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人生のゲーム化と、ゲームの人生化について

 
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小島アジコさんのアウトプットのメインは漫画だけど、エッセイや作品評も独自のテイストを帯びていて面白く、上掲リンク先も例外ではなかった。アジコさんという一個人の世界観や経験から見た人生の姿がつづられていると思う。その際、キーワードになっているのが「物語」という語彙だ。 
 
じゃあ、私だったら、私の子どもだったらどうだろう?
私たちは人生を「ゲーム」にたとえるし、文章のタイトルは「人生のゲーム化について」となるだろう。そのように私たちが考えるのはゲームに親しんでいるからだけではなく、ゲームのほうも人生に似てきた、少なくともそういうゲームが台頭するようになったからだ。だからこの文章のタイトルを「人生のゲーム化と、ゲームの人生化について」とまとめた。
 
 

私たちは、人生を『艦これ』や『FGO』や『ヨーロッパユニバーサリス』のようにやっている

 
うちの家庭はゲーム一家なので、人生や人間模様についてゲームを比喩として語り合うことが多い。ゲームと人生の似ているところや、ゲームと人生の違っているところを日常的に言語化しあっている。たとえば「たいていのゲームではステータスやパラメータが数値化されて一覧できるけれども、人生ではステータスやパラメータは表示されない」、「だから人生では自他のステータスやパラメータに相当するものを類推できる能力を持っていることが有利になり、類推できないことが不利になる」、といった具合にだ。
 
その一方で、人生とゲームがよく似ている点もある。
 
 
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約10年前に、私は「人生はシヴィライゼーションに似ている」と書いた。ゲーム開始時の初期配置によって難易度や命運が大きくわかれる点、うまくやるための道筋や戦略が多様である点、特定の時代・状況に特化しすぎると次の時代・状況に対応しづらくなる点などは、人生によく似ているからだ。
 
21世紀以降に私が出会った他のゲームたちも、人生によく似ていると思う。それらはエンディングやゲーム内の究極目的といったものがないか、あったとしても無視可能で、どんなゲームプレイをするのか、どう楽しむのかがプレイヤーにゆだねられている。
 
そうしたゲームゆえに、どうプレイするとしても、ゲームのルールをよく理解ながら立ち回ることが重要になる。攻略情報などに頼らない初回プレイの時はゲームルールやゲームシステムを手探りしながらのプレイになるし、理解の足りない選択を後で悔やむこともある。ハンディのある初期状態からの逆転プレイや、いわゆる縛りプレイを狙う際には、ルールの裏をかくようなことまで必要になりがちだ。
 
そこに「物語」はあるだろうか? それはアジコさんがおっしゃった「物語」そのものではないかもしれない。しかし、小説や漫画、昔の国産ロールプレイングゲームのような、前もって準備された物語がない代わりに、プレイヤーがプレイした足跡が物語になる。よく書けているゲームのプレイレポ、AAR、初見プレイの動画などを見れば、そのさまが見て取れるし、たとえばオープンワールド型のような自由度の高いゲームにはじめて触れたことのある人も、この感覚がわかるんじゃないかと思う。
 
ゲームルールとゲームシステムだけが与えられ、そのなかで夢中になれるなら、物語は後から勝手についてくる。そこで起こっていることは、システムに与えられたものであると同時にそのなかで自分が選択し、切り開き、積み上げていく物語でもある。たとえ、システムのなかで起こったことに過ぎないとしてもだ。
 
人生も、基本的にはそれと同じじゃないだろうか?
 
なぜなら、人生もゲームルールやゲームシステムに制約されたものだからだ。
第一に、私たちの生きている世界には物理法則があり、これに逆らうことができない。オープンワールド系のゲームが物理エンジンで動いているのと同じように、私たちも物理法則に基づいて動いている。そのうえ、社会があり、貨幣やリソースがあり、コミュニケーションのルールがあり、自分以外のプレイヤーもいる。個人主義や資本主義といったイデオロギーも、人生に一定の色合いを与えているだろう。
 
人生もいまどきのゲームも、はっきりとしたゴールや目的が不明であると同時に終わりがない。だらだら続けているうちにルールが変わっていき、環境が変わっていく点も似ている。突然サービス終了になるおそれがあるのも似ているかもしれない。人生は、主体的に選び取るものとして語ることができると同時に、世界という名のシステムのなかで社会という名のルールに基づいて進行していくものでもある。世界や社会にくってかかろうとすると、システムやルールから手酷いしっぺ返しをくらう点もゲームにどこか似ている。
 
私たちは不可避のシステムやルールのなかで生き、生かされ、生きた痕跡を事後的に物語のようだと評する。そうした視点で眺める時、まさに人生はゲームのようだと比喩したくなる。
 
 

内政しろ、デイリー任務しろ、種火を回せ

 
それから生活。冒頭リンク先のなかで、アジコさんは物語と対置するものとして「生活」を挙げておられた。それは、アジコさんが想定する物語の定義ではそうなのだと思う。しかしいまどきのゲームにおいては、ゲームのなかにも生活がある。少なくとも、生活に相当するゲーム体験のウエイトは小さくないように思う。
 
その一例は、『艦これ』*1だ。私はこのロングランなゲームと10年以上付き合い続けていて、それは俗に「提督業」と呼ばれる。その「提督業」のなかで重要なウエイトを占めているのは、デイリー任務やウイークリー任務といった日常業務だ。
 

 
艦これには「イベント海域」という決戦イベントがときどき開催され、多くのプレイヤーが挑戦している。でも、この「イベント海域」をやり遂げるためには、デイリーやウイークリーといった日常業務をとおして燃料や弾薬や装備を準備し、艦隊のレベルも高めておかなければならない。人生において、多くのトライアルが日常の鍛練や生活の丁寧さにかかっているのと同じように、艦これも、日常業務をどれだけ丁寧に積み上げてきたのかが、晴れの舞台の命運を左右する。
 
このことは、他のゲームにもある程度は当てはまる。アジコさんが過去にプレイしてきたゲームで挙げるなら、『FGO』もそうだ。『FGO』はガチャで★5サーヴァントを引きさえすれば進められるものではない。種火周回や素材集め、QP稼ぎといった生活に相当する活動をしっかりやってはじめて、★5サーヴァントが活躍できるようになる。『FGO』は「稼ぎ時」に相当するタイミングでごっそりとリソースを稼げる作品だったが、でも、まさにその「稼ぎ時」にごっそり稼ぐためにも日頃の鍛錬が必要だった。
 

 
『FGO』のなかではマシュが「小さなことからコツコツと」と言っているが、『FGO』に限らず、終わりのはっきりしないこの手のゲームでは、短期間に育成を完遂するのはほぼ不可能で、ある程度時間をかけて育成したほうが良い。ゆえに、ありふれた生活に相当するような、日常ルーティンをちゃんとやっているか否かがしばしば重要になる。
 
これは、パラドゲー、特に『ヨーロッパユニバーサリス』でもそうかもしれない。『ヨーロッパユニバーサリス』も、重要な戦争に臨むには日常の内政や交易、外交的根回し、等々が重要になってくる。散文的な日常を手抜かりなくやっておくことが、ドラマチックな状況を生き抜くための土台になるから、パラドゲーを遊んでいると、一日一日の小さな積み重ねに意識的にならずにいられなくなる。
 
私たちの現実の生活も、こんなものではなかっただろうか。
試験当日や冠婚葬祭の日といったハレの日だけが人生ではない。ケの日だって人生だし、ケの日こそが人生の本態とさえ言えるかもしれない。たとえば毎朝朝食に食べているものは、あなたの人生ではないだろうか。
 

  • フルグラ
 
私にとって、人生のかなりの部分はフルグラでできている。毎朝朝食を食べない人なら、朝食を食べないことが人生のかなりの部分を構成しているだろう。 
 
 

ゲームのほうが人生にすり寄ってきた、ようにも思える

 
もちろん全部のゲームがこうだと言いたいわけじゃない。幾つかのゲームは今でも刹那的だし、エンディングに向かって物語のページをめくるように体験するゲームも存在する。とはいえ、終わりのわからないゲームのなかでハレとケの時間を行ったり来たりするタイプの割合はそれなりに高く、我が家ではそういうゲームがいくつも遊ばれているので、人生をゲームにたとえるのは簡単で、人生の大きな割合を占めている生活も、ゲームという比喩に回収できると考えがちだ。
 
あと、それとは別に、ゲームのほうもなんだか人生にすり寄ってきているなぁと思う。
 
『ドルアーガの塔』や初代『ドラゴンクエスト』に夢中になっていた頃は、ゲームに究極の目的、立派なエンディングがあることが特別だと感じられた。それ以前のゲームは、たとえば『ギャラクシアン』にしても『マリオブラザーズ』にしてもエンディングがなかったし、『グラディウス』や『ボンバーマン』のように一応エンディングがあるゲームも、ループの区切りという意味合いのほうが強かった。
 
それから歳月が流れて、パラドゲーのように好きなように過ごして良いゲームがたくさんつくられ、オープンワールドゲームもつくられ、『艦これ』や『FGO』のように終わりのはっきりしない運営主導型のゲームが流行るようになった。これらのゲームにも終わりがなく、(たとえばある時期の日式ロールプレイングゲームのような)ゲームがプレイヤーに物語を押し売りしてくる印象は薄まった。国外産のゲームにおいてはとりわけそうだ。
 
そうなった結果、人生をゲームにたとえやすくなっただけでなく、ゲームが人生に似てきたようにも思う。
 
まるで人生のように目的もなく、勝利も敗北もくっきりとしないゲーム体験。運営主導型ゲームの場合は、環境がどんどん悪くなっていくこともあろうし、過疎ってくることもあろうし、唐突にサービス終了が告げられるかもしれない。終わりがなくなり、魔王討伐のようにくっきりとした目的が希薄になり、ダラダラ続くようになったことで、ゲームはますます人生に似てきた。だからどうした、という話ではある。
 
しかし……コスパに追われて、惰性に流されて、環境の変化に一喜一憂し、変化についていける自分をまんざらでもないと思ってしまうような昨今のゲーム体験は、じつに人生のようだと思いませんか。
 
眠い目をこすりながらデイリー周回し、提督業とうそぶきながらイベント海域で禿げ上がるほどストレスをためこみ、不承不承に環境の変化についていくゲーム体験! どうしてこんな風になっちまったんだろうなあ。そうして背中をまるめてスマホをいじっている自分自身を振り返ってため息をつくところも人生に似ている。ゲームに回収されてしまう人生、人生に回収されてしまうゲームってのは、こんなものだったのかあ。
 
しけた話になってしまった。まあでも私は、こうやって人生を、特にその日常を、ゲームのように地固めしていくことを知ってしまった。と同時にゲームを人生のように地固めしていき、暁の水平線の勝利を刻むなどとうそぶいている。暁の水平線に勝利を刻んだつもりになっても、その翌日にはありふれた生活=デイリー任務が再開される、それがいまどきの人生=ゲームだっていうのにね。
 
 

 
2025年3月26日現在、『艦これ』はイベント海域が絶賛開催中で、私はこれをチクチク攻略していきます。特別な目的意識はなくなって久しく、アジコさんがおっしゃる物語はここにも無い気がしますが、それでも目の前にイベント海域があれば挑むしかないし、その際には日常ルーティンの強度や丁寧さが試されるのです。まさに人生みたいですね。そうして歳月は流れていくのでしょう。
 
 

*1:『艦隊これくしょん』




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