今は昔、「オタクはキモい」と名指しされていた時代があった。

※『脱オタクファッションガイド』より
1983年、ライターの中森明夫は「『おたく』の研究」のなかで、オタクという言葉と垢抜けない若者というイメージを結合させた。以来、20年以上にわたってオタクという言葉には垢抜けないイメージがついて回った。00年代のはじめ頃まで、オタクであること、オタクっぽいとみなされることは社会適応に差し障ることだった。オタクという言葉が徹底的に希釈され、ライト化された2020年代からずっと遠い昔話である。
その昔話の一幕として、「脱オタクファッション」というムーブメントがあったのをご存じだろうか。
90年代から00年代にかけて、アニメやゲームの裾野が次第に広がると同時に、オタクでも世間の冷たい目線にさらされたくない・オタク差別を回避したいと思う人が知恵を出し合うウェブサイトがつくられる時期があった。この頃の世間では、実際にアニメや漫画に凝っていなくても、とにかく見た目や言動が気持ち悪かったり垢抜けなかったりすれば「あいつはオタク」とレッテルを貼りつけられるほどオタクはスティグマ化していたし、逆にオタク的な振る舞いをしていれば良い風にはみられなかった。

※『脱オタクファッションガイド』より
たとえば今日の学生ではごくありふれている、キャラクターものの缶バッジなどをバッグにつけるのはオタク固有の行動とみなされ、冷たい目線にさらされるのが関の山だった。推し活が当たり前になった2026年から振り返ると、隔世の感がある。そうした状況のなかでアニメやゲームを愛好しつつ、オタク差別を回避するには工夫が、もっと言えば擬態が必要だった。
どうすれば「あいつはオタク」とレッテルを貼られなくなり、差別を回避できるのか?
清潔にする。
よれよれになった服を着ない。
生乾きの洗濯物のようなにおいを漂わせない。
背筋を伸ばして歩く。
etc……。
実際問題、これらは外見で減点を食らわないようにするうえで無視できない助言だった。当時、かなりの部数を売った『脱オタクファッションガイド』をはじめ、このムーブメントで発信者に回った人は多かれ少なかれその方法を書き記していたし、そうしたことに無頓着な人には有用なアドバイスだったに違いない。
だが、話はそれほど簡単ではなかった。たとえば『脱オタクファッションガイド』の助言どおりに身なりに気を遣い、イトーヨーカドーで母親が買ってきた服を卒業しても、それだけでは納得できない人がいた。もっと外見にお金を費やして、オシャレになりたいと願うけれども、藻掻けば藻掻くほど垢ぬけず、他人から良い風にみられないと嘆く人も少なくなかった。
そういう人は、どこがいけなかったのか?
今更だが、その答えを書いているっぽい本に出会ったのでそれをまとめてみる。
違和感はセンスのなさに直結する
答えを書いているっぽいのは、『STATUS AND CULTURE』という本だ。
著者のデーヴィッド・マークスは、ハーバード大学と慶応大学の修士課程を卒業し、『AMETORA──日本がアメリカンスタイルを救った物語』という本も書いている東京在住のアメリカ人だ。この『STATUS AND CULTURE』は、現代社会におけるステイタスとは何か、そのステイタスはどういう条件で獲得できたりできなかったりしたのかを細かく書いている本だ。関連して、クールであるとは何か、センスがあるとは何かについても書き記している。
著者は、ステイタスやクールさの成立背景のひとつとして、センスについて述べている。少し昔の欧米上位文化では、「センスとは哲学者のカントが述べた"美的判断力"に相当し、複雑な構成のクラシック音楽や現代アートなどを理解する能力、さらに庶民の愛好する"野蛮趣味"や"必要趣味"とは区別される"自由趣味"を楽しむ能力だ」とまとめることができた。しかし文化が細分化し、サブカルチャーにもさまざまなジャンルが生まれ、それぞれのジャンルの内側でもセンスが問われるいまどきの状況下では、その定義では実地のセンス競争について何も言えない。
そのうえ、サブカルチャーのうちに複数のジャンルができあがり、それぞれが違った美意識や習慣を持つようになると、ジャンルごとに身内びいきの感覚も生まれる。たとえば「自分のジャンルを共有する者は良いセンス」「共有していない者はナンセンス」といった感覚だ。
ステイタスを評価する際は、センスは最初に赤の他人が"仲間"かどうか選別するという単純な作業を補助する。ピエール・ブルデューは、センスとは"マッチメイカー"であり、"互いによく調和し適合しているものや人間同士を組み合わせ、類似させる"力だと述べている。『ザ・シンプソンズ』の《ブッシュvsシンプソンズ》というエピソードで、ホーマー・シンプソンは隣に引っ越してきた愛国者のジョージ・H・ブッシュ元大統領と一戦を構え、そして同じ元大統領でもお互いフットボールとナチョスとビールが大好きだという縁でジェラルド・フォードと仲よくなる。共通の趣味があると、互いに"いいセンス"をしているという判断をうながし、社会的承認を付与する。
『STATUS AND CULTURE』P128より
共通の趣味は、センスの評価を、ひいてはステイタスの評価にも影響する。であれば、当時のオタクたちが周囲の一般人*1と同じようなアパレルで同じような衣服を購入し、似た格好をすることにもある程度の意義があったと言える。母親がイトーヨーカドーで買ってきた服、それも、ヨレヨレになった状態の服を着たままでは、マルイやパルコで買ってきた服を着ている(当時の)一般人の人々から"仲間"とみなされるのは難しい。しかし、同じアパレル、同じブランドの衣服を身に付ければ、自分たちは"仲間"であって"社会の異端者"ではありませんよとシグナルを送ることができる。
だから、服を買う・着るという行為を通じて非ーオタクに"仲間"であるとシグナリングするだけなら、実はそれほど難しくはない。ファッション雑誌を買うなり、繁華街を行き交う同世代をウォッチするなりして、とにかく非-オタクに近い恰好を記憶し、それを模倣すれば良い。
同書には以下のようなことも書いてある。
……普通のステイタスは一定の慣習に従わなければ得られない。それはつまり仲間たちの振る舞いを真似る一方で、低ステイタス集団や敵対者たちとは差異化を図るということだ。同時に、より高いステイタスを得るには属しているステイタス層との差別化を図り、上層の行動を真似る必要がある。結局のところ模倣と差異化(差別化)はライフスタイルの選択において補完的な磁石として作用し、上層と見なしている人々にわたしたちを近づけ、下層と見なしている人々からは遠ざけてくれる。この向きが正反対のふたつの力を背後で支えているのがステイタスだ。
『STATUS AND CULTURE』P88より
当時のオタク差別を回避したいだけなら、"仲間"たちの模倣をすれば事足りる。すなわちマルイやパルコで服を買って身に付ければいいだけである。もっとオシャレになりたければ、もっと"上層"とみなされている人々の模倣にとりかかる手もある。せいぜい脱オタクファッションを目指している程度の人間に必要なストラテジーは、模倣、模倣、模倣だ。オリジナリティなんてほとんど必要ない。
しかし、当時のオタクたちが『脱オタクファッションガイド』を購入し、助言どおりにアパレルで買い物をしただけでは浮いた感じになってしまうことが少なくなかった。当時しばしば揶揄された「服が歩いているような状態」とは、まさにそのような状態である。そうなってしまう理由も、『STATUS AND CULTURE』には書いてある。それはセンスを巡る問題だ。「センスが良い/悪い」といった印象は、整合性やまとまりによって大きく左右される。
ライフスタイルの選択においても調和、つまり目標とする完成との内的整合性を示さなければならない。衣料品から食料、自動車、そして住居や家具に至るまで、わたしたちは日々さまざまなカテゴリーの商品やスタイルや行動を選択している。それもそれぞれの選択が互いに「見合う」ものにしなければならない。そのためには物品と行動の適切な関係と関連性を知る必要があり、したがって調和そのものも深い造詣を反映している。わたしたちは専門的知識を組み合わせて調和したセンスを身につける──インテリアデザインの提案は家具店から、キッチンのしつらえ方は家電製品の広告から、スタイリングはファッション誌の記事からといった具合に。こうした商品の既存のグループ分けは<集合的配置>と呼ばれ、それぞれの嗜好世界には明確な集合的配置が複数存在する。
今まで着ていなかった服に袖を通すなら、その服と自分自身のライフスタイルとを調和させなければならない。その服装を着るだけでなく、その服装と組み合わせるにふさわしい諸条件が揃っていなければギクシャクしてしまう。ギクシャクすれば「服が歩いているような状態」は避けられない。一足飛びにハイブランドを身に付けようと無理をすればするほど調和の欠如が目立つことになり、それはセンスの欠如として浮かび上がる。
この考え方に基づくなら、当時、一部の人が主張していた「アパレル店員のコーディネートに任せれば良い」というアイデアもあまり良くなかったと思われる。たくさん服を売ることしか考えていない店員は、個々のアイテム間の調和は考えてくれても当人との調和については考えてくれない。「当人との調和が不可能と判断して服を売らないことにする」店員はきわめて良心的だと思うが、世の中、そんな店員ばかりでもあるまい。
彼らはどうすべきだったのか
では、どうすれば良かったのか。
センス競争の最前線に立ち、各ジャンルで最もクールな人間を目指すなら、ここでいうセンスや調和について考えるだけでは駄目だ。『STATUS AND CULTURE』によれば、自然に醸し出される独自性、出自とスタイルとの一致、等々が必要になるという。だが、脱オタクファッションを目指していた人々のゴールはセンス競争の最前線ではなかったはずだ。模倣戦略をベースにしつつ、当時の大多数の同世代に違和感を持たれないような状態になること、ひいては当時にあって差別語だったオタクという烙印を回避することでしかない。そのために必要なのは、服と自分自身のライフスタイルとの調和、もっと言えば服と自分自身のつじつま合わせだったはずだ。
具体的には、いきなり超ハイブランドの服を買いそろえようとしないこと。はじめはあまり高価でないブランド、それこそマルイやパルコで一番あか抜けないテナントの服などでも良かったのだろう。(当時の)無印良品やユニクロの品を混ぜるのも良かったかもしれない。それらは比較的無色透明でどんな人が着ても喧嘩しにくいし、いろいろな服との着合わせにも使えるし、しかも引き算ができる。
ここでいう引き算とは、服同士が自己主張してコンフリクトを起こすのを回避する、という意味に加えて服装による見た目をダウングレードさせ、服に追い付いていないであろう自分自身に近づける、といった意味を含む。脱オタクファッションをはじめたばかりの人、とりわけ時間やお金や注意力をほぼ全て自分の趣味に費やしてきた人は、その本来のライフスタイルと服のギャップをすぐには埋められないだろう。だったら変に恰好をつけようとするのでなく、むしろ身の丈にあったかたちで外見を改めたり服を選んだりすべきだった。そのほうが経済的な負担も少なくて済むし、高価なブランドを使って「自分はセンスの感覚が皆無の人間です」と自己主張する愚を避けることもできる。
ところが、当時、脱オタクファッションガイドですすめられていた品、あるいは脱オタクファッションについてしゃべっていたインターネット上で勧められていた品のなかには、そうした「ギャップをすぐには埋められない」人のための、移行段階についてのアドバイスがあまりなかった。

※『脱オタクファッションガイド』より
これも『脱オタクファッションガイド』からの抜粋だが、こういったスタイルの服装ではライフスタイルと服のギャップを埋めるためのストップギャップとしては、たぶん最適ではない。たとえば長らくオタクライフを続けてきた人がいくらか垢ぬけたい場合や、オタクライフを続ける自分自身とつじつま合わせを図りながら服装を変えたい場合、たとえばラルフローレンなどのほうが違和感が少なくて済んだのではないか。あと、一部のアイテムをあえて(当時の)ユニクロや無印良品にダウングレードする手もある。本来のライフスタイルと服とのギャップを小さくするために、そういったダウングレードを積極的に行ったほうが全体のまとまりが保ちやすくなり、違和感も小さくしやすくなる。
とはいえ、書籍版『脱オタクファッションガイド』が出たあたりから、(当時の)秋葉原を歩くオタクたちの服装がみるみる変わっていったのも事実だ。高価な衣服にこだわるあまり、「自分はセンスの感覚が皆無の人間です」と自己主張する結果に終わってしまう人々を後目に、大多数の人は背伸びし過ぎない程度に服装を変えていたようにも思う。その程度の変更では「垢ぬけた」とは言えなかったかもしれない。しかし、元々からの自分自身のライフスタイルとのつじつま合わせという観点でみれば、ナンセンスに陥らないための賢い選択だったと言えるし、元々からの趣味をやめてしまわないうえでも有利だっただろう。あまりにも垢ぬけようとすると、お金がかかるだけでなく、自分自身の服装とのつじつま合わせにかかる時間的・認知的コストは一気に膨らむ。そのように身のほどを弁えたアレンジメントで十分だったし、それが最適だったのだと思う。
「個性」なんて出せない、少なくともすぐには
ちなみに、背伸びし過ぎない服装、自分自身とのつじつま合わせを優先させた服装は、しばしば没個性的になりやすい。それを不満がる人も当時はいたものだが、でもそれって仕方なくない? と私は思う。なぜなら、実際問題、私たちは没個性でしかないからだ。クールなど夢のまた夢。ちょっと値の張る服に袖を通しただけで自分自身との辻褄合わせや調和に四苦八苦する私たちが個性を主張するなんて、おかしいだろう。それに、正真正銘のオタクの場合、自己主張なら自分の趣味生活の内側でいくらでもできるから服でわざわざする必要がない、という部分もある。『STATUS AND CULTURE』には、自己主張についてこんなことが書かれている。
近代は、個人差をよしとする貴族の特権を庶民に開放した。それでも個性的であることは依然としてステイタスの階層の上層にいる人々のほうが簡単だ。つまり社会から反発を買わずに個性を貫きたいのであれば、高いステイタスを確保すれば一番簡単だ。
『STATUS AND CULTURE』P149
加えて、同書の別のパートには以下のような箇条書きも見つかる。
・普通のステイタスを確保するには集団の慣習を模倣しなければならない。
・ステイタスの低下を防ぐには敵対集団の慣習を模倣回避しなければならない。
・より高いステイタスを得るにはステイタス価値の高い慣習を模倣しなければならない。
・最高位のステイタスを得るには個性的な行動で自分を際立たせる努力をしなければならない。
『STATUS AND CULTURE』P149
この二つの引用文から考えられるのは、独創性や個性といったものを服装をとおして誇示しやすいのは、すでに高ステイタスを手にしている人たちであって、まずは普通のステイタスを手に入れようとしている(はずの)脱オタクファッション者ではない。ファッションに限らず、右も左もわからず、ノウハウの蓄積もない状態で個性や独創を前に出しても失笑を買うだけである。第一、うまくいかない。守破離という言葉もあるが、オーソドックスから離れて独創をやろうと思ったら、あるいは"わざと崩したり力を抜いたりする"には、それ相応の蓄積が必要になる。
いっそ、クールになってしまえばいいのだろうか? トレンドのオピニオンリーダーとなってしまったら、個性的であること・独創的であることは、むしろ義務となる。それも、自然に・如才なくやってのけなければならない義務だ。そこまで到達した人は、なんでも着たいように着て、なんでも遊びたいように遊び、なんでも働きたいように働けばよい。のみならず、それらを義務として負うことにもなる。しかし、誰もがそうなれるわけではないし、ならなければならないわけでもない。とりわけ、自分の趣味分野に独創性や自己主張や自分らしさの座を保有しているオタクなら、外見の次元で独創性や自己主張や自分らしさを獲得する必要はない。もともと脱オタクファッションというムーブメントは、当時の大多数の”普通”や”無難”に溶け込むこと、ひいては擬態することが目的だったから、外見を個性的にする必要なんてなかった。
長くなってしまったのでもうやめるが、(外見という領域における)個性は、高級なブランド品を買いあさることで身に付くものではなく、自分自身と外見との整合性をすり合わせながら、自分なりにセンスの感覚を磨いていった先に(勝手に)見出されるものだったと思う。その手前の段階にあって脱オタクファッションなどと言っている人々に必要だったのは、模倣、模倣、模倣、それから自分自身と外見との辻褄合わせだった。このことは、00年代に限らず20年代においてもある程度は当てはまることだと思うから、ほとんどゼロから外見についてブラッシュアップしていきたい人は、模倣と辻褄合わせにリソースを突っ込んでください、と思う。
*1:一般人、という表記は、90~00年代において、オタクの間で用いられたスラング。非-オタクの人をそのように呼びならった。同じく、カタギという言葉もしばしば用いられた