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AIの脅威は色々あるけど、現在の私には、民主主義や個人の自由にとっての脅威が一番気になる。AIに意見を言わせる振舞いが増え、社会のなかで当たり前になったら、それってヤバいやつなんじゃないか? って意見を上掲リンク先に書いた。
シロクマ先生の警鐘にブコメを投げた後もなんかモヤってる。
— まめ狸@パラオ泊地 (@mametanuki) 2025年5月24日
grokにファクトチェックさせる人はgrok以前も別の何かに判断や主体を委ねている、たぶん。マスコミとか有名インフルエンサーに。
だからAI以前に民主主義が滅びそうなのはトランプや兵庫県知事選騒動でも明らか→https://t.co/nAmNJt18Pf
それに対して、「もうSNSをとおしてアジテーターの言いなりになっている」「アメリカではトランプが当選している」といった指摘をする人が少なからずいた。多くの人は判断力を持っていない、だから現行制度も民主主義モドキでしかない、といった言葉も聞こえてきた。そうかもしれない。民主主義は建前的だ。その建前の足元では、色々なものに影響されたり扇動されたりしている私たちがいる。
ちなみに、冒頭リンク先のタイトルしか読まなかった人は気づかなかったかもしれないが、私は文中で「私たちはSNSにもgoogle検索にも負け続けてきた」と二回ほど書いた。マスコミやインフルエンサーや巨額の広告費用なども、私たちの判断や意見に影響を及ぼしてしまう。街頭演説だってそうだ。街頭演説で爽やかな印象を与える候補者が、爽やかにみえるという理由だけで投票されたり支持されたりすることは珍しくない。
私たちは、たやすく感化されてしまい、扇動されてしまう。そんな私たちにSNSという文明の利器が届いてしまった以上、インフルエンサーが跳梁するのは仕方のないことだったかもしれない。
衆愚的であることは民主主義の一面でもある
だけど、そもそも民主主義ってそういうものじゃなかったっけ?
古代から、人はカリスマ的人物やメディアに判断を委ねてきた。そもそも民主主義体制とは、投票などをとおして代表を選び、その代表者に権力を委任することで成立する体制ではなかっただろうか。だから、誰かを支持する・選択するのは民主主義にとって必要不可欠なことだ。誰を選ぶか・どう選ぶかも大切だが、第一に私たちが選ぶこと、私たちのひとりひとりが自分で選ぶことを尊び、その自己選択をとおして代表者が選出されること……が民主主義だったはずだ。
「衆愚政治」という言葉がある。
一般に、衆愚政治は良くないものとみなされている。SNSや巨額の選挙広告費といったものは衆愚政治を加速させるかもしれないし、だから良くないという意見は理解できる。民主主義がより良く行われるために、有権者がより良く判断しなさいってのはそのとおり。
でも、だからといって最も分別のある人しか投票できない……なんてことになったらそりゃ民主主義じゃない。最も分別のある人から最も分別のない人まで、それぞれが自分の支持や選択、判断や意見に基づいて行動する(たとえば投票する)のが、民主主義というものだ。と同時に、その考え方が自由主義社会における個人の主権性を支えているのではなかったか? 「分別や判断力のあるなしにかかわらず、自分の判断や意見を持つ」ことは民主主義にとって最も基礎的な大前提だ。ゆえにこそ、民主主義は多かれ少なかれ衆愚的にもなるし、衆愚的であることは民主主義の一面でもある。逆に言うと、衆愚的であるからという理由で民主主義を否定するのはたぶんおかしい。
grokに投票させるようになったら、もう民主主義じゃない
で、AIである。
たとえば街頭演説で見かけた候補者がどんな履歴や意見を持った人物かを理解するサポートとしてAIを活用するのは、悪いことではないはずだ。最高にうまくAIを活用できる人も、最悪にAIを使ってしまう人もいようが、ともあれ、AIを自分の判断や意見を持つためのツールとして用いたからといって民主主義という制度そのものが毀損されるわけではあるまい。それで衆愚的な一面が加速することも減速することもあり得るだろう。
しかし、AIに判断や意見を代行させ、それで構わないとするのは話が別だ。
例として次の参議院選挙について考えてみて欲しい。政党や候補者についてよくよく考えて投票するのが理想だが、たまたま街で見かけた候補者が弁舌さわやかだったから投票した、なんて人もあるかもしれない。しかし民主主義とはそういうものだから、そういう有権者がそういう行動をとったからといって咎められるべきではないし、それだけでは民主主義体制は動揺しない。
しかしもし、「grok、私のかわりに今度の参議院選挙の投票先を決めておいて」となったら、これは話が違う。それを始めたら、もう有権者ではないし、それがまかり通るようになったら国民主権や民主主義体制の建付けが動揺するだろう。
もしかしたら、AIのほうが非ー衆愚的に投票先を選べるかもしれない。でも有権者が判断や意見をAIに委任してしまえば、民主主義体制そのものが毀損される。そうなったらもう、衆愚政治ですらない。民主主義を支えているのは、ひとりひとりが判断や意見の主体であるという感覚だから、その感覚が失われれば失われるほど、民主主義は成立しなくなる。
昨今の政治状況をみて「民主主義が破壊されている」といったことをいう人は少なくないし、その心情は理解できる。しかし、SNSの普及やインフルエンサーの跳梁で民主主義体制そのものが破壊されるというより、衆愚政治の加速が問題ではないだろうか。もちろん衆愚政治の加速も問題だから、それらがノープロブレムだとは私も思わない。
が、AIに判断や意見を投げてしまうのはそれとは別の問題である。今はまだ、AIにSNSの返信を丸投げする行為がチラホラみられる程度で済んでいるし、いくらなんでも選挙の投票先をAIに決めさせようとする人は稀だろうが、近い将来、人間がますますAIにもたれかかり、それを支援のツールとしてではなく判断や意見の代行者として、なんなら行為の代行者として用いるようになった近未来においては、人間自身が判断や意見の主体であるという感覚が失われていくかもしれない。
そんな近未来のAIは、ほとんどの人間よりも合理的で、社会全体を見渡したうえで判断をくだせるようになっているだろう(ただし、AIを司る企業が"何か仕掛けてくる"可能性は否定できない)。だとしても民主主義政体を維持したければ、ひいては国民主権という大事な建前を失いたくなければ、私たちはAIを支援ツールとして用いることこそあれ、判断や意見をAIに委ねてはいけないのである。今はまだ、AIに判断や意見を委ねる人も、委ねる場面も少ないかもしれない。だけどAIがより進歩し、生活の隅々にまで普及した十数年後には、委ねたくなる人も委ねたくなる場面も爆増するはずで、そのとき多くの人が「人間が自分の頭で考えるのはもう古い」「大事なことほどAIに任せたほうが良い」とみるようになる可能性はけっこうあると思う。そうして社会常識や社会慣習が変わってしまえば、いまは杞憂のように思える民主主義の危機は杞憂ではなくなる。
そして民主主義が建前としてすら尊重されなくなった時は、個人の自由も建前としてすら尊重されなくなる時だろう。
AIがいきなり人間を不自由に突き落とすことはあるまいし、あくまで支援ツールとして利用するぶんには大丈夫じゃないか、と私は思いたい。けれども世の中の人々の大多数がAIに判断や意見の代行者としての役割を期待するようになり、しまいには行為の代行者としての役割まで期待するようになったら、それは、人間が自由を失い、民主主義や国民主権といった建前を失うに至る長期的トレンドのなかの一里塚*1ぐらいにはなるかもしれない。
私は、「民主主義の終わりは、私たちひとりひとりの自由の終わり」だと思っているから、たとえAIが進歩しても判断や意見の主体としての自覚と感覚を手放してはいけない、と思っている。民主主義を建前だという人もいよう。でも、建前だって大切でしょう? なぜなら、建前がなくなったらたちまち守られなくなるもの・建前のおかげでかろうじて守られているものだって世の中にはたくさんあるのだから。
ちなみに、
「人間を甘やかして精神的に依存させることがロボット三原則に抵触するか」というのはSF的にも面白そうだ
— スドー🍞 (@stdaux) 2025年5月22日
AIはあくまでツールだから、「AIが人間を甘やかして精神的に依存させる」とは、厳密にはAIの不適切使用ではないだろうか。AIをツールとしてどのように用いても構わない。しかし、それで自分自身の主体性が破壊されたり、判断や意見を投げ捨てる癖が身に付いてしまったりするなら、それは個人にも社会にも危険な事態だろう。もし、そんなことが広く起こるようだったら、AI自身の性質をどうにかしなければならないし、ユーザーである人間側もどうにかしなければならないと思う。
(この文章はここまでです。以下の有料記事は、あまり意味をなしていないつぶやきなので常連さんだけどうぞ)
*1: ゲーム用語で言い換えるならフラグ