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苦(仏教の始まり)

むかし大学一年生の授業で講師がお話しました。「仏教の文脈で〈苦〉というのは、思い通りに行かない事です。」

 

確か英訳の般若心経を読む授業でした。

 

当時、若い頃の「苦しみ」と考えていたのは、専攻のサンスクリット語はおろか英語すら苦手で授業にうんざりしていたとか、友達関係にヒビを入れる言動を簡単にしてしまい嫌われて後悔するとか、要は精神論的なものでありまして、現在中年期も終わりにさしかかり、シニアを目の前にすると更にリアルに感じられる身体的な苦痛とか、将来自分や家族やこの国はどうなるんだろうという時間の有限性を意識させる不安とか、そうした「苦」は質・量ともにどんどん広がっていくように思います。

特に病気や怪我の時に、身体的激痛があれば「痛い。何とかしてほしい。でも思い通りに行かないんだ」ということを強く、そして時間的に長く長く苦を意識させられます。

むろん経験者の方々、私より長く生きて来られた方々からはそんなのはまだまだ序の口とも言われそうです。これも分るような気がします。

しかし、経験者にありがちな一般化は大切なことを見落としているとも思えます。

 

大切なこととはなんでしょうか。それは、各人の苦は全く固有であり、私が理解する仏陀の差し示したところでは、固有の苦の[適切な]認識こそ「道」へつながるからです。


これを読んでいるあなたがもし些細な苦のように見える事でも拾い上げて、注意深く観察することができれば、きっと多くの学びがあると私は思うんですよね。

そして、もしかしたらその学びのどれかが曼荼羅への入り口になるかもしれません。

 






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