かねてより疑問に思っていた事がある。
言語能力の習得は、以下のどちらの順序で行われるのか。
①まず「語」を理解し、それから「文」を構成できるようになった。
②まず「文」を把握し、それから「語」を理解するにいたった。
常識的に考えれば①だと思ってきたが、何しろそんな事を考え始めた頃にはすでに言葉を使ってしまっていたがため、はっきりとはわからずにいた。
が、ある日のことである。
息子が初めて私を「パパ!」と読んだ瞬間、私は閃いた。
②だ!
その時、彼は「語」ではなく「文」を使ったのである!

息子には、比較的早い段階から絵本の読み聞かせを行ってきた。
始めの頃は、イラストに単語を添えたような内容の本が多かったように思う。
私は、息子に「語」を教えるつもりだったのだ。
それが正しい順序だと考えていたからである。
しかし②だと考えるに至った今、改めて振り返ってみると、この時からすでに息子は「文」としてこれを受け取っていたのだと思う。
例えば私がイラストを指差し「リンゴ」と言った時、それは「語」としてではなく、「(これが)リンゴ(だよ)」という「文」として、息子は吸収していたのではないか。
無意識のうちにやっていたので見落としてきたが、考えてみれば「語」が何を意味するのか、私自身も「文」から把握しようとしてきた。
「お前って本当にムバッチョだよなぁ」という文章があったとして、「ムバッチョ」という「語」にどんな意味があるのか、私は前後の「文」から読み取ろうとする。
「適当なとこでやめてもよかったのに、お前って本当にムバッチョ、程度を知らないよな」
「ムバッチョ」はもちろん私の造語だが、なんとなく意味がわかってきたように感じないだろうか。
きっとそれは「文」、より正確に言うのであれば表情、発音、雰囲気、その他全てを含めた「文脈」からこれは把握されたのだと思う。

一見して「語」しか使っていないように見える時も同様である。
そこには多くの場合すでに「文」が隠されている。
息子が発した「パパ!」もそうである。
それはもしかしたら
「パパ!(に側にいてほしい!)」
かもしれないし
「パパ!(のことが大好きだよ!)」
あるいは
「パパ!(はあっちいって!)」
かもしれない。
ただの音ではなく、意味をもった「語」を使う時、そこには少なからず「文」が生じているのではないだろうか。
つまり息子はすでに「文」を使い始めているということになる。
それを声に出すことはできずとも、言葉を使って自らを表現し始めたのだ。
息子は、実に多くのことを私に気づかせてくれる。
本当に楽しみである。
彼自身の言葉によって表現される彼の人生を見るのが。