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自性とは何だろう(ややこしいお話)

『宿曜經』では、ヒトの先天的な気質を28種類に分けて説いています(その他、生まれた曜日=七曜による分類もありますが、ここでは割愛)。

先の記事では、あるヒトがあるヒトとして、同一性を保っているように見える気質に対し、「自性(ジショウ)」という言葉をあえて使いました。仏教に詳しい方々から恐らく突っ込みを受けそうなこの自性という言葉について補足し、これから長く考え続けたり、このブログで書いていくかもしれない一つの土台のようなものをこしらえておこうと思います。

この自性というのは仏教語でありまして、モノやコトの意味を成立させる変わらない本質とか実体という意味です。仏教の建前は、まずこうした不変の本質とか実体を否定することを教えの旗印としています。そこで仏教に詳しい人からこういう批判の声が聞こえてきそうです。

「ならば、一仏教徒として、ヒトの気質なるものを不変の本質、即ち自性と呼び、それを云々するのはおかしいではないか」と。


しかし、よくよく私たちの通常の認識を振り返ってみると、家族や会社の同僚、またはテレビに映る個々の政治家などがそれぞれ特定のパターンをもって考え、行動し、彼らがずっと変わらないように見えるという観念をベースに思考したり反応したりしています。例えば、「あのヒトは以前、私にとても酷い事をして傷つけた。だから今後もきっとまた酷い事をするだろう」なんて誰でも考えるんじゃないでしょうか?そういうことを私はよく考えてしまいますから、坊さんとはいえ仏教の基本がぜんぜん血肉になっていない証拠です。

他にも、私たちが毎日使う家やアパートの床は、この瞬間も3秒後も3年後も変わらずそのままあり続けると信じているからこそ、安心して二本足で立ち、歩き回ったりしているように思います。実際、いま私足を着けているこの床も、実際には猛烈な勢いで形を変え、壊れて最後には無くなるプロセス上にあるのですが。

このように、私たちの通常の認識とは、モノやコトに自性というものがある、という[迷いの]前提、観念のもとに成立していることはほゞ間違いなさそうです。

 

私自身は、「私ってどうも他人様と違ってヘンかもしれない、何なんだろう」という疑問から求道がスタートしたので、通常の認識としての「固有のヘンさ」、つまり自性のように見えるものに拘って考えていくしかないと考えております。




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