最近、ひたすらインプットに集中していたらアウトプットが滞ってしまった。普段、ブログを書くことでインプットとアウトプットのバランスを取り、知識が自分自身に定着する一助になってきたことを思い出したので、ちょっと書いてみることにする。本日、レビューめいたものを書いてみるのは『テストステロン:ヒトを分け、支配する物質』という本についてだ。
テストステロンは重要な男性ホルモンで、人間の性分化に影響し、生理学的・内分泌学的・行動学的に特有の変化をもたらす。しかし、テストステロン「だけ」が人間の性分化を決定づけているとみなすのは考えものだ。著者は、テストステロンも含めたもっと複雑な機構のなかで・もっと複雑な手順を踏んで人間の性分化が進んでいくさまを紹介する。本書の一番のセールスポイントは、そこのところだろう。
まず、XとYという性染色体が人間の性分化にとって重要だ。ほとんどの場合、ここが性分化のスタート地点になるわけだが、実際にはそこまで話は単純ではない。Y染色体上にあるSRY*1遺伝子にコードされた、SRYタンパク質をとおして十七番染色体のSOX遺伝子の活性が促され、そのまま順当にいけば精巣細胞への分化が起こり、卵巣細胞への分化が抑制される。精巣細胞ができ、卵巣細胞ができないのは、男性へ分化していく重要なポイントになる。
この、まだるっこしい文章が象徴しているように、実はY染色体を持っていることと男性へ性分化していくことは絶対にイコールとは限らない。なぜならY染色体を持っている人が精巣細胞を持つまでには、SRYタンパク質をはじめ、性分化のバトンリレーを介在している色々なメカニズムが存在するからだ。たとえば先天的な問題によってSRYタンパク質がぜんぜん発現しない場合、Y染色体を持っているのに卵巣細胞がつくられる(=性分化が女性側に傾く)ことになる。
性分化のバトンリレーはまだ続く。精巣細胞ができあがるとテストステロンがたくさん分泌されるようになり、男性の生殖器が発達し、女性の生殖器はできあがらないことになる。もしテストステロンが出ないか、なんらかの先天的な理由で無効化された場合には、男性の生殖器は発達せず、女性の生殖器ができあがることになる。
こんな具合に、Y染色体から始まるバトンリレーのようなプロセスをとおして性は分化するため、Y染色体が性を完全に決定づけるとも、テストステロンが性を完全に決定づけるとも言い切れない。そしてこのバトンリレーのようなプロセスのどこかにトラブルや欠陥があれば、Y染色体があろうとも、テストステロンが分泌されていようとも、範疇的な男性の性分化には至らないことになる。
著者は、テストステロンやY染色体をはじめとする生物学的な性分化プロセスの介在をはっきりと認めており、社会や文化によってだけ性が決定されるという考えは違う、と述べている。他方で、テストステロンが性分化のすべてだとか、Y染色体が性分化のすべてだとか、そういった世間に流布する単純すぎる言説も違う、と述べている。
文化・社会・環境の問題も視野に入れておこう
と同時に、本書は文化や倫理について慎重な態度を崩さない。性にまつわる言説は非常にデリケートな領域で、著者の活躍しているアメリカではとりわけそうだっただろう。本書のあちこちに、読みづらさを承知のうえで非常に慎重な表現を心がけたパートがあるのは、性を巡る今日のアメリカの文化や倫理がどのような状態にあるのかを物語ってやまない。どこまで著者が意識しているかはわからないが、そうした慎重な表現をとおして、性にまつわる文化や倫理の現代的側面があぶりだされているとも私は感じた。
それとは別に、テストステロンはある意味、社会とも繋がっている。テストステロンによって行動が左右されるだけでなく、その行動をとおして社会のなかで得た境遇や状況がテストステロンの濃度を左右していく面もある。また、多量のテストステロンが人間をただそれだけで凶暴にするわけではない。テストステロンがもたらす変化は、環境からの影響を常に受けている。なにより、テストステロンが行動に影響するからといって、その影響された行動の是非善悪を決めるのは生物学ではなく文化や倫理、そして社会の側であることを著者は確認してやまない。
昨今、思春期抑制剤や性別適合手術やホルモン療法といった、性別不合の身体に介入するテクノロジーが進歩している。その使用も文化や倫理、ひいては社会の側が決めるだろう。他方、さきにも記したように性分化のプロセスはバトンリレー的で、複雑で、しばしば不可逆な影響をもたらす。たとえば男性らしい骨格や骨密度ができあがった後に、そうでない女性的な骨格や骨密度に変更することは、現代のテクノロジーをもってしても困難だ。
性分化に限らず、身体の発達にはやり直しのきかない部分がたくさんある。そのことを踏まえたうえで著者は、性別不合へのアプローチについて、「資格のある専門家に相談し、さらにセカンドオピニオンやサードオピニオンを得ておくべき」指摘している。それからさらなる研究が必要であるとも。著者のいう研究のうちには、生物学や医学だけでなく、社会科学も含まれるだろう。いずれにせよ著者は、性にまつわる問題が生物学や医学だけでおさまりきらない一面を持っていることに常に自覚的である。
テストステロンや性分化について知りたい人にはいい本かも
このような書籍なので、テストステロンを中心に性分化について色々なことを教えてくれるのが本書だ。男女の性別とその発達について詳しく知りたい人にはお勧めしたい……のだが、この本にも少し欠点はある。それは、読みづらいことだ。
なお、ここでいう読みづらいとは、「よくできた新書に比べたら読みづらい」という意味であって、専門書に比べれば難易度はそこまででもないと思う。それでも、生物学や医学に多少なりとも触れていなければ、本書を読むのはちょっとしんどいかもしれない。
第一に、本書には生物学や医学では当たり前、でもその余所では当たり前とは言いづらい表現が散らばっている。たとえばダウンレギュレーションとかアップレギュレーションといった言葉だ。一応、一行だけ説明はあるのだが、そういう耳馴染みのない言葉が一行だけで読者への説明として必要十分なのかはちょっとわからない。ところが本書は一行だけ説明したらもう、「あとはもう理解してますねー」といった風に進行していく。けっこうスパルタ的だ。私は医学をやっているので本書の読みづらさをかなり減免してもらったが、そうでない人がこういうノリについていけるのか、ちょっとわからない。
第二に、比喩があまり良くない。著者はしばしば、読者にわかりやすくしようとして比喩を持ってこようとするのだが、これがなんだかよくわからない。比喩がないほうがマシではないか、と思う場面もあった。ついでに言えば、同じ語彙の繰り返しがあちこちにみられる。訳した人の問題の可能性もあるかもしれないが、私は、訳した人は原文をできるだけ素直に訳しただけなんじゃないかなーと文面を見ながら思った。さらについでに言えば、今回はkindle版で読んだのだけど、kindle版では挿絵が見にくい。挿絵まできちんと見たい人は書籍版を買ったほうがいい気がする。
総合的にみて、著者の人、一般向けの書籍をあんまり書いたことがないんじゃないの? と思った。著者はハーバード大学の講師としては人気者だという。講義はいけているけれども一般向け書籍は苦手ってことだろうか? それとも対象読者をハーバード大学の学生ぐらいに設定しているんだろうか? 著者の人は既にベテランのはずだけど、師匠であるリチャード・ランガムに比べると本の読みやすさではまだまだかなわないようにみえる。専門書書きの人が、ちょっと不慣れな感じで一般向け書籍を書いてみた、みたいな感じなんだろうか?
どうあれ生物学や医学の知識抜きでこの本に挑むのはちょっとしたトライアルかもしれない。生物学的には面白い本だし、社会科学方面のイシューについても心配りがあるだけに、もうちょっと読みやすくまとまっていたらどんなに良かっただろう……みたいなことは感じた。生物学や医学にどうしても自信が無い、でも読んでみたいって人は、生物学や医学について他の本で寄り道をしてからアタックしてみるといいかもしれない。
*1:Sex-determining region of the Y chromosomeの略