイプです。
一方で「布施を好み、解脱を好み」ともあり、二十八宿中見渡してみてもっとも複雑怪奇な気質といえます。私をリアルに知る人たちが、そんな印象を持っていると想像するとちょっとへこみますね。
そのように、複雑にみえる自分の気質をよく理解して、固有の色眼鏡をはずす努力をする、これもこころの修行として大切なことだと思います。いかんせん自分の自我とほとんど同一化して長い年月が経っているのでこれがかなり難しいことだということも私たちは理解しています。さいわい気づくことができても、頭の一部ではわかっちゃいるけどやめられない。或いは、またやっちゃった、と後で気づいて後悔する。私はだいたい後者のパターンです。
「一切智者」である仏陀は、個々の長所短所はあれ、ヒトも動物も神がみもアシュラもそういうものであることを見通していたのでしょう。そこでどんな気質にたいしても対応して、それらをひとしく乗り越えていく「戒」を制定され、授けられたのだと考えることができます。
「戒」の語源には「行為」「習慣」「性格」などの意味があります。いずれにせよ、世俗的な倖せも、仏の世界も、この「戒」を守ろうと意図することによって始まる、と仏陀は説かれたわけです。
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