ににと考える相対主義・絶対主義
私「にに、今日は寒かった?」
にに「ん~ん、別に寒くなかったよ」
子供は風の子というが、ににはまさにそれで、多少の寒さではへこたれない。
私「そうかい、でもパパにとってはかなり寒かった気がするな」
にに「パパは寒がりだもんね」
私は昔から体が強くない方で、平気体温は36℃を下回る勢いだし、血圧は上が90いくかいかないかといった有様なのだ。
もはや「生きている」というよりも「死んでない」という方が正しい気すらしてくる。
私「しかしよく考えてみるとちょっと不思議じゃないか?」
にに「何が?」
私「パパもににも一緒にいたのに、パパにとって確かに「寒さ」はそこにあった。
でもにににとって「寒さ」はそこになかったんでしょう?
となると、「寒さ」そのものはいったい何なんだろうね」
これがその日のお話の始まりだった。

私は相対主義について説明を試みた。
私「「幸せ」という概念がある。
その意味はににもわかるね?」
にに「わかるよ、にには幸せだよ」
彼はいちいち可愛いことを言ってくるので集中力が鈍りそうになるが私は続けた。
私「「幸せ」とは何か、その意味は分かる。
だけど肝心の何を「幸せ」とするかは人によって違ってくるんじゃないかな。
例えば、体を動かすのが好きな人にとっては体育の授業は「幸せ」だろうけど、逆に嫌いな人にとっては「幸せ」じゃないかもしれない。
「幸せ」そのものが確かにあるのではなくて、何を「幸せ」とするかはその人次第だってこと。
こういう考え方を相対主義っていうんだ」
にに「さっきお話してた「寒さ」も相対主義かもしれない?」
私「そうだね。
もしこの立場に立つのなら「寒さ」そのものはないってことになる。
あくまでパパにとっての「寒さ」、にににとっての「寒さ」があるだけだ」
にに「…う~ん」
にには考え込んでしまったが、私は続けることにした。
私「極端な相対主義者は全てにこれを当てはめようとする。
つまり、「寒さ」も「幸せ」も、「人生」も「人間関係」も、ぜ~んぶ相対的なものだっていうんだね。
にには、全てのことは相対的だと思う?」
検討には時間を要する問いだ、私は今日のお話はここまでになるかもしれないと思った。
だが予想を裏切り、にには即答した。
にに「違うと思う」
私「なんでそう思うの?」
するとにには窓の外を指さして言った。
にに「今日は土砂降りだね」
しかし今日は雨なんて降っていなかった。
それどころか雲ひとつなく、夜空には月がはっきりと見えていた。
一瞬、私は戸惑ったが、すぐに意図を理解した。
私「にに、今日は快晴だったじゃないか」
にに「ん~ん、今日はものすごい雨だった。
「にににとっては」ね」
なかなか小粋な返答である。
私は少しばかりこれに付きあうことにした。
私「実はにに、言ってなかったことがあるんだけど…パパはまだ18歳なんだ、「パパにとっては」ね。
まだまだ若くて何だって出来る年だよ」
にに「ん~ん、パパは37歳で、もうおっさんだよ」
残酷な現実を突きつけられてしまった。
私「その通りだ、にに。
「パパにとっては」18歳なんだ、って主張を押し通すのは難しいよね」
にに「全てが相対的だとは言えないと思う」
ぐぅの音もでない。
私はににの理解を喜び、もう少し話を深めてみることにした。
私「にに、今日はもう一つお話してみようか」
にに「するする!」
こうも喜んでくれるのでは、我慢できないというものだ。
私「絶対主義って考え方がある。
「寒さ」にしても「幸せ」にしても、「愛」だとか「真理」みたいな抽象的なものにしても、「それはこういうこと!」っていう絶対的な答えを認める立場のことをそう呼ぶんだ。
さっきまで話してた相対主義とは対称的で、人それぞれなんていう風には考えない。
極端な絶対主義者は全てにこれを当てはめようとする。
人はしばしば誤解したり見誤ったりするけど、本当のところ答えは一つだけだっていうんだね
にには相対主義を批判したけど、絶対主義が正しいと思う?」
にに「………」
考えモードになってしまった。
ににの返答を待っている間、私は高校のことを思い出していた。
お察しかもしれないが、私はこうした質問を高校の倫理でも投げかけている。
ある生徒はこんな風に答えた。
生徒「わかりません。
仮に愛や真理について明確な答えがあったとしても、人間にはそれを知ることはできないと思います。
知る能力がないのだと思う」
私「つまり絶対主義の立場は採用できない?」
生徒「いえ、それでもボクは絶対主義の立場をとるべきだと思います」
私「何故そう考えるの?」
生徒「その方が“優しい”からです」
私「優しい…?」
生徒「相対主義は、個々人の主張を自由に認めてしまいます。
誰も何も否定できない。
それはつまり何でもありということであって、突き詰めると言ったもん勝ちになりかねません」
私「でも絶対的な答えについて、我々は知り得ないんでしょう?」
生徒「はい、そう考えます。
実際にはそうなのだと思う。
がそれでも尚、絶対的な答え、何かしらの軸足、基準をボク達は設けないといけないと思います。
ボク達はそれを「知る」のではなく「選ぶ」必要があるのではないでしょうか」
私「何故?」
生徒「明確な基準無くして正義は成立しないからです。
曖昧な基準、言ったもん勝ちの世界に正義はありません」
私「君の言う正義とは?」
生徒「公平であることです。
基準が公平さを担保し、それが正義の根拠となる」
私「それはなかなか、優しいというよりはストイックな価値観な気がするね」
生徒「一見してそう見えるかもしれません。
ただ長期的に見れば、ボクの考えは優しいはずです」
にに「…えっとね」
意識をににの方に戻す。
にに「にには絶対主義もあぶないと思う」
私「それはなんで?」
にに「誰かが仲間はずれにされちゃうから。
例えば学校に行くのは絶対正しいって言われたら、行きたくない人は悲しいと思う。
絶対って怖いよ」
何か思い当たるものがあって語っているような言いぶりである。
経験が言葉を作っているように私には感じられた。
私「となると、ににはどちらの主義も採用しないってことかな?」
にに「ん~ん、どちらの主義も採用する」
私「???…えっと、どういうことだろう?」
にに「ん~っとね、場合によって違うというか…悲しませないようにするためには、相手がどういう風に思ってるかで変えないといけない気がしてて…」
しどろもどろの説明ではあったが、私は整理を試みた。
私「もしかしたらこういうことかな?
一つのやり方しか認められていないと誰かが悲しくなっちゃいそうな時は相対主義をとるけど、一つのやり方でまとめておかないと誰かが悲しくなっちゃいそうな時は絶対主義をとる。
こんな感じ?」
にに「多分そう、そんな感じだと思う!」
何となくわかってきた。
にににとってはきっと、「どちらの主義を採用するか」よりも「何故その主義を採用するか」の方が大事なのだ。
考え方はいわば物差しのようなものに過ぎず、どの物差しを使うかは常に選べる。
選ぶ理由の方がにににとっては根っこなのだろう。
にに「気持ちが大事なんだと思うんだよね
気持ちで主義を選ぶのかもしれない」
その方が“優しい”気がする」
優しい…アプローチにこそ違いはあるが、生徒も念頭に置いていた概念だ。
もう夜も遅くなっていたが、私は最後に一つ質問することにした。
私「にには気持ちで選ぶって言ったね。
その気持ちってどんな気持ちのことなの?」
にに「みんな大好き!っていう気持ち」
ピュアがすぎる…!
7歳はこういうところがずるい、37歳のおっさんが同じ事を言ってもひっぱたかれそうである。
しかし…それは存外本質的かもしれないと思った。