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自分だけ若返ろうと思うより、後発世代に貢献したほうが「効率的」な気がしてきた

今週は中年シャリア・ブルについて続けて書いたが、以下がその続き、最後の文章になる。
 
私は最初の文章でで「若さがかけがえないのは語るまでもないことだが、皆で一緒に年を取っていくのも、それはそれでかけがえない」と書いた。エイジング、という現象は個人でみれば衰退が意識されようが、実際のエイジングは同級生全員、親子それぞれ、友人知人と一蓮托生で進む。中年以降にとって、エイジングは老化と限りなくイコールだが、下の世代まで含めて全員が加齢すると考える場合、子どもの成長をはじめ、老化以外のニュアンスを含まずにはいられない。
 
そのエイジングの歩みは世代それぞれによって異なり、たとえば1970年生まれと1990年生まれと2010年生まれがまったく同時に60歳になることはないし、下の世代が上の世代を追い抜いて年を取ることも決してない。
 
世の中には、世代という言葉を非常に毛嫌いする人がいる。けれどもエイジングの進行が世代によって異なり、たとえば16歳時点の境遇や体験は世代によってもかなり違う。たとえば16歳時点でコミュニケーションの主要手段としてもてはやされていたのが何だったのか──電話なのか、ポケベルなのか、写メールなのか、SNSなのか、等々──は世代によって異なり、16歳時点で世代内にかたちづくられた共通のカルチャー、共有する流行歌なども違う。年の差、というのはぬぐいがたくエスカレーター的だ。たとえ何億何十億とお金を稼ごうとも、還暦を迎えた人が40歳や20歳の立場に逆戻りできるわけではないし、平成20年の時点でできあがった感受性や記憶の人が、それを令和7年風に書き換えることもできない。
 
だから世代というエスカレーターのなかで私たちが生きている点に注目する場合、自分だけがしゃにむに若返ろうと考えてもあまり意味がない気がしてくる。もちろん、健康増進の観点からみれば、むやみに身体を老け込ませる理由はない。けれども後から生まれてきた世代よりも若々しくあろうとか、(たとえば)いつまでも40歳でいよう・いたいと願うのは、世代という社会的地層の内側にあってはナンセンスだ。たとえば私も、比較的老けていない60歳を目指すことなら可能かもしれないし有意味かもしれないが、60歳にならないで済ませる、70歳にならないで済ませることは決してできないし、目指すべきでもない。
 
また、短くなる一方の余命を考えに入れるなら、自分自身にこだわり過ぎることにもたいした意義はないのかもしれない。私も個人主義をそこそこ内面化しているから、無私になろうとか、無私になりたいと願うわけでもない。でも、私という生体ユニットの寿命がそれほど長くなく、私より若い世代がこれからもっと長く生きることを思うと、私自身にこだわること、こだわり過ぎることにどれほどの意味があるのか、わからなくなってくる。
 
意味。
そう、私がもし、意味のために生きているとしたら、私は今までどおりに私自身の欲求や活動に時間やお金やエネルギーを回すだけでなく、私よりも長く生きる人々に時間やお金やエネルギーを回すことのほうが、いわば、「効率的」ではないだろうか? とも思うことが増えた。私は我が身がかわいいので、引き続き私自身の欲求や活動にも時間やお金やエネルギーを回し続ける。けれども、私が意味のために生きたいのなら、その方法は私自身にこだわるだけでなく、これからの時間がある人々に何かを提供すること、何かを残すことのうちにもあるよう思う。でもって、それはエリクソンが中年期の発達課題として挙げた「生殖性 generativity」という概念にも合致しているように思う。
 

 
エリクソンがいう「生殖性」とは、中年期の発達課題で、「世話すること」というフレーズでまとめられることもある。自分自身の快楽や成長や達成にこだわるのでなく、上下の世代の面倒をみるとか、なんらか社会に貢献するとか、何かを授けるとか……とにかく、自分に固執しないで自分以外の誰かに資するような活動に入っていく、そういったものだ。エリクソンの言葉を杓子定規に解釈するなら、中年期を迎えてもそうした気持ちが芽生えてこないとしたら、その中年期は中年期ならではのアドバンテージが現れ出ない停滞したものになるという。
 
じゃあ中年は自分を捨てて、滅私奉公すべきなのか?
私のエリクソン理解では、そうではないと思う。
 
エリクソンの発達課題のモデルは、全体的に矛盾と折り合うことの積み重ねを重視していて、ある種の完璧主義とは一線を画している。たとえば生殖性についていえば、自分以外の誰かに資する活動に何もかも捧げてしまうようなライフスタイルが中年期の理想とは考えられない。むしろ、ある程度は自分以外の誰かに資する活動をやりながらも、生殖性っぽくない欲求、たとえば自分自身の欲や自己中心性を捨てきれず、でも、それらとも折り合いをつけて暮らしているぐらいが妥当な落としどころではないかと思う。エリクソンの古典『幼児期と社会』などを読む際には、こうした「折り合い」とか「矛盾の落としどころ」といったフレーズを時々思い出しておくのが大切です。
 
私自身の話に戻ると、私はこの「生殖性」の重要性について10年以上前から色々と言ってきたし、そのように生きようとしてきたけど、なんだかぎこちなくて、私自身の欲や自己中心性のほうがまだまだ大きく、腑に落ちた感じがしていなかった。世間一般の男性と比較して子育てに多くのリソースをなげうったつもりだけれど、それだって見よう見まねで「まず形から入ったもの」であって、私自身の自己中心性を説得して自己決定に至るにはそれなりの手間と知略を必要とした。
 
けれども生体ユニットとしての私自身が性能劣化し、他方で下の世代がどんどん成長し発展していくうちに、ああ、これこそが生殖性なのかなぁと思う場面が増えてきた。
 
アラフィフになった今、もし意味のために生きるなら、エリクソンの言った生殖性にあたるような、誰かを育てることや誰かを後押しすることや誰かに残すことのほうが、私自身にこだわるよりも有意味さが大きいように見えてきた。または「意味を生産する」という言い方をするなら、生産性や効率性が高いように思えてきた。かつての私には、それは理屈でしかなかった。でも今は実感を伴ったものに変わりつつある。
 
私自身の限界が次第に明らかになる一方で、子どもや後輩といった、後発世代の成長や躍進も明らかになってきた今、それなら私の残り時間をいくらかでも育てることや後押しすることや残すことに費やしたほうがいいのではないか、と思う頻度が増え、そのようにリソースを使うことへの抵抗感が減ってきていると感じる。
 
その、自分より若い世代にリソースを回すことへの抵抗感の減少こそが、私がやっと腑に落ちた(エリクソンのいう)生殖性なのかもしれない。
 
 

小さな祈りでしかないのだけど

とはいえ、実際には我が身はかわいいものだし劇的にライフスタイルが変わったわけでもない。日常の仕事、日常のタスクのなかにそれがはっきり現れているとも主張できない。ただ、年下の誰かと関わる時の心持ちに、何か変化が起こったとはつとに感じる。それは小さな祈りに過ぎないのかもしれないが。
 
でも、小さな祈りだからこそ、生殖性は、日常に宿り得るものだとも思う。日頃の診療や商売、モノづくりにも宿り得るだろう。大袈裟な献身や滅私奉公である必要はない。だからこそ、色々な立場の人にそれぞれの生殖性、それぞれの祈りがあっておかしくないとも思う。そうした心持ちの変化は、後発世代に何かを残し得るだろうか。いや、せめて後発世代の成長の邪魔をすることなく、その土壌を耕す肥料になり得るだろうか。そういうことを正面切って考える頻度が20代や30代の頃よりもはるかに高いわけだから、歳月が何かをもたらすのは間違いなく、そのもたらされたものを過小評価(過大評価もだが)すべきではないと思う。
 
 




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