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はてな匿名ダイアリーのタイトルは「感情的にならないと感情が伝わらない」だが、この文章のタイトルは「感情を添えたほうが、伝えたい情報はよく伝わる」だ。このニュアンスの違いを意識しながら以下を読んでいただけたらと思う。
感情はホモ・サピエンスが言語を使いこなすより前から使いこなしていた情報チャンネルで、ホモ・サピエンス誕生以前からコミュニケーションに用いてきたと考えられる。感情のバックグラウンドには、哺乳類の行動制御系として共通のメカニズムであるHPA系(hypothalamic-pituitary-adrenal axis、HPA軸とも)がある。ホモ・サピエンスにおいては感情表出と感情を読み取る能力は高度に発展していて、私たちは顔面表情筋のような、感情表出のためのツールまで備えている。
昨今の情報化社会では、文章化された情報のウエイトが大きくなるばかりだ。SNSのようなカジュアルな文章はもちろん、知識・制度・経済の次元でも(論文や契約書といったかたちで)それらが重視されている。社会契約が厳密に適用され、論理的な正確さが追求される領域では「文章に何が書かれているか」こそが肝心だろう。
そうして社会のあちこちで「何が書かれているか」が肝心になってきたから、ときに現代人は感情のことも、感情の重要性も忘れてしまう。感情を過去の遺物とみなす人もいようし、感情を人類社会から追放したいと思う人もいるかもしれない。
しかし前述のとおり、生物としてのホモ・サピエンスは長らく感情を情報のチャンネルとして利用してきたし、今日でも利用している。感情は伝染することも多く、明るい笑顔や自信にあふれた顔にエンカレッジされることもあれば、もらい泣きのような現象が起こることもある。未来社会で私たちがどれだけ感情を許容するのか、それとも抑圧・禁止するのかはわからないが、現時点では情報のチャンネルとしての感情は利用可能だし、私の見たところ、あちこちで猛威を振るっているようにみえる。
感情表出はネガティブばかりではない
さきほど述べたように、一部の現代人は感情を忌み嫌い、なるべくそれが表出されないこと、なるべくそれを受け取らないことを良しとしているようにみえる。そうした時に連想されている感情は「泣く」「怒る」といったネガティブな感情の表出、ホワイトな職場から追放されるべしとされている感情の表出ではないかと思う。
しかし喜怒哀楽という四文字熟語が象徴しているように、感情にはポジティブな表出もある。その最たるものは笑顔だろう。嬉しさや楽しさはポジティブな感情表出で、芸能人や人気ユーチューバーなどはそれに長けている。ポジティブな感情表出が上手な人は、人を惹きつける魅力を発揮しやすい。穏やかな笑顔のような、やわらかな感情表出も忘れてはならない。リラックスした表情なども、無感情ではなくリラックスした感情表出とみなされるべきだし、それは他人にも読み取れるし(ときには)他人に伝染する。
そうしたポジティブな感情表出の影響力は侮れず、たとえば選挙活動においても欠かせない。「選挙公約はよくわからないが、会ってみたらいい人だったから投票した」なんてことは非常によくあることだ。何をしゃべっていたかよりも、どんな感情表出を受け取ったのかが強い印象を残す場面はけっこうある。そんな時、感情という情報チャンネルは文章化された情報よりも強烈に人に何事かを伝え、なんなら、他人を動かしてしまう。
文章化された情報を、感情表出でサポートする
とはいえ、誰もが芸能人や人気ユーチューバーのように感情表出できるわけではないし、他人を感情だけで動かせると思い込み過ぎるのも間違いだろう。
現代社会で感情表出がいちばん輝くのは、伝えたい情報を伝える際のサポートやブーストとしてだと思う。
たとえばコミュニケーションの相手に対して「私は心配しています」「私は恐れています」といったことを感情表出を交えずに述べるより、不安やおそれに即した表情が伴っているほうがメッセージが相手に届きやすい。嬉しい気持ちや感謝の気持ちなどもそうだ。気の利いたプレゼントをもらった際に「ありがとうございます」「こういう品が欲しかったんです」と感情を交えず述べるよりも、喜びの表情が伴っているほうがメッセージは相手に届きやすい。
小さな子どもが相手の時はこうしたことに拍車がかかる。人間は言語を操る随一の動物だが、生まれた時から言語を自由自在に操れるわけではない。しかし感情表出は非常に幼い頃から親子間の情報チャンネルとして利用されているし、良くも悪くも感情が伝わってしまう。個人差があるのは言うまでもないが、多くの子どもは、親の、ひいては周囲の年長者の感情を言語より早く・正確に読み取っている。このことを厄介なこととみなすなら確かに厄介だが、社会学習に適切に添えるなら強力なサポートになる。
何が社会的に好ましく、何が社会的に疎ましいのかについて子どもに伝達する際に、親や周囲の年長者が感情表出をうまく添えられるのか/添えられないのかは、言語的にどれだけ正確に情報を伝えられるかどうかと同じぐらい重要なことなんじゃないだろうか。
成人が相手でも基本は同じだと思う。レクチャーにおいて、診療場面において、商談の場において、言語で伝えたいメッセージをそれにふさわしい感情表出でサポートするのは、メッセージ伝達の確実性を高めたり、メッセージの冗長性を確保するうえで役立つと思う。感情表出を添えたメッセージはそうでないメッセージに比べて、騒音のような邪魔が入っても、相手の注意力がちょっと散漫になっていても、相手にちゃんと届く可能性が高くなる。別にそれは、怒声や涙声に限ったことではない。人間の感情表出はけっこう多様で、もっと色々なニーズに供することができる。
私たちは言語よりも長く感情を用いて情報を伝えあってきた生物種の末裔なのだから、使って構わない場面ではむしろ積極的にこれを使い、コミュニケーション能力の一環として磨きをかけるぐらいの気持ちでいいんじゃないかなと私は思う。
「使い過ぎると感情が疲れるてしまう」問題
ただし、感情表出がうまくなったとしても残る問題はある。それは、はてな匿名ダイアリーの筆者も書いている、
どうやったら自分も相手も消耗せず感情を伝えられるんだろう。
消耗についてだ。
感情表出は案外疲れる。怒ったり泣いたりするのはもちろん、意外に笑顔やうれしさも疲れることを人は軽視する*1。どんなに楽しくても嬉しくても、ずっと笑っていたりずっと喜んでいたりするのは、それもそれで疲れる。この文章のはじめのほうにHPA系という語彙を登場させたが、感情表出には感情そのものが伴い、感情の揺らめきはそれ自体、内分泌系や神経伝達物質におけるなんらかの揺らめきと関わっている。脈拍や呼吸が影響を受けるような感情表出なら、とりわけそうだろう。
だから自分自身の喜怒哀楽を自由自在に操ること、特に自分で意識して操ることには疲労がついてまわる。大げさな感情表出が伴うなら尚更だ。そして世の中には「感情労働」という言葉もある。
特別な職業では、ポジティブな感情表出にけっこうな値段がつく場合がある。しかしたいていの職業ではポジティブな感情表出が期待されているにもかかわらず、たいした報酬が支払われていない。第三次産業の割合が高い産業構造のもとでは、かなり広い範囲で感情労働が実際には期待されていて、ポジティブな感情表出を私たちは強いられている。
と同時に、ネガティブな感情表出はあってはならないものとして封印を強いられていて、その封印の紐をきつく縛るためのメソッドとして、たとえばマインドフルネスやアンガーマネジメントが善いものとして語られたりもする。
してみれば、ネガティブな感情表出を厭う社会とは、ポジティブな感情表出を強いる社会の影絵のようなものだと言えるかもしれないし、ネガティブな感情表出を厭う私たちは、ポジティブな感情表出をお互いに強いているようなものだと言えるかもしれない。そしてネガティブな感情表出を厭う言説は、ポジティブな感情表出をお互いに強いる社会を正当化し、道徳や通念の次元からそうした社会を支えている言説でもあるかもしれない。
ここまでたどり着くと、私の気持ちははてな匿名ダイアリーの筆者のそれにグッと近づく。感情表出、めんどくせー! この社会は、特定の感情表出を封印させようとし過ぎていると同時に、別種の感情表出を引き出そうとし過ぎで、そういう意味では、ちっとも人間にやさしい社会じゃない。
*1:メンタルヘルスが思いっきり悪化すると、これがわかることがある