以下の内容はhttps://papa-atama.hatenablog.com/より取得しました。


ににと考える【 神様はいる? 】

私は幼少期をシリアのダマスクスで過ごした。

そんな私の当時の絵には必ず描かれるものがあった。

それはタマネギの形をした屋根を持つ宗教施設、モスクである。

私の生活圏にはモスクがあり、そこに集う人々や礼拝の様子を見て育った。

シリアの人々の生活の中には宗教が深くしみこんでおり、そうした環境で育った私にとって、神様はごく身近な存在だった。

神様は、いつも一緒だった。

 

小学生になって、私は日本に引っ越してきた。

ある日のこと、くしゃみをした友人に私は言った。

「God bless you」

友人が意味を尋ねてきたので、私は日本語で繰り返した。

「神のご加護を」

すると友人は笑いながら答えた。

「何の神やねん!」

友人にとっては何でもない発言だったのだろう。

しかし私はその時、静かに驚いていた。

私にとって神とは、「何の」とは問えない存在であった。

神は神であって唯一絶対なのだから。

しかし友人にとってはごく自然に、「何の」と問える存在だったのである。

その時初めて私は考えた。

神って…なんだ?

 

 

にに「神様っていると思う?」

今日のテーマが決まった瞬間だった。

私「パパは信じてる、けどににはどうしてそれが気になったの?」

ににはじっくり考え、少しずつ整理しながら神様の存在が気になっている理由を説明してくれた。

簡潔にまとめるにこういうことらしかった。

年齢を重ねるごとに、できることが増えている。

しかしできることが増えるほど、相対的にむしろできないことの多さに気付く。

どうも自分には、どんなに頑張ってもできないことがあるようだ。

しかしそれには何か理由があるのだろうか。

もしも世界を創った存在がいるとして、どうしてこんな風に創ったのだろう。

概ねそういったところから、神様のことを考え始めたらしい。

にに「生徒さんには聞いたことある?」

ににが実際に私の生徒に会ったことは数える程度しかない。

しかしこういった複雑な問題を考える時、彼は決まって生徒の考えを聞きたがるのであった。

高校生の意見を足がかりに自分の考えを作る。

にににとって生徒は、もはや偉大な先生であった。

私はある1人の生徒の考えを紹介することにした。

 

生徒「神様の正体がわかりました」

それは実に大胆な宣言であった。

私「ずばりその正体とは?」

生徒「『甘え』じゃないでしょうか」

取りようによってはかなり辛辣な回答かもしれない。

だが時にタブーな表現も含めて自由に吟味できるのが倫理の楽しみだ。

私「もう少し詳しく教えてもらっていい?」

私は深掘りしてみることにした。

生徒「僕の思うに、人間は1人で生きていくことができない。

そのため他人や社会など、何かに依存して生活せざるを得ない。

この依存を良しとする態度が『甘え』です。

しかし他人や社会には限界があり、全てをカバーしてくれるわけじゃない。

それでも何かに甘えたいという強い願いの果てに姿を現すのが、神ではないでしょうか。

どんなことでも受け入れてくれる超越的存在、最も信用できる依存先、いわば究極の甘えが神だということです」

なるほど、何となく言わんとしていることが見えてきた。

私「それで君は、そんな神をどんな風に評価しているの?」

生徒「克服すべきものと捉えています」

私「なんで?」

彼はよくよく脳内で概念を整理するように丁寧に語り始めた。

生徒「1人で生きることが出来ない以上、甘えは本来必要なことです。

人間は何かに依存しながら生きていくほかありません。

がしかし、それにもバランスが大切で、過度な甘えはむしろ毒だと思います。

神が必要になることの背景には、人の、ひいては社会の弱さがあります。

人や社会が弱いほど、神の存在感は増すのではないでしょうか。

神の存在は人を癒やしますが、同時に人を弱くしてしまう。

弱くてもいいと、人を許してしまうのです。

それは問題から目をそらすことにも繋がり、結果として解決を導かない。

人や社会は、もっと成熟していかねばなりません。

例えば災害があったとして、とある人が多くを失ったとする。

そんな時、神にすがりたくなるとしたら、それは社会の未熟がそうさせるのではないか。

仮に悲劇があったとて、ただちに住む場所が、温かい食事が、経済的な支援が、優しい言葉が、十分にあてがわれたとしたら、その人は超越的な存在にではなく現実に救いを見るでしょう。

私達はそういった方向に進むべきであって、進める段階にあると思う。

神の歴史的役割は終わりに向かいつつあるのではないでしょうか」

 

私「ににはどう思う?」

一通りの説明を終えた後、私はバトンをににに戻した。

にには時間をかけて一生懸命考えながら言葉を紡ぎ出した。

にに「生徒さんの神様とににの神様は、結構違うかもしれない。

ににの神様は、ににの言葉を聴いてくれるばっかりじゃない気がする」

私「聴いてくれるばっかりじゃない…というのは例えば、逆に神様の方がににに語りかけてくることもあったりするってこと?」

にに「そういうこと」

神の言葉を預かることができるのだとしたら一大事だが、これは真意を得る必要がある。

にに「ににの神様は時々、『こうした方がいいよ』って教えてくれるんだ」

私「それは例えばどんな時?」

にに「例えばととちゃんが泣いている時には『頭を撫でてあげるといいよ』って教えてくれたり、クラスの誰かが困ってる時には『助けてあげた方がいいよ』って教えてくれる」

どうやらににの神様は、善を導いてくれるような存在であるようだ。

にに「ににの神様はね、にににとって苦しいことを言ってくることもあるんだ。

例えば、宿題をするのが面倒くさいと思ってる時に『早めにやった方がいいよ』って言ってきたり、誰かに意地悪をしてるような怖い子に『立ち向かった方がいいよ』って言ってきたりする」

私「そういう時、ににはどうするの?」

にに「神様の言う通りにできるときもあるし、できない時もある。

でも神様が言ってくれると、少しだけ勇気がわくんだ。

そこが多分生徒さんの考える神様と一番違うところだよ」

私はににの言わんとしていることを推察し、言葉に置き換えて確認してみた。

私「生徒の考える神様は人を弱くするけど、ににの考える神様は人を強くしてくれるってこと?」

にに「多分そうだと思う、でも…」

ににはしばらく考えると、少し微笑みながら言葉を結んだ。

にに「やっぱりよく分かんないかも」

 

考え疲れたのか、ににはすっかり寝入っていた。

その寝顔を見ながら、私はダマスクスにいた頃を思い出していた。

あの頃、私は神に何を感じていただろうか。

皆で一緒に祈りを捧げていた時、私は別に、弱くなっているとも強くなっているとも感じていなかった。

祈りの中で私が感じていたもの、それは…

弱さも強さも全てを包みこむような温もり、私達は皆違うが皆一緒であるという実感、何者もぞんざいには扱いたくないという気持ち、神という概念を通じて存在を確認しあう喜び…

ににとの問答は、時に私自身の再発見にも通じることがある。

漠然としたイメージを脳内に浮かべながら、やがて私も眠りについた。

ににと考える【 自分って何だろう 】

にに「最近考えてることがあるんだ」

改まった様子でにには語り出した。

私「どんなことを考えているの?」

にに「言葉にするのが難しいんだけどね…」

哲学はいつだって言葉にするのが難しい。

概念は目に見えないからである。

重要なのは語りの正確さではなく、語ろうとする意思だ。

にに「自分って何なんだろうって、それがわからなくて困ってるの」

これはどうも実存的な話になりそうな気配だ。

にに「自分の名前や年齢、立場はもちろん知ってるよ。

でもそれだけじゃ、にには何なのかを全然あらわせてない気がするんだ。

そんなの誰でも持ってるからね」

外面的な情報だけでは個人を説明しきることはできないということか。

にに「もしもににが、ににが何なのかをわからないままでいたら、きっととんでもないことになる」

私「とんでもないことって?」

にに「きっとにには『何をしたらいいのか』わからなくなる。

それどころか『何をしているのか』もわからなくなっちゃうかも。

朝起きて、ご飯食べて、学校で勉強してる。

だけど、それってつまり何をしているのか、肝心の部分がわからないまま生きることになっちゃうんじゃないかな」

何となくににの言わんとしていることが見えてきた。

私はかのサルトルの主張を頭の引き出しから取り出しつつ、考えを整理してみることにした。

私「にに、ハサミっていう道具があるよね。

あれはどんな風に使うんだい?」

にに「紙を切るのに使うよ」

私「そうだよね。

ここで重要なのは、ハサミは紙を切るために作られたのであって、その逆ではないってことだよ。

ハサミが先にあって後から使い方を思いついたのではなく、目的が先にあってそのためにハサミが作られたんだよね」

にに「そうだと思うけど、それがどうかしたの?」

首をかしげるにに。

私は例えとににの疑問とが結びつくように注意しながら説明を続けた。

私「人間は逆なんじゃないかって指摘した人がいるんだ。

道具は目的が先にあって作られるけど、人間はその目的も分からないままに産まれちゃう。

だから後から目的を考えないといけなくなるんだってその人は言った。

今のににみたいにね」

にに「なるほど…

じゃあこれは、皆も同じように悩むことなのかな」

私「悩まずに済む人もいるだろうけど、深く悩みこんじゃう人も少なくないね。

例えばパパがいつも関わっている高校生の中には、しばしばこの問題について真剣に考える子がいるよ」

にに「その子たちはどんな風に考えてるの?」

自分とは何か、この問いに対する生徒の回答は実にバリエーションに富んでいる。

そのこと事態がこの問いの奥深さを物語っているわけだが、私はあえて実存主義的ではない回答をした生徒を紹介することにした。

 

ある日の授業終わり、1人の生徒が私のところに来て語り始めた。

生徒「僕はね先生、結局のところ自分なんてものは存在しないんじゃないかって思うんです」

どうも結論が出たかのような調子である。

私「っていうのはつまり?」

私は例によってあれこれ聞き返してみることにした。

生徒「これが自分だ、なんて断言できるような確固たる主体は存在しないって事です」

私「そうは言うけど、現に君は私の目の前にいて、あれやこれや考えて答えを返してくれているじゃないか。

それができるのは他でもない、君という主体がいるからじゃないのかい?」

生徒は一度深く息を吐くと、そのあたりのことはもう何度も考え済みだとでもいった様子で説明を続けた。

生徒「僕も最初のうちはそう思っていました。

でもよくよく考えてみると、どうもそれが違うようなんです。

確かに、今ここにはあれこれ考えている僕がいます。

でもそれは環境が作りだしたものに過ぎないのではないでしょうか」

私「もう少し詳しく教えて」

生徒「どんな人間になるかは環境が決めているんじゃないかと思うんです。

生まれた時代、生活している社会、身を置いている組織、そうした環境が自分を作ってるって事です。

自分なんてものは、後天的に作られたものに過ぎない。

逆に言うと、生まれた時から変わることのない先天的な自分なんてものは存在しない。

僕は自分について悩んでいるつもりでいましたが、そんな悩みを持つことすらも、環境がそうさせているに過ぎないのかもしれない。

漠然とした『自分という感覚』はあっても、肝心の『自分そのもの』はないってことです。

僕の性格は、僕が作ったわけではありません」

 

生徒の考えを伝え終わるやいなや、私は早速質問してみた。

私「ににはどう思う?」

生徒の主張は極端かもしれない。

しかし学校という組織の中に長く身を置き、人生のレールを意識させられがちな高校生の中には、外的な環境が自分を規定しているんだと考える子も少なくない。

ににもそんな学校に身を置いて1年、どう感じるかが気になった。

にに「それは違う」

強い否定に私はちょっと驚いた。

にには大概、自分の考えの後ろに『と思う』をつける。

そういう慎重さがあるのに今回はあえてそれをつけなかったわけだから、これは拘りがありそうである。

私「どうしてそう思うの?」

にに「……」

黙りこくってしまった。

違うとは思うものの、どう違うのか説明が難しいということのようだ。

私はあえて揺さぶりをかけてみることにした。

私「ににのクラスにはタケシくん(仮名)って子がいるよね?

なかなかの乱暴者らしいけど」

にに「うん。

ににも殴られて怪我したことがあるよ」

ににに限らず被害にあった生徒は少なくないようで、担任の先生も苦慮しているようであった。

私「そんなタケシくんも、このところはだいぶおとなしくなったって聞いたよ」

にに「そうだね」

私「何でタケシくんはおとなしくなったのか。

それはさ、色々と問題が起きたことをきっかけに担任の先生や保護者、周囲の大人達がタケシくんに対して厳しく指導したからじゃないかな。

だとしたら、タケシくんの人となりは環境によって作られてるってことになりはしないかい?

周囲の環境によって、乱暴者としての性質は矯正され、おとなしくなったってこと」

思わず頷いてしまうような説明を試みたつもりだ。

しかしにには静かに首を振ると、とうとうと反証を始めた。

にに「それは違うよパパ。

ににはタケシくんのことをよく見ていたからわかる。

タケシくんは人に言われたから変わったんじゃない。

自分で変わったんだよ」

私はまたしても驚いた。

私の説明に全く揺さぶられていないこともそうだが、私はてっきりタケシくんに対するににの好感度は低いものと予想していたこともあり(故にあえて例示する人物として彼を選んだ私のやり方は卑怯である)、そんなタケシくんを擁護するともとれる発言は意外であった。

にに「先生は確かにタケシくんを何度も注意してたよ。

でも注意がタケシくんを変えたわけじゃないんだ。

それはただのきっかけだよ」

私「なんでそう思うの?」

にに「いつだってどうするかを選ぶのは自分だからだよ。

何度注意されても、それを全部無視することだってできたんだ。

でもタケシくんはそうしなかった。

思うところがあって、自分で変わることを選んだんだ」

問いに対する回答例として、件の生徒を紹介したのは正解だったかもしれない。

というのも生徒とににとでは、立場が対照的だからである。

生徒は、自分と呼べるようなものは存在せず、全ては環境がつくりだしたものに過ぎないと考えた。

一方にには、奪うことの出来ない自分が存在し、環境がどうあれ決定権は自分にあると考えた。

にに「タケシくんはね、どんどんタケシくんらしくなっていってるんだよ。

タケシくんってどんな人なのか、タケシくんにとっても、それがだんだんわかってきてるんだ」

そこまで話すとにには急にまた黙りこくり、しばらくして口を開いた。

にに「そういうことなのかもしれない…」

何か理解した風だが、私は置いてけぼりを食らっていた。

私「どういうこと?」

にに「にには今、自分を見つけている最中なのかもしれない。

ににの中に、ににはある。

でもそれはすぐには見つからないんだ。

タケシくんみたいに、色んな経験からきっかけをもらって、少しずつ見つかっていくものなのかもしれない。

だとしたら…自分が何なのかわからなくても、自分が何をしているかはわかる」

どうやらひとまずではあるものの、納得のいく着地点を見いだせたようであった。

問いに対する回答は多様だが、それはなかなか希望の持てる考え方であるように私には感じられた。

 

ととも妻も、もうとっくに寝入ってしまっていた。

さっきまで語り合っていたににも、やがて静かに眠りについた。

しかし私はというと、なかなか寝付けずにいた。

ににの考え方に則るのであれば、ににはこれからますますににらしくなっていくのだろう。

こんなに楽しみなことがあるだろうか!

私はなんて幸運なのだろう。

ににと考える【 何で勉強するの? 】

生徒「現代ってもう勉強する必要ないと思うんすよね」

それは期末考査まで残り1週間をきったある日の教室での生徒の発言だった。

私「どうしてそう思うんだい?」

生徒「だってこれがあるじゃないすか」

生徒はポッケからスマホを取り出すと私に示して見せた。

生徒「昔は何かを知ることにすごい価値があったんだと思います。

というのも知ること自体のハードルが高かったからです。

でも現代は違う。

何かを知ろうと思った時、いとも簡単にそれを達成することが出来る。

いつでも何でも知ることが出来るなら、予め勉強しておく必要性なんてないんじゃないかと思うんすよ」

何で勉強するのか。

それは学び手にとっては言うまでもなく、教え手にとっても重要な問いかけであった。

その日の夜、私はにににこのエピソードを紹介した。

にには私に聞いた。

にに「それでパパは何て答えたの?」

私が教え手として学びの必要性を訴えたのは当然として、ににが気になっているのはどんな根拠を持って私がそれに答えたのかという部分であった。

正直に言うとこの問いは教師にとって常に念頭に置かれると言っても過言ではないものであり、その答え方についても何通りも用意がある。

私は今回生徒に対して、学びが人生に与える好影響を強調するような答え方をしていた。

私「勉強は人生の選択肢を増やしてくれるんじゃないかって答えたよ」

にに「選択肢を増やす?」

私「そう、選択肢。

例えばパパは最近毎日英語の勉強をしてるよね?」

にに「うん、横で聞いてるうちに、ににもちょっと英語詳しくなってきたよ」

隣で一緒に勉強してくれるににの存在は、私のモチベーションにも影響している。

私はににに感謝しなくてはいけない。

私「ところで何でパパが英語の勉強を始めたかは知ってる?」

にに「面白いから」

私「確かにそれはある。

ただ今回は、昨年からパパの同僚になったカナディアンの存在がきっかけなんだ。

彼はすごく素敵な人でね、パパは彼ともっと仲良くなりたいって思ってる」

にに「いっぱいお話するといいんじゃないかな」

私「まさにそこなんだ!

いっぱいお話したいんだけど、いかんせんパパの英語力が足りなくて伝えたいことが表現しきれないんだよ」

にに「それで英語勉強してるの?」

私「その通り。

スマホを使えば翻訳はできるけど、毎回調べてるんじゃ会話は難しい。

ここで最初に言った話に戻る」

にに「選択肢のこと?」

私「そうそう。

英語を勉強しなくてもパパは生きていけるかもしれない。

でもそれじゃ同僚と仲良くなるって選択肢は選べないかもしれないよね。

逆にここで英語を勉強しておけば、同僚と仲良くなれるのはもちろん、これからもっと色んなことができるようになるかも」

にに「確かに!」

私「選択肢がない人生より、選べる人生の方が豊かだと思わないかい?

勉強はまさにその選択肢を増やしてくれると思うんだ」

にには大いに納得した様子で何度も頷いてくれた。

話を聞いて共感してくれたのは嬉しい。

ただこういった話をする時、教え手には注意しなければならないことがある。

それは、自分の考えで相手を染めあげてしまわないようにすることだ。

幼い子供が相手の場合、これは特に気をつける必要がある。

 

私「ににはどう思う?」

私は、ににが私の考えをそのまま受け入れ、その反動で自らの思考を止めてしまってはいないか心配した。

だが幸いなことに、それは杞憂であった。

にに「実はにには全然違う風に考えてたんだ」

私「聞かせてくれるかい?」

にには頭の中で言葉を整理するようにゆっくりと息を吸うと、静かに説明を始めた。

にに「勉強は、間違いに気付くためにするんだと思う」

私「なんでそう思うの?」

にに「ににはね、善いことがしたいっていつも思ってる。

ににが何かを考えられるようになった時から自然とそう思ってるんだ。

でもいざ善いことをしようとした時に、困ることがあるの」

私「何が困っちゃうの?」

にに「肝心の〝何が善いことなのか〟がわかんなくなっちゃうんだ。

それでたまに善くないことをしちゃうの」

 

それを聞いてふと思い出したことがある。

ある日のこと、寝室の隅でににがうずくまっていた。

体調でも悪いのかと声をかけたところ、ににはこんな風に答えた。

自分は善いことだけをして生きていくことはできないかもしれない、それに気付いて悲しいのだと。

その時は何か上手くいかないことでもあったのかと思い、失敗を経ずして成功を得るのは難しいこと、誰もが最初から思ったように生きられるわけではないことを語り励ましたつもりでいたが、今になって彼の考えが少し明瞭になった気がした。

 

にに「だけどね、勉強してるとちょっとは善くできる気がしてくるんだ。

変な話なんだけど、善いことはわからなくても、善くないことはわかる時があるの。

勉強してるとね、間違ってることがあった時、それに気付くきっかけがもらえる気がするんだ」

なるほど、勉強することはにににとって、過去の悩みへの打開策でもあるようだ。

にに「パパ、怒らないで聞いてね。

パパは色んな事をににに教えてくれてる。

だけどににはね、もしかしたらパパの言うことは全部間違ってるのかもって思ったりするんだ。

勉強していれば、いつかそれもわかる日が来る気がする」

怒るだなんてとんでもない。

むしろ私はににのその言葉に頼もしさすら感じていた。

私は、私の考えにににが染めあげられてしまうことを恐れていたが、その心配は不要なようであった。

にに「間違いに気付くことができれば、きっとその分だけにには善いことができるんじゃないかなって思うんだよね」

その言葉からは、善いことがしたいという動機と、勉強という行為とが、有機的に結びついていることが感じられた。

私「にに、聞かせてくれてありがとう。

なんだか勉強になったよ」

 

今日はこれくらいでお開き、後は寝るだけ…と思ったその時。

にに「でもねパパ」

おもむろにににが口を開いた。

私「なんだい?」

にに「勉強しなくていいって言ってた子のことなんだけど、多分その子、本当にしなくていいと思ったわけじゃないと思うよ」

何か考えがあるようだ。

私「どうしてそう思うの?」

にに「だってその子、わざわざパパの前でそれを言ったんでしょ?」

私「ん?そうだけど?」

にに「じゃあ多分聞いて欲しかったんだよ。

自分の考えに自信が無かったから、一緒に考えて欲しかったんじゃないかな?」

確かに可能性としてはあるかもしれない。

しかし…

私「なんでそう思ったの?」

にに「ににもよくパパにそれをやるからだよ」

そう言ってににはニヨっと笑うと、やがてすーすーと寝息を立て始めた。

パパの育児講演会にて得た気付き

稲城市立iプラザさまよりご依頼いただきまして、パパの育児について講演してきました!

その様子をちょっとだけ報告させてください。

今回の育児講演、最大の特徴はなんといっても参加者が男性限定であったこと!

過去にも自治体さまや企業さまからご依頼いただいて育児についてお話したことは何度かありましたが、その参加者の多くは女性でした。

9割以上が女性という講演会もあったくらい。

といった過去の経験に反して、今回はまさかの全員男性!

ギャップが大きく、「参加して良かった!」と感じてもらえるような講演にできるか、正直不安な気持ちもありました。

が…!

実際にやってみたらそんな心配は吹っ飛びました!

参加してくださった皆さんが非常に意欲的で、その視座も高く、こちらの質問に対しても返ってくる返ってくる!

講演者として本当に嬉しかったです。

また今回は初めての試みとして、テーマを投げかけて互いに話し合うグループワークを実施してみたのですが、これが白熱…!

投げかけたテーマとしては例えば…

  • 子供を持つに際してどんな期待や不安があったか?
  • 豊かな育児のために絶対に必要だと思うことは何か?
  • 仕事と家庭を両立する上で行っている工夫は?
  • パートナーとうまくいかない時はどうやって解決してる?

などなど様々でしたが、いずれも皆さん真剣に議論してくださり、時間を目一杯つかって尚足りなくなる事態に。

「話を聴くばっかりでも退屈してしまうだろうから」という進行に変化をつけたい目的もあって設けたグループワークでしたが、そちらがメインでも良かったというくらいでした。

 

そんな様子を見ていて感じたことがあります。

それは「男性も本当は色々お話したかったんだな」ということ。

育児の場面における男性というと、自分も含めてどこか所在なさげにしている印象がありました。

子供の送り迎えや保護者会などの場においても、お母さん同士は賑やかにお話しているのに対し、お父さんは様子を伺いがちで、うまく輪に入れないようなところがあると思っていました。

それは必ずしも消極的であるということではなく、「育児も家事も主体的に頑張っていきたい!」と思っていても、大きく変化しゆく意識や社会の中で、自分の役割や立ち位置を掴みきれずにもがいているような感じ。

このヤキモキした状態を乗り越えていくために何ができるだろうと考えていましたが、今回のグループワークで少し道が見えた気がします。

自分の考えを言葉にして伝えること」「それを誰かに聞いてもらうこと」そんな当たり前のことが実は一番重要なのかもしれない。

そうやって相互にやり取りしながら、考えを深めあう機会がもっとたくさんあってもいい、そんな風に感じました。

生活の中でもパートナーを始めとして、友人や同僚など言葉を交わしあう相手はもちろんいると思います。

でも継続的な人間関係がある中ではなかなか言いづらいこともあるでしょう。

講演という基本的には一期一会の関係性だからこそ、いい意味で責任を感じることなく、気兼ねのない状態でやり取りできたのかもしれません。

参加者の方からいただいた感想として「もっと開催した方がいいですよ!」「東京だけでなく地方にも来てください!」といった言葉がありました。

手応えを感じると共に、もしも何かお役にたてることがあれば是非またこういった機会をつくってみたいと思いました。

こちらのブログを読んでもしも関心を持ってくださった方いらっしゃいましたら、お声がけいただけたら幸いです。

ににと考える【 相対主義・絶対主義 】

ににと考える相対主義・絶対主義

 

私「にに、今日は寒かった?」

にに「ん~ん、別に寒くなかったよ」

子供は風の子というが、ににはまさにそれで、多少の寒さではへこたれない。

私「そうかい、でもパパにとってはかなり寒かった気がするな」

にに「パパは寒がりだもんね」

私は昔から体が強くない方で、平気体温は36℃を下回る勢いだし、血圧は上が90いくかいかないかといった有様なのだ。

もはや「生きている」というよりも「死んでない」という方が正しい気すらしてくる。

私「しかしよく考えてみるとちょっと不思議じゃないか?」

にに「何が?」

私「パパもににも一緒にいたのに、パパにとって確かに「寒さ」はそこにあった。

でもにににとって「寒さ」はそこになかったんでしょう?

となると、「寒さ」そのものはいったい何なんだろうね」

これがその日のお話の始まりだった。

私は相対主義について説明を試みた。

私「「幸せ」という概念がある。

その意味はににもわかるね?」

にに「わかるよ、にには幸せだよ」

彼はいちいち可愛いことを言ってくるので集中力が鈍りそうになるが私は続けた。

私「「幸せ」とは何か、その意味は分かる。

だけど肝心の何を「幸せ」とするかは人によって違ってくるんじゃないかな。

例えば、体を動かすのが好きな人にとっては体育の授業は「幸せ」だろうけど、逆に嫌いな人にとっては「幸せ」じゃないかもしれない。

「幸せ」そのものが確かにあるのではなくて、何を「幸せ」とするかはその人次第だってこと。

こういう考え方を相対主義っていうんだ」

にに「さっきお話してた「寒さ」も相対主義かもしれない?」

私「そうだね。

もしこの立場に立つのなら「寒さ」そのものはないってことになる。

あくまでパパにとっての「寒さ」、にににとっての「寒さ」があるだけだ」

にに「…う~ん」

にには考え込んでしまったが、私は続けることにした。

私「極端な相対主義者は全てにこれを当てはめようとする。

つまり、「寒さ」も「幸せ」も、「人生」も「人間関係」も、ぜ~んぶ相対的なものだっていうんだね。

にには、全てのことは相対的だと思う?」

検討には時間を要する問いだ、私は今日のお話はここまでになるかもしれないと思った。

だが予想を裏切り、にには即答した。

にに「違うと思う」

私「なんでそう思うの?」

するとにには窓の外を指さして言った。

にに「今日は土砂降りだね」

しかし今日は雨なんて降っていなかった。

それどころか雲ひとつなく、夜空には月がはっきりと見えていた。

一瞬、私は戸惑ったが、すぐに意図を理解した。

私「にに、今日は快晴だったじゃないか」

にに「ん~ん、今日はものすごい雨だった。

「にににとっては」ね」

なかなか小粋な返答である。

私は少しばかりこれに付きあうことにした。

私「実はにに、言ってなかったことがあるんだけど…パパはまだ18歳なんだ、「パパにとっては」ね。

まだまだ若くて何だって出来る年だよ」

にに「ん~ん、パパは37歳で、もうおっさんだよ」

残酷な現実を突きつけられてしまった。

私「その通りだ、にに。

「パパにとっては」18歳なんだ、って主張を押し通すのは難しいよね」

にに「全てが相対的だとは言えないと思う」

ぐぅの音もでない。

私はににの理解を喜び、もう少し話を深めてみることにした。

 

私「にに、今日はもう一つお話してみようか」

にに「するする!」

こうも喜んでくれるのでは、我慢できないというものだ。

私「絶対主義って考え方がある。

「寒さ」にしても「幸せ」にしても、「愛」だとか「真理」みたいな抽象的なものにしても、「それはこういうこと!」っていう絶対的な答えを認める立場のことをそう呼ぶんだ。

さっきまで話してた相対主義とは対称的で、人それぞれなんていう風には考えない。

極端な絶対主義者は全てにこれを当てはめようとする。

人はしばしば誤解したり見誤ったりするけど、本当のところ答えは一つだけだっていうんだね

にには相対主義を批判したけど、絶対主義が正しいと思う?」

にに「………」

考えモードになってしまった。

ににの返答を待っている間、私は高校のことを思い出していた。

 

お察しかもしれないが、私はこうした質問を高校の倫理でも投げかけている。

ある生徒はこんな風に答えた。

生徒「わかりません。

仮に愛や真理について明確な答えがあったとしても、人間にはそれを知ることはできないと思います。

知る能力がないのだと思う」

私「つまり絶対主義の立場は採用できない?」

生徒「いえ、それでもボクは絶対主義の立場をとるべきだと思います」

私「何故そう考えるの?」

生徒「その方が“優しい”からです」

私「優しい…?」

生徒「相対主義は、個々人の主張を自由に認めてしまいます。

誰も何も否定できない。

それはつまり何でもありということであって、突き詰めると言ったもん勝ちになりかねません」

私「でも絶対的な答えについて、我々は知り得ないんでしょう?」

生徒「はい、そう考えます。

実際にはそうなのだと思う。

がそれでも尚、絶対的な答え、何かしらの軸足、基準をボク達は設けないといけないと思います。

ボク達はそれを「知る」のではなく「選ぶ」必要があるのではないでしょうか」

私「何故?」

生徒「明確な基準無くして正義は成立しないからです。

曖昧な基準、言ったもん勝ちの世界に正義はありません」

私「君の言う正義とは?」

生徒「公平であることです。

基準が公平さを担保し、それが正義の根拠となる」

私「それはなかなか、優しいというよりはストイックな価値観な気がするね」

生徒「一見してそう見えるかもしれません。

ただ長期的に見れば、ボクの考えは優しいはずです」

 

にに「…えっとね」

意識をににの方に戻す。

にに「にには絶対主義もあぶないと思う」

私「それはなんで?」

にに「誰かが仲間はずれにされちゃうから。

例えば学校に行くのは絶対正しいって言われたら、行きたくない人は悲しいと思う。

絶対って怖いよ」

何か思い当たるものがあって語っているような言いぶりである。

経験が言葉を作っているように私には感じられた。

私「となると、ににはどちらの主義も採用しないってことかな?」

にに「ん~ん、どちらの主義も採用する」

私「???…えっと、どういうことだろう?」

にに「ん~っとね、場合によって違うというか…悲しませないようにするためには、相手がどういう風に思ってるかで変えないといけない気がしてて…」

しどろもどろの説明ではあったが、私は整理を試みた。

私「もしかしたらこういうことかな?

一つのやり方しか認められていないと誰かが悲しくなっちゃいそうな時は相対主義をとるけど、一つのやり方でまとめておかないと誰かが悲しくなっちゃいそうな時は絶対主義をとる。

こんな感じ?」

にに「多分そう、そんな感じだと思う!」

何となくわかってきた。

にににとってはきっと、「どちらの主義を採用するか」よりも「何故その主義を採用するか」の方が大事なのだ。

考え方はいわば物差しのようなものに過ぎず、どの物差しを使うかは常に選べる。

選ぶ理由の方がにににとっては根っこなのだろう。

にに「気持ちが大事なんだと思うんだよね

気持ちで主義を選ぶのかもしれない」

その方が“優しい”気がする」

優しい…アプローチにこそ違いはあるが、生徒も念頭に置いていた概念だ。

もう夜も遅くなっていたが、私は最後に一つ質問することにした。

私「にには気持ちで選ぶって言ったね。

その気持ちってどんな気持ちのことなの?」

にに「みんな大好き!っていう気持ち」

ピュアがすぎる…!

7歳はこういうところがずるい、37歳のおっさんが同じ事を言ってもひっぱたかれそうである。

しかし…それは存外本質的かもしれないと思った。

ににと考える【 功利主義 】

就寝前の約30分、布団に入り枕灯をつけて各々自由に過ごす、それが私とにに(長男)の日課だ。

大概は本を読んで過ごすのだが、時々ににからお話をせがまれることがある。

様々なお話の中でも、ににがとりわけ好むのが高校の授業の話。

私は学生たちに倫理を教えており、ににもまたそれを知っていて、倫理を学びたがるのである。

せっかくの1対1の授業、語ってばかりではににも退屈だろうと色々と質問を投げかけてみるのだが、その回答がなかなか面白い。

やりとりの数もたまってきているが、何もしなければいつかは忘れてしまうだろう。

それももったいないように思い、記録を残すことにした。

ある日の夜、テーマは功利主義であった。

私はベンサムやミルを引用しつつも極力平易な言葉に置き換えて説明を試みた。

功利主義とは結果に基づいて幸福を最大化しようとする思想であり、その目的を達成するための方法として、しばしば報酬や制裁が用いられることを強調した。

私は例をあげることにした。

私「例えば教室の掃除をさぼった生徒がいたとして、そのせいで教室が汚れてしまったとする。

こうした事態を防ぐために、以降掃除をさぼった生徒がでた場合は罰を与えることにする。

すごく面倒くさいお手伝いをさせるとかね。

すると生徒たちはこの制裁を回避しようと掃除をさぼらないようになり、結果として教室は綺麗に保たれる。

こういうやり方は功利主義的だね」

に「なるほど、逆もそうなの?」

私「聡いね、その通りだよ。

例えばテストでいい点数をとったらゲームを買ってあげる約束をしたとする。

するとこの報酬がその子のやる気を刺激して、結果としてよく勉強するようになる。

これもまた功利主義的なやり方だ」

に「よくわかった。

ところでそれは善いやり方なのかな?」

正直言うと、私は少し驚いた。

というのも、ににが功利主義を理解しようとするだけに留まらず、その妥当性を検証しようとしてくれたからだ。

考えを知り、それを用いてさらに考えを深めようとする、そういう姿勢を持ってくれること程、倫理教師にとって嬉しいことはない。

私はあえて聞き返した。

私「ににはどう思う?」

ににはしばらく黙ると(ににはこういう時本当に黙る。それも結構な長時間。5分以上黙る時もあって、聞いたこちらが「え?もしかしてこの会話もう終わった?」と焦るくらいである。でも大概はちゃんと考えている)静かに答えた。

に「わからない。少し時間が欲しいかも」

その日はこれでお開きとなった。

 

 

後日、私は高校生に同様の質問、功利主義は善いやり方か否か、を投げかけてみた。

余談だが、私は高校生に対してもににに対しても、言葉の使い方や引用する事例にこそ違いはあれど、倫理についてほぼ同じ内容のことを伝えている。

「子供には難しすぎるのでは?」と言われることもあるが、まったくそんなことはないどころか、むしろ侮れないことも少なくないくらいだ。

数学や国語などの実学は学習に段階を経る必要があり、ある程度時間がかかる。

しかし倫理は、年齢を問わず誰もが取り組めるし楽しめる、と個人的には考えている。

話を戻そう。

私の問いかけに対して、生徒達は実に様々な回答を示してくれた。

その全てをここに書くことは控えるが、印象に残ったものを1つ紹介したい。

とある生徒はこんな風に答えた。

生徒「条件によっても善し悪しの妥当性は変わると思いますが、少なくとも学業については功利主義的なものを採用すべきではないと思います。

頑張ったらゲームを買ってあげる、といった方法は極力避けるべきです」

私「そう考えるのは何故?」

生徒「手段が目的となってしまうからです」

これは比較的よく指摘される功利主義の難点の一つだ。

彼は続けた。

生徒「学業において、その目的は学業そのものにあるはずです。

学びを通じて自らを成長させ、人生の選択肢を広げることこそ目的です。

しかしそのための手段として報酬を設定してしまうと、その報酬が魅力的である程、手段であったはずの報酬がむしろ目的として機能するように変質してしまう。

端的に言って、ゲームが欲しいから勉強するようになる。

一方、目的だったはずの勉強は、むしろ報酬を得るための手段になりさがり、関係性が逆転してしまう。

これは最悪です」

彼の説明は簡潔でわかりやすく、他の生徒達も頷きながら聞いていた。

私は、生徒たちが質問に対してよく検討してくれたことを喜びつつ、あえて少し意地悪な質問をすることにした(多くの場合、私は生徒が答えてくれた考えや価値観の逆を示すように心がけている。揺さぶりをかけることで、より考えが精査されると考えるためである)。

私「君の考えはよくわかった。

しかしもしそうだとするならば、学業の世界から報酬や制裁を取り除くべきだ、ということになるかもしれない。

頑張ったらゲームを買ってあげる、といった工夫をなくすのはもちろん、悪い成績をとった生徒に対して何かしらのペナルティを課したり、あるいは良い成績をとった生徒を表彰したりするのも避けた方がいいのかもしれない。

学業の結果に対して叱られることはないが、褒められることもない。

その方が良いということかな?」

生徒「はい、その方が良いです。

学業の本質的な報酬や制裁は外部から与えられるべきものではありません」

彼はきっぱりと応えた。

しかし周囲の生徒はというと、先程のように頷いてはいなかった。

「先生や親に怒られないなら、俺はたぶん勉強しないな…」

「私は進学や就職といった報酬に期待して勉強しているかも…」

チャイムが鳴って授業は終わったが、どうやら課題が残ったようであった。

 

 

また別の日の夜、ににがお話をしてくれた。

にに「この間の功利主義の話だけど…」

私「うんうん、聞かせて」

にに「ににはできるだけ功利主義に頼らない方がいい気がする」

私「なんでそう思うの?」

にに「功利主義はとにかくやってもらうことを大事にしていて、何でやるのかってことをあまり考えてない気がするから」

これはとても良い指摘だと感じた。

ににはうっすらとではあるが、結果だけでなく動機についても視野に入れるべきだと考えているようであった。

にに「功利主義は多分、本当に困っちゃった時の最後の手段なんだと思う。

真っ直ぐ向き合えないけど、どうしても進まないといけない時に、ちょっとごまかして無理矢理進むための最終手段なんじゃないかな」

これは面白い表現だと思った。

私「それっていうのは例えば、ととちゃん(次男)が面倒くさがってお着替えをしない、けどそろそろ家をでないと遅刻するって時に、着替えたらお菓子をあげるよって声をかけて行動を促すみたいな感じ?」

にに「そうそう!

本当はちゃんと着替えないといけないことを理解して着替えた方がいいけど、今それやってる余裕がととちゃんに無さそうな時は、しょうがないのかなって」

私「でも本当は頼らない方がいいんだね?」

にに「うん、だって損得と善悪は違うから」

損得と善悪は違う。

さらっと言ったが、これは快楽と善悪をほぼほぼ同一視する功利主義とは別の立場である。

掘りさげようかなとも思ったが(損得と善悪では何が違うの?)、この日はやめておくことにした。

私は学校の話をした。

私「生徒たちがね、褒められたり叱られたりがないと勉強しづらいかもって言ってたんだけど、ににはどう思う?」

にに「にには褒められたら嬉しいけど、叱られたらもうやめちゃうかも」

なるほど。

叱られることを回避するために、いっそ完全に離脱してしまうという選択肢もあるか。

私「どうやったら楽しく勉強できるかな?」

ににはしばし考えた後、答えた。

にに「いつも隣にいてくれたら楽しいと思う」

私「というと?」

にに「勉強してて楽しい時もあるけど、楽しくない時もある。

でもどんな時も傍で様子を見てて、お話してくれたら楽しい気がする」

私「何かがわかった時に、一緒に喜んだりとか?」

にに「何かがわからなくても、一緒に悩めたら楽しいかも」

ん~…なるほど。

私は整理した。

私「つまり互いに状況を理解したり共有したりすることができれば、結果がどうだろうと楽しくできるかもしれないってこと?」

にに「そういうことかも!」

まだまだ話していたかったが、時間が来てしまった。

私が灯りを消すと、にには間もなく眠りについた。

 

 

私はににが答えてくれたことを反芻していた。

生徒たちには楽しく学んでもらいたい。

そのためにはもっと彼らの状況を理解したり共有したりする必要があるのかもしれない。

子供の頃はもっていた素朴な好奇心は失われ、まるで労働のように学校に通う子がいるとしたら、それは先の生徒が指摘したように、目的と手段とが逆転してしまっているのかもしれない。

だとしたら、教師の役割はとにかく生徒を学校に通わせることではない。

学びの喜びを思い出して貰うことにこそある。

「ここテストに出るからしっかり覚えておけよ!」

それだけは絶対に言わないようにしよう、そう思いながら私も眠りについた。

クソゲーハンターN

青春…若く溌剌とした時代!

ある者はスポーツに汗を流し

またある者は恋に生きる

 

儚くもまばゆい光を放つ人生の黄金期に一人、鈍色に沈む男がいた。

名をN頭、高校時代の私である。

 

私には朋友がいた。

中村、奇しくも頭文字はNである。

二人に居場所はない、恋人もいない。

しかし趣味があった。

それは…

 

クソゲーハンティング

 

数多あるゲームソフトの中から、至高のクソゲーを探しだす遊戯。

それは、挑戦をよしとするフロンティアスピリットを動機としながらも

他方では失敗を約束されたデカダンスを内包する地獄の戯れであった!

 

説明させてほしい!

 

ネット技術が進展した昨今においては、YouTubeで検索するだけであらゆるクソゲーを視聴することができる。

しかし当時、そんなことは不可能であった。

今は数も減った町の小さなゲーム販売店を虱潰しに渡り歩き、名もなきクソゲーを掘り当てる。

それはさながらゴミ山に眠る一粒の金塊を探し当てる…否!

金塊に眠る一粒のゴミを探し当てるが如く、ロマンに溢れた営みであった。

 

ある日のことだ。

私と中村は、例によって定期券内の駅を渡り歩き、古びた中古ゲームショップにたどり着いた。

 

「におうな…」

 

中村が呟いた。

信じがたいことだが、クソゲーは店を選ぶ。

店がクソゲーを選ぶのではない、クソゲーが店を選ぶのだ。

クソゲーが流れ着く店には、それ相応の風格というものがある。

日々活動に勤しむ我々が、それを見逃すはずもなかった。

 

入店。

すぐ右に試遊台が目に入る。

画面に映っているのは「トランスフォーマー コンボイの謎」。

確信…

 

この店は正気じゃない

 

レジの隣にはスター級のゲームが並ぶ。

クラスで言うなら人気者たちが鎮座するコーナー。

ここじゃない。

クソゲーは光の中にあらず、闇に潜る。

必然的に店の奥へと足を進める我々。

ふと中村の足が止まる。

目線の先に今日の相手が姿を現した。

 

破壊王

 

表紙には大きく「サラリーマン、壊しまくり」の文字。

裏面には「究極のストレス発散ゲーム」とある。

理性より先に感覚が告げていた。

 

このゲームはやばい

 

ピカソゲルニカを初めて見た時のように、我々は言葉を失った。

強烈な作品というのはいつだって名状しがたいものだ、それが良きにせよ悪しにせよ。

何がやばいのか、言葉が追いつかない。

しかしもはや疑うことはできなかった。

 

クソゲーである

 

迷わず購入、私の自宅へ直行、我々は上着を脱ぐことすら惜しむ勢いでプレーを開始した。

詳細を語るのは控えよう。

今の時代、ゲームの内容はYouTubeで見られるのだ。

ここから先はあくまで主観。

あの時、我々の胸に去来した気持ちを軸に筆を進める。

 

ゲーム起動直後、流れたのはオープニング。

時間にしてわずか1分。

しかしそのわずか1分で、私はすでに途方もない不安感に駆られていた。

 

オープニングというものは本来、プレーヤーをわくわくさせてなんぼ。

テイルズオブエターニアのオープニングを見た時、私はこれから始まる冒険に対する期待感で、コントローラーを握る手に力が入ったものだった。

 

しかしクソゲーは違う

 

界隈のレジェンド的作品、デスクリムゾンのオープニングを見たことがあるだろうか。

「つまらなそう…」等といった言語化すらままならない。

何か巨大な霧のようなものに包まれたような感覚。

見知らぬ街にただ一人残され、日が沈み始めた時のような気持ち。

心の奥底からこみ上げる不安。

破壊王』にはそれがあった。

 

まだ始めてもいないのに、軽い体調不良を自覚。

しかしまさにそれこそが我々の求めていたものだった。

クソゲーは正気じゃないが、クソゲーハンターもまた正気ではないのだ。

なにはともあれゲーム開始。

とすぐに異変を察知した。

 

まっすぐ走れない!

 

ただ走る、それが出来ない。

何となく前に進むことはできるし、曲がることもできる。

しかしとにかく思うような操作ができない。

ただの移動に伴う違和感が尋常じゃない!

操作性が悪いどころの話ではなく、もはや目的地に向かうことすらまともにできないのだ。

仮にもアクションゲームだというのに!

 

痛感する、当たり前のありがたみ

 

プレーヤーの意図したタイミングで歩き、止まり、攻撃する…それができることのいかに素晴らしいか。

ファミコン時代のロックマンを引用しよう。

ステージを横に進んでいくだけのシンプルなゲームデザイン、アクションも数パターンしかない。

難易度は高く、コンテニュー回数は10や20じゃきかない。

しかし圧倒的に面白い。

それを支えていたのは、思い通りに動くということ、すなわち快適な操作感である。

 

それはさながら空気のようである。

クソゲーは、いうなれば酸素濃度が極端に低い。

プレーヤーはたちまち酸欠状態に陥り、めまいや吐き気を引き起こす。

ただ我々もまた並のプレーヤーではなかった。

クソゲーハンターである。

スポーツに例えるなら、高地トレーニングを積んでいるようなもの。

我々は少ない酸素を取り込もうと赤血球を増加させ、ヘモグロビン濃度を上昇させながらプレーを続けた。

 

数時間後、我々は見事に全クリした。

その過程は困難を極めた。

その全てをここに書こうものなら、大学の卒業論文並のボリュームになってしまいそうなので端折るが、少なくともそれは「究極のストレス発散ゲーム」などではなく、むしろ究極のストレスとの戦いであった。

 

クソゲーのエンディングはいつだってあっけない。

演出は簡素で、物語もプレーヤーの理解を待たない。

名作のエンディングが高い山を登りきった先にある絶景だとするならば、クソゲーのエンディングというのは非日常からの脱出。

名作が大きなプラスを与えるのに対し、クソゲーはマイナスからの帰還。

とてつもない疲労感を抱えて日常に帰るのだ。

 

少しの休憩をはさむと、私と中村は棚からゲームを選び矢継ぎ早に遊んだ。

デッドオアアライブ、スマッシュブラザーズストリートファイターⅢ…

どれもこれもあまりに面白い。

しばしの熱中…しかしやがて我々の手は止まり、中村は呟いた

 

「最高だ。でも…」

 

続く言葉を中村は言う必要がなかった。

私には聞こえていたからである。

すでに心は乾いているのだ。

完成された秩序は退屈をもたらし、やがて混沌を求める。

それはクソゲーハンターの性(サガ)。

明日もまた、2人は中古ゲームショップを渡り歩く。

 

我々の青春が輝きを帯びることはない




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