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作品にベタ・メタに向き合うことと、「いわゆる上等な作品鑑賞態度」について

 
最近、エヴァンゲリオン30周年のことがあったりして、アニメに対する視聴態度とか、アニメに対する批評的態度について思い出す機会が重なった。私がどうアニメを観るようになったのか、それが私自身を形成するうえでどう大事だったのかを思い出す機会になった。批評家の藤田先生からいただいた以下のポストが特に良いトリガーになったので、少し考えを広げてみたい。
 


 
 

「余所見をしないでベタベタに観る」

 
「現実に帰れ」。
 
とても懐かしい響きだ。
それから2026年から見れば無邪気な言葉にもみえる。私の理解をざっくり言えば、2026年における現実はアニメのようで、アニメもまた現実のようだ。物理的現実、自然科学的現実が厳にあること、それ自体は否定されるべくもない。では社会的現実はどうだろう? 現実を想像と思い込みと願望が分厚く覆い、その覆いを加速する通信技術が人類社会を包囲している2026年において、たとえば『Fate/strange Fake』や『呪術廻戦』などは現実そのものではないが現実に先行している。あるいはそれらでさえ、社会的現実に関連するフェ…フィクションとしてそこに存在している。
 
そうした情況下での「現実」、とりわけ社会的現実の在り処を巡って、私たちは右往左往している。が、ここでは既存秩序に従い、「大手メディアとオーソリティの言う通りにしていれば社会的現実に帰ることができます」と復唱しておくことにしよう。
 
けれども1997年において、「現実に帰れ」はもう少しシリアスな突き放しだったと言える。少なくとも突き放しと受け止める人もいたのだろうなぁと思い出す。それからエヴァンゲリオンの時代に流通していた「アニメの言葉」を思い出さずにいられないフレーズでもある。
  
『新世紀エヴァンゲリオン』に対するオタクたち、ひいては視聴者たちの態度はさまざまだった。TV版がヒートアップしていき、26話で爆発し、それから旧劇場版『シト新生』『Air/まごころを、君に』がつくられ、作品が外へ外へ広がっていった頃、キャラクターや物語に自分自身を重ねる視聴者がいると同時に、冷静で客観的にみえる言葉で作品を論評する人々がいた。両方、という人だっていただろう。たとえば大塚英志のエヴァンゲリオン評に耳を傾け、「TV版の26話は自己啓発セミナーだ」とうそぶいているその当人が、碇シンジや葛城ミサトといったキャラクターに前のめりな態度をとっていることなど、珍しくもなかっただろう。『パラノ・エヴァンゲリオン』とか『スキゾ・エヴァンゲリオン』とかを買い求め、いわば楽屋裏から作品に言及するファンもいたように思う。
 

 
制作者サイドのステートメントやコンテキストを視野に入れながらエヴァンゲリオンについて語る・考える人たちがいたのは事実だったはずで、そうした態度は藤田さんのおっしゃる(作品に対する)メタな意識、に通じるものだろう。作中描写に基づいて作品を愛顧することをベタとみるなら、楽屋裏の事情を踏まえて作品を論評するのはメタレイヤーの楽しみ方とみることができる。時代や社会とエヴァンゲリオン"現象"を関連づけてしゃべってみるのもそのうちかもしれない。
 
そういった態度がカッコ良いという雰囲気は、現在よりも1990年代において強かったと思う。それが作品に対する上等な態度であり、ベタ一辺倒は下等だ、という意見もたぶんあったように思う。正確を期して言い直すなら、そういう意見が存在するように学生時代の私には見えていた。
 
地方在住の私の耳にも、こうしたメタレイヤーを踏まえたエヴァンゲリオン評はある程度までは聞こえていた。その劣化コピーかもしれないが、エヴァンゲリオンの「謎本」なるものを買って読むファンの姿もあった。エヴァンゲリオンを楽しむファンにもいろいろあったし、一人のファンがいろいろな態度やレイヤーで作品と向き合う・作品を切り取ることはあっておかしくないことだった。ベタからもメタからも、なんならネタからも作品を楽しむ──それは珍しくないだけでなく、上等なファンやオタクを自負する人々には可能であるべき姿勢だったのだとも思う。
 
その後、私はエヴァンゲリオンとベタレイヤーに著しく偏ったかたちで向き合うことになった。だから私が『スキゾ・エヴァンゲリオン』や『パラノ・エヴァンゲリオン』を実際に読んだのは新劇場版が完結してからのことである。そういったものは私には必要無かったし、場外のノイズでしかないと感じられたからだ。TV版の25-26話や『まごころを、君に』のなかにメタく受け取りたくなる表現が埋め込まれていたとしてもである。
 
ビデオテープを何十回もリピート再生し、楽屋裏の事情など無視して作中描写に集中・埋没する。作中描写と自分自身との相互作用をどこまでも追求する。万巻のコンテンツを渉猟できる都会のオタク・エリートではなく、たとえば『Zガンダム』や『ガンダムZZ』の再放送を録画し何度も再生するしか能のない田舎のファンだった私にとって、それは難しくない向き合い方だった。
 
さきに触れたように、当時の私の推測では、ベタに徹してメタレイヤーを見ない、そして批評的な態度を取れないファンは(それが可能なファンから)下にみられる存在と思われた。そうした推測は現在も消えてはいない。むしろ文化資本について学ぶにつれ、そのことを確信すらしている。
 
しかし、そんなのは私には関係のないことだったし、作品やキャラクターに対して零距離になってみなければわからないこともある。エヴァンゲリオンは、たとえばTV版の後半パートは、零距離になるのに適したつくりでもあった。ATフィールドというフィーチャーも、『死に至る病、そして』や『人のかたち、心のかたち』のような話も、作品やキャラクターとの距離感を見失わせる、否、みずから放棄するにはなかなか都合が良い。自己啓発セミナーと呼ばれたTV版25-26話にしてもそうだ。 
 
歳月が流れ、年を取り、作品やキャラクターに対して零距離になる、なんてことは私にはできなくなった。メタレイヤーを意識しながらアニメを眺めることにもあまり抵抗がない。というより、何かに言及する際には、いくらかメタレイヤーを意識しながらまとめたほうがうまくいくとさえ思っている。
 
けれども、あの時、エヴァンゲリオンにベタベタに向き合ったことは良かったと思っているし、その経験は『シュタインズ・ゲート』や『まどか☆マギカ』や『PSYCHO-PASS』や『葬送のフリーレン』を世間のなかの作品でなく自分にとっての作品として受け取る際の態度として今も生きている。『機動戦士ガンダムジークアクス』のような、世間にウインクしまくった興業を眺めている時でさえ、その態度は尾てい骨のように残っていた。
 
私は、好きな作品が社会において(または制作陣にとって)どのような作品なのかよりも、私自身に何をもたらしたのか、ひいては私にとってどういう作品なのかを重視する態度──そういう態度は、「推し活」の時代にあっても注目されず、上等とはみなされないようにみえる──を大事にする。推し活と、90年代のアニメ批評的な感性は対照的な部分をもちろん含んでいるが、私自身にとってどういう作品なのかを重視する主観的人間からみれば、推し活もアニメ批評的感性も、第三者性に開かれ過ぎていて*1、他者の目や耳や口を意識しすぎている点では共通しているようにみえる。繰り返すが、推し活とアニメ批評的感性の間に大きな相違点が横たわっているとしてもだ。
 
だから私は、推し活についても、それが他者の目や耳や口を気にし過ぎていたり第三者の評価に心奪われていたりするなら、私が大切にしているものとは相いれないな、と感じるだろう。ちょっと昔のネットスラング的な言い回しになるが、それが過ぎれば「キョロ充的」に過ぎるし、ともすれば、他人が欲しいものを欲しがる人間の顔つきになってしまうかもしれないからだ。
 
世の中には他人が欲しいものを欲しがることしかできない人や、そういう欲しがりかたをするのが人間として正統であるとみる人も、かなりいるようである。というより、私みたいに自分自身にとってどうなのかばかり意識する人間は、社会や世間のなかにおいて取るに足らないもの、資本主義に貢献しにくいもの、なにより政治のできないものとみなされるだろう。そういうのは90年代にも20年代にもファンとしては取るに足らないもの、キモいとみなされるものではないか?
 
うーん、偏屈な方向に流されてしまったぞ。これこそ、今日の社会や世間のなかでキモいとみなされる態度だな。当初、私は藤田さんと自分との対照をとおして、私がいかに動物的であるか、藤田さんがいかに人間的であるのか、を書いてみたかったのだった。そのうえで、範疇的な態度として動物に対する人間の優越を認めたうえで、私のなかではそれが逆転していること、その逆転を促した契機としての新世紀エヴァンゲリオンとの付き合いを書いてみたかったのだった。でも実際に書いてみると、そういう対照をスマートに提示出来ていない、なんだかみっともない文字列が生じてしまった。これは、藤田さんとの言葉のやりとりをとおした議論として失敗の範疇に入ると思うのだけど、この失敗を後日の私に委ねるためにも、ブログに残しておくことにしました。 
 
(※本文はここまでです。以下の有料記事パートにはたいしたことは書いてありません)
 

*1:客観性、と言ってしまうと言い過ぎのようなので敢えて第三者性、と書いた

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「写経」と「要約」で文章力をディープラーニングする

 
SNSで一緒に遊んでいただいている領域で、「文筆業のプロや小説家になるにはどうすればいいのか」といった話が延々と続いていた。
 
この話題はSNS上で……というよりインターネット開闢から繰り返されてきたものだし、世の中には「小説家になるための本」や「文章術の指南書」もたくさん存在している。
 
今回、はじめに私の目に飛び込んできたのは、前島賢さんのメンションだった。
 


 
前島賢さんは、体系化されたトレーニングは今のところ確立されていないとおっしゃる。小説のことはあまりわからないが、「とにかく書くしかない」ってのはわかる気がする。なんにも書かなきゃうまくなりようがない。
 
と同時に、努力すれば開花する素養・素質が全員にあるとも思えない。ものすごい時間と労力を費やして、なんの成果も得られない小説家志望者もあれば、少ない試行回数でもデビューしてしまう人もあるという。
 
これは、ライター業やノンフィクション分野もそうだと思う。書いている量はすごいし、当人も努力している自覚があるのに、あまり上達しない人がいる。かと思えば、はっきりと人を惹きつける文章をオンラインで書き始め、たちまち頭角をあらわしていく書き手もいる。文章づくりに、はっきりとした才能差・能力差があるのは明らかだ。だから誰でも再現可能とは私にも信じられない。
  
 
江波光則さんのこれらのメンションは、文章づくりはもちろん、色々なことに当てはまると思う。人間は、なりたいものにはなれない。なれるものになるしかないなかで、せいぜい、自分の願望をなれるものに寄せていったり、なれるもののなかで自分がなりたいものに近い領野を拡張していくしかない。どうやってもなれないものに執着しすぎるのは不器用で、危険な行為ですらある。だから、「なりたいものになるための努力」だけでなく、「なれるものになりたくなる努力」や「なれるものとなりたいものを近づける努力」、「なれるものとなりたいものを関連づける努力」も意識したほうがいい。本当はどれも、世渡りの技術として切実なのだが、「なりたいものになるための努力」ばかり注目され、他はあまり顧みられているとは言えない。
 
話が逸れた。
しかし、わりと誰でも文章力を底上げできそうな方法は、あると思う。それが、これから挙げる「写経」と「要約」だ。この二つは、望ましい文章を出力するためのプラクティスとしていけているし、実際、私以外でも少なくない人がこれらをやっていると聞いている。私自身は今でもあてにしていて、基礎練習のように続けている。
 
 

写経、楽しんでますか?

 
まず写経について。
ここでも江波光則さんのメンションを紹介したい。
 


 
私は一冊丸ごと写経したことはないが、一章単位での写経は昔からやっていて、今でもダイジェスト版をXやブルースカイなどに放流している。写経をやっていると、文章のペース、句読点のタイミング、話の展開、いろいろなことを考えさせられる。黙読しているだけでは気づかなかったが、写経をとおして気づき得ることは多い。
 
音読が面白いこともある。音読という行動は黙読とはなにか違うらしく、気に入っている本を音読してみるのはためになることだ。とりわけ小説の音読は面白いと思う。気に入った箇所を音読し、その調子を味わってみて、そのテンポ感や言葉遣いを噛み締めたい。それが、自分自身が書く力にも繋がると私は勝手に思っている。自分で書いた文章もときどき音読してみたほうがいい。音読して違和感があるなら、とりあえず「要推敲」の付箋を貼りつけておきたい。
 
写経の対象は何が好ましいのか?
 
最初は、自分が写経したいものを写経すればいいのだと思う。
私がはじめて写経したのは、以下だった。
 

 
メガドライブで発売された名シミュレーションゲーム『アドバンスド大戦略』の取扱説明書の後半には、登場する第二次世界大戦の兵器についての解説がついている。私はこれをワープロでひたすら写経していた。
 

 
たとえばこのページにはイギリスの歩兵戦車、マチルダIIやチャーチルについて解説が書かれている。中学3年生の頃の私は、ワープロの漢字変換や記号変換に慣れるついでに、これらを片っ端から写経していた。
 
その次に写経の対象になったのは、アーケードゲーム誌『ゲーメスト』だ。ゲーメストの攻略記事のなかでお気に入りのものを写経し、それをテンプレートとして真似しながら自分バージョンのゲーム攻略文章を作っていた。というのも、『ゲーメスト』の攻略記事の公開スピードは自分で攻略するスピードとたいてい一致しておらず、自分自身のニーズや技量にぴったり当てはまる内容でもなかったからだ。*1。学生時代のわたしは、『アドバンスド大戦略』の取扱説明書や『ゲーメスト』の文章を写経してディープラーニングしていたのだと思う。
 
あと私は、翻訳された書籍の文章もよく写経する。
 

父親になることでテストステロン濃度が変化するが、それは文化や子どもと接する時間の長さによっても大きく影響を受ける。たとえば、タンザニアの遊牧民族ハザ族の父親は、頻繁に赤ん坊を抱きかかえ、食事を与え、一緒に遊んだりしている。一方で近隣の定住牧畜民俗ダトガ族の父親は、子どもを母親やその他の養育者に任せっぱなしにする傾向がある。どちらの父親のテストステロン濃度が低いか、読者のあなたなら容易に想像できるだろう。もちろん、ハザ族の父親である。ハザ族の父親のテストステロン濃度は、子どものいないハザ族の男性よりも50%近く低かった。一方でダトガ族の父親のテストステロン濃度は、子どもがいないダトガ族の男性と違わなかったのである。『テストステロン』

こういう生物学系の文章でも、翻訳者の語彙のチョイスは参考になる。と同時に、写経とは自分の魂に文章を刻み付け、そこにある文章を自分の魂の一部に引き込もうとする作業でもある。覚えたい知識、真似たいセンテンス、そういったものを自分自身に刻み付けるにあたって、写経は非効率のようにみえて効率的なことだと私は信じている。
 
してみれば、私は誰かから知識や文章力を拝借したい時、身体性を重視しているのだと思う。写経の対象がリスペクトの対象であればなお良い。拙著『「推し」で心はみたされる?』でも書いたことだが、リスペクトに基づいた修練は技能習得がはかどる。リスペクトしたくなる書籍や文章は、好ましい写経対象だ。バンバン写経して、文章力も知識も吸い取ってしまえば良い。
 
 

要約というプラクティス

 
あともうひとつ、「要約」もすごく練習になると思う。
 


 
ここで82さんがおっしゃっているように、要約はひとつの技術だと思う。要約の技術=小説や論説文を書く力とまでは言えないが、要約が文章表現の基礎技術のひとつであるのは否めない。同じ内容を2000字で表現するのと800字で表現するのでは、後者のほうが難しい。この点でいえば、X(twitter)の140字、はてなブックマークの100字といった制約も役に立つ。俳句や短歌も同様だ。
 
少ない文字数のなかでいかに多くの事柄を正確にモノが言えるのかは、その人の技量、ひいては面白さやフォロワー数にも直結する。Xやはてなブックマークの文字数制約のなかで努力するのも、文章表現の練習として馬鹿にしたものじゃないと思う。
 
実際、学生向けの国語の課題にも「要約」に相当する課題がしばしば登場する。小中学生に出される国語のテストには、本文の内容を(実質的に)要約させるタイプの設問がしばしば出てくる。問われている箇所を正確に特定し、それを要約する訓練が正真正銘の国語のトレーニングにも含まれているのだから、「要約」には練習に値する意義があるのだろう。
 
あと私の場合、新聞や雑誌とその作り手の人々から随分と教えていただいた。
 
新聞書評や雑誌書評では、400字や800字といった文字数の制約下でできるだけ多くの情報を正確に伝えなければならない。すごく単純化して言えば、その本の特徴を400字のなかで6つ挙げられる書評と8つ挙げられる書評なら、後者のほうが優れていると思う。できれば平易な文章で、なるべく面白く、リズム良く読める文章が最高だ。
 
これって、本当は活字に限ったことではないはずだ。
テレビ番組のなかでアナウンサーや芸能人のしゃべっていることも、本当はすごく情報が圧縮されていて、なおかつ、正確性がいつも問われていると思う。芸能人の場合、そこにエモーションの伝達や笑いの伝達といった課題も伴う。限られた時間で、なおかつ一発勝負の生放送でもそうした「要約」の必要性や正確性を見失わないアナウンサーや芸能人は、口語表現分野における「要約」の達人でもあると思う。ここでも「要約」だけが彼らの仕事を成り立たせているわけではないが、彼らの無駄の無さから教わることは少なくない。
 
話を戻すと、短歌や俳句でもXでもはてなブックマークでもブログでもnoteでもいいが、自分が見たもの・知ったもの・考えたものについて要約を作るのは、文章力を鍛えるトレーニングとしてすごくアリだと思う。冗長にならず、正確性もできるだけ犠牲にせず、不特定多数に読んでもらいやすいよう意識して文章づくりをして得られるものは少なくない。仕事の業務連絡でも「要約」はものすごく役に立つので、そういう意味でもやっておく値打ちはある。
 

まとめ

 
前島賢さんや江波光則さんがおっしゃるように、誰でも絶対に文章のプロやセミプロになれる銀の弾丸はないと思う。けれども文章の基礎練習として、「写経」と「要約」を繰り返して身体と頭にディープラーニングさせる方法はある程度まで有効で、私以外にもやっている人が多い。おすすめ。
 
 

*1:特に『エアーコンバット22』は自分向けの攻略記事を作らなかったらドッグファイトモード全機機銃撃破は達成できなかったと思う。ゲーメスト所収の記事は、まっすぐ飛ぶことすら困難な状態からのスタートには役に立ったが、ところどころ初級者~中級者の事情にそぐわない内容があるうえ、ドッグファイトモードに登場する敵のこまかな難易についてまでは教えてくれなかった

インフルエンザになったらカップヌードルを食べる

 
歳をとると、自分の身体の短所だけでなく長所もわかってきて、そのおかげで助かること・アドバンテージになることがある。私の場合、インフルエンザなどにかかった時にカップヌードルを食べるのもそのひとつだ。
 
 

ネットで検索すると、インフルの時にはカップ麺を食べるな、という助言が見つかる

 
インフルエンザにかかった時にはどんなものを口にしたらいいのか? 一般には、食べやすいものや消化しやすいもの、口当たりの良いものだろう。オンライン診療のクリニックさんのページを見ても、だいたい、そうした食べ物がすすめられている。そうした助言のなかに、「コンビニで買える食べ物」についてのセンテンスがあったので紹介する。
 

消化がよいおかゆやうどん、スープ類、ゼリー飲料、ヨーグルトなどは、食欲がないときでも取り入れやすく、コンビニやスーパーでも手に入ります。
おかゆや雑炊はパウチタイプの商品もあり、保存しやすく手軽に利用できるため、ストックしておくのもおすすめです。
ホットスナックなどの揚げ物や、カップ麺などの胃腸に負担がかかる食品は避けたほうがよいでしょう。

https://www.clinicfor.life/telemedicine/flu/about/wi-031/

このように、消化に良さそうな食品がおすすめされていると同時に、ホットスナックなどの揚げ物やカップ麺が胃腸に負担のかかる食品として「避けたほうが良い」と記されている。不特定多数の人に対する助言としてまっとうだと思うし、とりあえずで選ぶならこのとおりにやるのが良いように思う。
 
 

ところがこの身体はインフルの時にカップ麺を欲してやまない

 
しかし人体には個人差があり、人にはそれぞれ、機能が強い部分も弱い部分もある。頭痛が起こりやすい人、便秘になりやすい人、吐き気に悩まされやすい人、皮膚が弱い人、等々があると同時に、頭痛が起こりにくい人、便秘になりにくい人、吐き気に悩まされにくい人、皮膚が強い人がいる。個人の身体機能をつぶさに眺めると、平均から外れた個人差や例外的な性質を見かけることが稀ならずある。
 
私の場合、病気の時の胃腸の消化能力が異様に高いことがそれだと思う。
子どもの頃の私は消化器系のトラブルが絶えず、嘔吐や下痢が起こりやすかった。私も大変だったが、いちいち病院に連れていかなければならない親も大変だったと思う。ところが年を取るにつれてそうしたトラブルが起こりにくくなり、中年になって気が付いてみると、たいていの人よりも嘔吐や下痢が起こりにくく、特にインフルエンザやコロナウイルスなどに罹患している時にも食が太いままであることがわかってきた。
 
そうしたことを反映してか、40代のある時期から、私は「風邪をひいたらカップヌードルを食べる」という習慣を身に付けるに至った。
 

  • Cup Noodles
 
私のお気に入りは、なんといってもカップヌードルのトムヤムクン味だ。インフルエンザやコロナにかかってもこいつがむしょうに食べたくなる。初めてコロナウイルスに罹患した時はさすがにちょっとしんどさを感じたが、それでも完食したし嘔吐することもなかった。簡単に作れ、簡単に食べられ、風邪っぽくても味がちゃんとわかり、身体が暖まり、塩分がたっぷり入っているのが素晴らしい。
 
インフルエンザなどにかかっている時に食べるカップヌードルのことを、私は「食べる点滴」と呼んでもいる。昔は熱が出て開業医にかかるとやたら点滴をされたものだった。自分自身も医師のはしくれになってみると、別に点滴じゃなくてもいいし経口補水液が買えるし……などと思ったりする。しかし点滴であれ経口補水液であれ、水と塩分を補ったほうが好ましい場面というのはある。発熱している時や発汗が絶えない時、水と塩分は普段より身体から失われやすくなる。腎機能や心機能に問題がないなら、ある程度水と塩分を補い続けながら余った水分や塩分は腎臓をとおして排泄しておけば、脱水を避けつつ、汗もいくらでもかける状態を維持しながら発熱が終わるのを待てる。
 
そこで輝くのがカップヌードルだ。
食べやすさや消化吸収の問題さえクリアできるなら、カップヌードルはある程度まで理想に近い「食べる点滴」になる。水分の補給と塩分の補給の両方ができる。それだけでは少し水分が足りない気がするので私は白湯もいくらか用意し、スープは最後まで飲んでしまう。身体が暖まり、汗がどっと出る。あわせてアセトアミノフェンなども内服し、汗をどうにかしてからひと眠りすると、休めた感じがして良い。
 
無味乾燥な点滴やおいしくない経口補水液と違って、栄養を身体に入れたぞという手ごたえもあり、空腹感が改善するのも良い。ああそう、ほとんどどんな時でも空腹を感じるのも、私の身体の強みだと思う。具合が悪い時にもちゃんと腹が減り、食べたいものを食べられるのは本当は軽視できないことのはず。そうしたうえで「食べる点滴」として水分と塩分を補給できるのだから、ありがたい限りだ。実際はサムゲタンやミネストローネスープ等でも構わないし、他のカップ麺でも構わないのだろうけど、私はカップヌードルのトムヤムクン味が食べやすいようなので、備蓄は欠かせない。
 
私によく似た胃腸の機能を持っていて、私と同じぐらい空腹になりやすい人で、心臓や腎臓や糖代謝などに特別な障害を持っているわけではない人なら、たぶんこの手は使える(と思う)。その際は、もちろん他のカップ麺でも構わないし、もっとお行儀良くやるなら暖かいそうめんとか、スープのたぐいが好ましかろう。とにかく、自分の身体が受け付けられる範囲内で好んで食べられるものを選ぶよう、意識したい。
 
 

食べられない人は食べられないし、食べられない局面ももちろんあるので悪しからず

 
繰り返しになるけれども大事なことなのでもう一度断っておく:「インフルエンザなどにかかったらカップヌードル」というやり方は、全ての人におすすめできるものではない。私と同じような体質を持った人で、インフルエンザやコロナにかかっても腹が減り、嘔吐や下痢が起こらず、食べたいものを食べたいと感じられる人にしか適用できない。そうでない人におすすめすべきは、もっと食べやすく、消化に良く、刺激の少ない飲食物だと思う。循環器などに問題をかかえている人も、別の手段が必要になるので、あしからず。
 
あと、私と同じ体質のはずなのに嘔吐や下痢が出現していて食べ物を受け付けない時は、それはそれで大事だ。早めに医療機関にかかったほうが良いように思われる。
 
 
[追記]:はてなブックマークの人から、『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』の最新話(19話)がだと教えてもらった。もちづきさんでも風邪の時は食欲が落ちるようだけど、でも結論は相変わらずのようで。油そばは水分補給に向いておらず、カップヌードルに比べると「食べる点滴」としての有利をとりにくい気はします。でも治った後ならいいのか。ましてや、油なんて……
 
 

日本が翻訳者がたくさんいる国で良かった

 
おとといの続き。
 
おととい、「日本が好き」な理由なんてなんでもいいじゃないですか、と書いた。そうした後に、私にとって日本が好きな理由、日本で好きなもの、日本で助かっていることを色々と思い出してみた。
 
振り返ると、日本が好き・日本で良かった理由はたくさん思いつく。文学やサブカルチャーはもちろん、食生活、風土、制度、個別の要素はいくらでも挙がる。他国と比べて劣っている部分、不便な部分がないとは言えないけれども、「住めば都」とはよく言ったものだ。
 
 

私は日本の翻訳者にめちゃ助けられています

 
ところで、私の「日本が好き」のひとつに、優れた翻訳者がたくさんいて、海外の読み物を母国語で読めることを挙げたい。以下、幾つか例を挙げてみます
 

 
私が若かった頃にめちゃくちゃな影響を受けたフランスの社会学者・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』を訳したのは、ご自身も哲学者である今村仁司だ。この先生の翻訳のおかげで、私は社会学などの本に挑戦する勇気をもらったようなものだ。ここから今村先生の本にも関心が向かい、たとえば『近代の労働観』を読んだりもした(次に繋がる読書になりました!)。
 

 
今、調べてみたら、2024年には『資本論』を翻訳しているともいう。『資本論』はできれば近づきたくない本だけど、読むなら今村先生のこれで行くと思う。「難しい本でも、この翻訳者なら挑戦できるかもしれない」と思える翻訳者がいるのは、大変幸福なことだと思う。ありがたいです。
 
 
で、そういうのは学術方面ばかりでもない。
  
この、『イタリアワインがわかる』はマット・クレイマーというアメリカのワインライターの人が書いた本だけど、このマット・クレイマーの書籍を訳しているのは阿部秀司という翻訳者だ。ワインの翻訳本はアタリハズレがあるけれど、この先生が翻訳しているなら安心できる。
 
 
もっとカジュアルな文体の本も、翻訳者の人がすごく良い仕事をしていることがある。去年から再び話題になっているSF小説『プロジェクトヘイルメアリー』も、そういう本だ。
 

 
私は日本語版の『プロジェクトヘイルメアリー』を発売直後に購入したが、その決心がついたのは同じ作者の先行作品『火星の人』を、まったく同じ翻訳者・小野田和子が担当していると知っていたからだ。『火星の人』の翻訳は臨場感溢れる、良い意味でweb小説っぽい雰囲気のもので、これがすごく良かった。『プロジェクトヘイルメアリー』も親しみの持てる、肩に力の入ることのない文体で訳されていて嬉しい。「SFは格調高い翻訳でなければだめだ」なんて人には敬遠されるかもしれないけど、私はこの二作はこの翻訳こそが似合っていると思う。
 
 
カジュアルな文体の翻訳に助けられた! で思い出すのはこの翻訳者。
 

 
山形浩生という人は、いろんな本の書評を書いたりいきなり翻訳を作ったりする凄いインターネットの人というイメージだったけど、実は翻訳者だったのでした。山形先生の翻訳、ひらがなの使い方や段落から段落に移動する際の繋ぎとかめちゃくちゃうまくないです? ピケティの『21世紀の資本』をちゃんと最後まで読めたのは、山形先生のおかげだと思う。 
  
 

自国語でこんなに本がたくさん読める国ばかりではない

 
挙げていったらきりがない。
日本は翻訳者がたくさんいて、翻訳が盛んにされる国だ。日本に住んでいると当たり前のように感じられるけど、本当はそうではない。自国語にあまり翻訳が行われず、原著にあたるか英語訳をあたるしかない国も珍しくない。それは、専門家以外が外国書籍を読むにあたって敷居の高いことだ。
 
それと翻訳本のいいところは、頭を自国語のフォーマットにしたまま外国書籍が読めることだ。「翻訳者の力量に身を任せる限りにおいて」という条件付きではあるけれども、日本語に訳された本を読む際には、日本語でたやすく考えることができる。そのうえで、原著のニュアンスを伝えるために逐一元の単語や文章を併記してある翻訳書*1もあり、それはそれで大変に助かる。そうした気配りは、部分的とはいえ、原著のニュアンスについて想像する助けになる。今だったら、AIの助言を得ながら読む際のキーワード補助にもなるだろう。
 
雑食動物のように外国書籍を読む私のような人間にとって、日本に翻訳者がたくさんいるのは本当にありがたいことで、必要不可欠だった。私はある時期から外国語にリソースを割くのを割と諦めて、翻訳者の仕事に完全に身を委ねる代わりにできるだけ広く・できるだけ自分の身に引き寄せて外国書籍を読もうと決心してきた。そんな私にとって、信頼できる翻訳者との出会いは優れた著者に出会うのと同じぐらい値打ちのあることだ。私は、そういう翻訳者の力を借りられる国であることも、自分が「日本が好き」と言える理由のひとつだと思っている。
 
 

*1:例えばブルデュー『ディスタンクシオン』やコジェーヴ『ヘーゲル読解入門』の訳書には、そこらじゅうにフランス語やドイツ語のセンテンスや単語が併記されていて、これが原著の雰囲気を想像するうえでとても助けになった

古典や文豪を知らなければ「日本が好き」と言っちゃいけないの?

 


 
Xというプラットフォームは、何かしら意見が衝突するようにできているのかもしれない。それが反目を生むのか議論を生むのか、社会の一隅を照らす窓となるのかは、さまざまだろう。

今朝、私は上掲のようなポストをXで見かけて「なんだこれは?」と思った。 だからブログで問うてみたい。
 
古典の作品や文豪の作品に日本らしさ・日本ならではの良さがあるのは私も理解しているつもりだ。私は勉強不足なので古事記や日本書紀についてあまり知らないし、伊勢物語も読んでない。しかし源氏物語については部分的に読んだ記憶があるし、なにより、漫画『あさきゆめみし』や大河ドラマ『光る君へ』などとおして楽しんだ記憶もある。
 

  • 吉高由里子
 
文豪も、正直私はあまりよく読めていない。それでも、夏目漱石や太宰治や芥川龍之介などは私の胸を深くえぐった。それらも日本人の手による日本ならではの作品で、外国の作品では摂取できないエッセンスを宿していると思う。
 
「日本が好き」と言う時、その日本の文化や風習と深く関わる日本にしかないものが連想されること、それ自体はとても自然なことだ。上掲のポスト主の方にとって、古事記や日本書紀や源氏物語や伊勢物語、ひいては日本を代表する文豪たちの小説を挙げるのが自然なのも不思議ではない。実際、それらの作品をとおして日本を知る・日本を味わう・日本が好きだと感じる人は他にも結構いらっしゃるに違いない。
 
 

でも、「古典や文豪を知らなければ何が好きなのかな」っておかしくないか??

 
でも、だからといって古典や文豪を知らなければ日本が好きって言っちゃいけないってことはないですよね?
 
上掲のXのポストは、婉曲な言い回しで「古典や文豪を知らなければ日本好きにあらず」と言っているようにも私には読めた。少なくとも、ポスト主の方にとって、古典や文豪を知らない日本ラバーの存在とは、少し考えにくいものであるようだ。それは不幸な認識だと思う。この世には、古典や文豪をたいして知らない日本ラバーが、古典や文豪をよく知る日本ラバーよりもずっと多い。その存在に気付かないのは、とりわけ、出版社で働いているとされるポスト主の方にとって、きっと良くないことだと思うから私は伝えなければならないと思った。
 
だいたいから言って、私も古典や文豪をよく知らない日本ラバーの一人である。ちゃんと源氏物語を通読したわけじゃないし、夏目漱石だって全部読んだわけじゃない。古典や文豪を知らなければ日本が好きと言ってはいけないのだとしたら、私も日本が好きと言えない、欠格者ということになろう。
 
でもって、この考え方を突き詰めた先にあるのは、「専門家に準じるレベルで日本古典や日本文学を読んでいなければ日本が好きとは言えない」だろう。ここまでくると、明らかにおかしい。大昔に言われた「SF1000冊読んでなければSFファンにあらず」も十分におかしかったが、この場合は「しっかり日本古典や日本文学を読んでいなければ日本が好きにあらず」となってしまうから、「SF1000冊~」より一層おかしいと言える。
 
「別に古典や文豪を読んでいなくったって日本が好きでいいじゃないか!」と私はディスプレイの前で叫んでしまった。どうして伊勢物語や森鴎外を読んでいなければ日本が好きと言えないのか。そんなのは絶対におかしい。
 
私は、古典や文豪の場所に、『葬送のフリーレン』や『呪術廻戦』や『初音ミク』が入っていたってまったく構わないように思う。それらは現時点ではサブカルチャーとみなされている作品やキャラクターだが、それらには日本で生まれた、日本にしかない良さが充溢している。幾星霜ののち、そうしたサブカルチャーの作品の一部は古典とみなされるかもしれない。いや、そんなことはどうでも良い。私の心が叫びたがっているのは、日本で生まれた日本にしかない良さが充溢している限りにおいて、古典や文豪を愛する人の「日本が好き」という気持ちと、現代の作品やキャラクターを愛する人の「日本が好き」という気持ちはそんなに変わらないんじゃないか、ということだ。
 
もう少し補足すると、別に、いかにも文化的な作品やキャラクターでなくても構わない、とも思う。
日本の食事や食習慣が好き、もっと具体的には煎餅や寿司や(日本風)カレーライスが好きって気持ちが「日本が好き」と繋がっているのはぜんぜん不思議じゃない。今となっては、サイゼリヤが好きとか日高屋が好きだって構わないだろう。日本の競馬が好きな人、日本のプロ野球が好きな人もあるかもしれない。
 
私は日本の海も好きだ。マリアナや東南アジアの海、地中海ももちろんいいが、それでも一番好きなのは日本の海、特に日本海側の海だ。これだって私のなかにある「日本が好き」であり、古典や文豪とは違った背景に基づく「日本が好き」だと思う。同じように、静岡や山梨に住む人なら富士山のある景色が「日本が好き」と繋がっていることだってあるだろう。
 
「日本が好き」は「地元が好き」とも無関係ではない。日本、という言葉を狭義のナショナリズムに限定するなら、「日本が好き」とは近代的かつ観念的な代物となり、それは「地元が好き」とも、ひょっとしたら「初音ミクやサイゼリヤが好き」とも乖離するかもしれない。が、げんに日本が好きとなんとなく思っている大半の人は、そんな厳格なナショナリズムに基づいているわけではなく、もっと曖昧に、もっと広く「日本が好き」とイメージしているだろう。そういうものだと思うし、それで構わないとも思う。
 
せっかくなので付け加えると、「日本が好き」という気持ちを厳格なナショナリズムに基づいて考えすぎるのも、本当はもっと広く存在する「日本が好き」という気持ちを認めなかったり見て見ぬふりをするのも、なんか違うと思う。
 
だから、古典や文豪を知らなければ「日本が好き」と言っちゃいけないかのようなポストには、私はつい反応せずにいられない。日本が好きである条件が厳しく制限されてしまった気になってしまうからだ。そして古典や文豪は初音ミクやサイゼリヤや日高屋に比べて敷居が高いから、言い方次第では、ある種の選民主義にも聞こえかねない。冒頭リンク先のポストにはそういう性格は無さそうだけど、こういうのは言い方次第で、「勉強ができる人でなければ『日本が好き』を言っちゃいけないような雰囲気」に作り替えられるかもしれない。
 
 

「日本を論じる」だけでなく、「日本が好き」すら勉強ができる人のものだとしたら

 
こうして私が「日本が好き」についてブログに書いてしまっている背景には、2026年2月8日に行われた衆議院議員選挙と、それに至るまでの選挙期間中に見聞した、やたらと選民主義的な言葉たちがあったと、私は自己分析する。
 
選挙期間中、日本の将来について自分たちはちゃんと考えているが、ろくに考えていない人間がたくさんいることを憂いている言葉がたくさん飛び交っていた。自分たちには熟慮があり、そうでない有権者には浅慮しかないと言ってはばからない人を何度も見かけた。選挙が終わってからもそうだ。有権者について、選民主義的なことを言う人は後を絶たない。息を吐くように、物凄く失礼なことを平気で口にしている「日本を一生懸命に論じている」人の発言を見るたび、私はひどいなぁと思った。
 
いつも政治について考えている人、"わかっている"人でなければ日本を論じるには値しない・日本について何も考えてもいない、とみなすようなポストをX等では頻繁に目にした。職場やインターネット上では政治に対して無言の人々のなかにも、日本のことを考えている人、考えたうえで投票所に足を運んでいる人だってたくさんいるに決まっている。だのに、どうしてそんなことが言えてしまうのだろうか? そんなひどいことを当たり前のようにメンションする支持者が溜まっている政党は、選挙では苦戦するだろうと思う。そのような排他的で選民的なメンションは、幅広い支持を獲得するうえで、足手まといになるだろうからだ。
 
それでもまだ、選挙にある種の選民主義が顔を覗かせるのはまだわかる*1。だが「日本が好き」にまである種の選民主義がしみ込んでくるとなったら、これは、一層あってはならないことのように思う。日本を好きな理由なんて、なんだっていいじゃないか。どんな人がどんな理由で日本が好きになったっていいじゃないか。ついでに言うと、どんな人がどんな理由で日本が嫌いになっても、それはそれで構わないと思う。そういう、好き嫌いの次元にまで、条件とか、資格とか、正当性とか、そういう話が紛れ込んでくるのは息苦しい。私はとうてい、そういうの好きになれない。
 
そして「○○を愛好していなければ日本が好きとは言えない」的な考えの地平線の向こうには、「日本人はすべからく○○を好きにならなければならない」が待っているかもしれない。
 
いや、これは少し考えすぎか。
 
とにかく私が言いたいのは、「日本が好き」ぐらい好きにさせてくれよってことだ。高邁な日本が好きもあれば低俗な日本が好きもあるでしょう。でも、それでいいじゃないですか。選挙前後の毒気にあてられて、つい、書いてしまいました。「日本を論じる」ばかりか「日本が好き」までもが一部の人々の専有物や特権であるかのように思われたらたまったものじゃないので、このように私は過敏に反応してしまいました。
 
 

*1:この文章を全部書き終わってから読み直して、いや、わかっちゃいけない気がしてきた




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