生徒「現代ってもう勉強する必要ないと思うんすよね」
それは期末考査まで残り1週間をきったある日の教室での生徒の発言だった。
私「どうしてそう思うんだい?」
生徒「だってこれがあるじゃないすか」
生徒はポッケからスマホを取り出すと私に示して見せた。
生徒「昔は何かを知ることにすごい価値があったんだと思います。
というのも知ること自体のハードルが高かったからです。
でも現代は違う。
何かを知ろうと思った時、いとも簡単にそれを達成することが出来る。
いつでも何でも知ることが出来るなら、予め勉強しておく必要性なんてないんじゃないかと思うんすよ」
何で勉強するのか。
それは学び手にとっては言うまでもなく、教え手にとっても重要な問いかけであった。

その日の夜、私はにににこのエピソードを紹介した。
にには私に聞いた。
にに「それでパパは何て答えたの?」
私が教え手として学びの必要性を訴えたのは当然として、ににが気になっているのはどんな根拠を持って私がそれに答えたのかという部分であった。
正直に言うとこの問いは教師にとって常に念頭に置かれると言っても過言ではないものであり、その答え方についても何通りも用意がある。
私は今回生徒に対して、学びが人生に与える好影響を強調するような答え方をしていた。
私「勉強は人生の選択肢を増やしてくれるんじゃないかって答えたよ」
にに「選択肢を増やす?」
私「そう、選択肢。
例えばパパは最近毎日英語の勉強をしてるよね?」
にに「うん、横で聞いてるうちに、ににもちょっと英語詳しくなってきたよ」
隣で一緒に勉強してくれるににの存在は、私のモチベーションにも影響している。
私はににに感謝しなくてはいけない。
私「ところで何でパパが英語の勉強を始めたかは知ってる?」
にに「面白いから」
私「確かにそれはある。
ただ今回は、昨年からパパの同僚になったカナディアンの存在がきっかけなんだ。
彼はすごく素敵な人でね、パパは彼ともっと仲良くなりたいって思ってる」
にに「いっぱいお話するといいんじゃないかな」
私「まさにそこなんだ!
いっぱいお話したいんだけど、いかんせんパパの英語力が足りなくて伝えたいことが表現しきれないんだよ」
にに「それで英語勉強してるの?」
私「その通り。
スマホを使えば翻訳はできるけど、毎回調べてるんじゃ会話は難しい。
ここで最初に言った話に戻る」
にに「選択肢のこと?」
私「そうそう。
英語を勉強しなくてもパパは生きていけるかもしれない。
でもそれじゃ同僚と仲良くなるって選択肢は選べないかもしれないよね。
逆にここで英語を勉強しておけば、同僚と仲良くなれるのはもちろん、これからもっと色んなことができるようになるかも」
にに「確かに!」
私「選択肢がない人生より、選べる人生の方が豊かだと思わないかい?
勉強はまさにその選択肢を増やしてくれると思うんだ」
にには大いに納得した様子で何度も頷いてくれた。
話を聞いて共感してくれたのは嬉しい。
ただこういった話をする時、教え手には注意しなければならないことがある。
それは、自分の考えで相手を染めあげてしまわないようにすることだ。
幼い子供が相手の場合、これは特に気をつける必要がある。
私「ににはどう思う?」
私は、ににが私の考えをそのまま受け入れ、その反動で自らの思考を止めてしまってはいないか心配した。
だが幸いなことに、それは杞憂であった。
にに「実はにには全然違う風に考えてたんだ」
私「聞かせてくれるかい?」
にには頭の中で言葉を整理するようにゆっくりと息を吸うと、静かに説明を始めた。
にに「勉強は、間違いに気付くためにするんだと思う」
私「なんでそう思うの?」
にに「ににはね、善いことがしたいっていつも思ってる。
ににが何かを考えられるようになった時から自然とそう思ってるんだ。
でもいざ善いことをしようとした時に、困ることがあるの」
私「何が困っちゃうの?」
にに「肝心の〝何が善いことなのか〟がわかんなくなっちゃうんだ。
それでたまに善くないことをしちゃうの」
それを聞いてふと思い出したことがある。
ある日のこと、寝室の隅でににがうずくまっていた。
体調でも悪いのかと声をかけたところ、ににはこんな風に答えた。
自分は善いことだけをして生きていくことはできないかもしれない、それに気付いて悲しいのだと。
その時は何か上手くいかないことでもあったのかと思い、失敗を経ずして成功を得るのは難しいこと、誰もが最初から思ったように生きられるわけではないことを語り励ましたつもりでいたが、今になって彼の考えが少し明瞭になった気がした。
にに「だけどね、勉強してるとちょっとは善くできる気がしてくるんだ。
変な話なんだけど、善いことはわからなくても、善くないことはわかる時があるの。
勉強してるとね、間違ってることがあった時、それに気付くきっかけがもらえる気がするんだ」
なるほど、勉強することはにににとって、過去の悩みへの打開策でもあるようだ。
にに「パパ、怒らないで聞いてね。
パパは色んな事をににに教えてくれてる。
だけどににはね、もしかしたらパパの言うことは全部間違ってるのかもって思ったりするんだ。
勉強していれば、いつかそれもわかる日が来る気がする」
怒るだなんてとんでもない。
むしろ私はににのその言葉に頼もしさすら感じていた。
私は、私の考えにににが染めあげられてしまうことを恐れていたが、その心配は不要なようであった。
にに「間違いに気付くことができれば、きっとその分だけにには善いことができるんじゃないかなって思うんだよね」
その言葉からは、善いことがしたいという動機と、勉強という行為とが、有機的に結びついていることが感じられた。
私「にに、聞かせてくれてありがとう。
なんだか勉強になったよ」
今日はこれくらいでお開き、後は寝るだけ…と思ったその時。
にに「でもねパパ」
おもむろにににが口を開いた。
私「なんだい?」
にに「勉強しなくていいって言ってた子のことなんだけど、多分その子、本当にしなくていいと思ったわけじゃないと思うよ」
何か考えがあるようだ。
私「どうしてそう思うの?」
にに「だってその子、わざわざパパの前でそれを言ったんでしょ?」
私「ん?そうだけど?」
にに「じゃあ多分聞いて欲しかったんだよ。
自分の考えに自信が無かったから、一緒に考えて欲しかったんじゃないかな?」
確かに可能性としてはあるかもしれない。
しかし…
私「なんでそう思ったの?」
にに「ににもよくパパにそれをやるからだよ」
そう言ってににはニヨっと笑うと、やがてすーすーと寝息を立て始めた。