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ににと考える【 神様はいる? 】

私は幼少期をシリアのダマスクスで過ごした。

そんな私の当時の絵には必ず描かれるものがあった。

それはタマネギの形をした屋根を持つ宗教施設、モスクである。

私の生活圏にはモスクがあり、そこに集う人々や礼拝の様子を見て育った。

シリアの人々の生活の中には宗教が深くしみこんでおり、そうした環境で育った私にとって、神様はごく身近な存在だった。

神様は、いつも一緒だった。

 

小学生になって、私は日本に引っ越してきた。

ある日のこと、くしゃみをした友人に私は言った。

「God bless you」

友人が意味を尋ねてきたので、私は日本語で繰り返した。

「神のご加護を」

すると友人は笑いながら答えた。

「何の神やねん!」

友人にとっては何でもない発言だったのだろう。

しかし私はその時、静かに驚いていた。

私にとって神とは、「何の」とは問えない存在であった。

神は神であって唯一絶対なのだから。

しかし友人にとってはごく自然に、「何の」と問える存在だったのである。

その時初めて私は考えた。

神って…なんだ?

 

 

にに「神様っていると思う?」

今日のテーマが決まった瞬間だった。

私「パパは信じてる、けどににはどうしてそれが気になったの?」

ににはじっくり考え、少しずつ整理しながら神様の存在が気になっている理由を説明してくれた。

簡潔にまとめるにこういうことらしかった。

年齢を重ねるごとに、できることが増えている。

しかしできることが増えるほど、相対的にむしろできないことの多さに気付く。

どうも自分には、どんなに頑張ってもできないことがあるようだ。

しかしそれには何か理由があるのだろうか。

もしも世界を創った存在がいるとして、どうしてこんな風に創ったのだろう。

概ねそういったところから、神様のことを考え始めたらしい。

にに「生徒さんには聞いたことある?」

ににが実際に私の生徒に会ったことは数える程度しかない。

しかしこういった複雑な問題を考える時、彼は決まって生徒の考えを聞きたがるのであった。

高校生の意見を足がかりに自分の考えを作る。

にににとって生徒は、もはや偉大な先生であった。

私はある1人の生徒の考えを紹介することにした。

 

生徒「神様の正体がわかりました」

それは実に大胆な宣言であった。

私「ずばりその正体とは?」

生徒「『甘え』じゃないでしょうか」

取りようによってはかなり辛辣な回答かもしれない。

だが時にタブーな表現も含めて自由に吟味できるのが倫理の楽しみだ。

私「もう少し詳しく教えてもらっていい?」

私は深掘りしてみることにした。

生徒「僕の思うに、人間は1人で生きていくことができない。

そのため他人や社会など、何かに依存して生活せざるを得ない。

この依存を良しとする態度が『甘え』です。

しかし他人や社会には限界があり、全てをカバーしてくれるわけじゃない。

それでも何かに甘えたいという強い願いの果てに姿を現すのが、神ではないでしょうか。

どんなことでも受け入れてくれる超越的存在、最も信用できる依存先、いわば究極の甘えが神だということです」

なるほど、何となく言わんとしていることが見えてきた。

私「それで君は、そんな神をどんな風に評価しているの?」

生徒「克服すべきものと捉えています」

私「なんで?」

彼はよくよく脳内で概念を整理するように丁寧に語り始めた。

生徒「1人で生きることが出来ない以上、甘えは本来必要なことです。

人間は何かに依存しながら生きていくほかありません。

がしかし、それにもバランスが大切で、過度な甘えはむしろ毒だと思います。

神が必要になることの背景には、人の、ひいては社会の弱さがあります。

人や社会が弱いほど、神の存在感は増すのではないでしょうか。

神の存在は人を癒やしますが、同時に人を弱くしてしまう。

弱くてもいいと、人を許してしまうのです。

それは問題から目をそらすことにも繋がり、結果として解決を導かない。

人や社会は、もっと成熟していかねばなりません。

例えば災害があったとして、とある人が多くを失ったとする。

そんな時、神にすがりたくなるとしたら、それは社会の未熟がそうさせるのではないか。

仮に悲劇があったとて、ただちに住む場所が、温かい食事が、経済的な支援が、優しい言葉が、十分にあてがわれたとしたら、その人は超越的な存在にではなく現実に救いを見るでしょう。

私達はそういった方向に進むべきであって、進める段階にあると思う。

神の歴史的役割は終わりに向かいつつあるのではないでしょうか」

 

私「ににはどう思う?」

一通りの説明を終えた後、私はバトンをににに戻した。

にには時間をかけて一生懸命考えながら言葉を紡ぎ出した。

にに「生徒さんの神様とににの神様は、結構違うかもしれない。

ににの神様は、ににの言葉を聴いてくれるばっかりじゃない気がする」

私「聴いてくれるばっかりじゃない…というのは例えば、逆に神様の方がににに語りかけてくることもあったりするってこと?」

にに「そういうこと」

神の言葉を預かることができるのだとしたら一大事だが、これは真意を得る必要がある。

にに「ににの神様は時々、『こうした方がいいよ』って教えてくれるんだ」

私「それは例えばどんな時?」

にに「例えばととちゃんが泣いている時には『頭を撫でてあげるといいよ』って教えてくれたり、クラスの誰かが困ってる時には『助けてあげた方がいいよ』って教えてくれる」

どうやらににの神様は、善を導いてくれるような存在であるようだ。

にに「ににの神様はね、にににとって苦しいことを言ってくることもあるんだ。

例えば、宿題をするのが面倒くさいと思ってる時に『早めにやった方がいいよ』って言ってきたり、誰かに意地悪をしてるような怖い子に『立ち向かった方がいいよ』って言ってきたりする」

私「そういう時、ににはどうするの?」

にに「神様の言う通りにできるときもあるし、できない時もある。

でも神様が言ってくれると、少しだけ勇気がわくんだ。

そこが多分生徒さんの考える神様と一番違うところだよ」

私はににの言わんとしていることを推察し、言葉に置き換えて確認してみた。

私「生徒の考える神様は人を弱くするけど、ににの考える神様は人を強くしてくれるってこと?」

にに「多分そうだと思う、でも…」

ににはしばらく考えると、少し微笑みながら言葉を結んだ。

にに「やっぱりよく分かんないかも」

 

考え疲れたのか、ににはすっかり寝入っていた。

その寝顔を見ながら、私はダマスクスにいた頃を思い出していた。

あの頃、私は神に何を感じていただろうか。

皆で一緒に祈りを捧げていた時、私は別に、弱くなっているとも強くなっているとも感じていなかった。

祈りの中で私が感じていたもの、それは…

弱さも強さも全てを包みこむような温もり、私達は皆違うが皆一緒であるという実感、何者もぞんざいには扱いたくないという気持ち、神という概念を通じて存在を確認しあう喜び…

ににとの問答は、時に私自身の再発見にも通じることがある。

漠然としたイメージを脳内に浮かべながら、やがて私も眠りについた。




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