最近、エヴァンゲリオン30周年のことがあったりして、アニメに対する視聴態度とか、アニメに対する批評的態度について思い出す機会が重なった。私がどうアニメを観るようになったのか、それが私自身を形成するうえでどう大事だったのかを思い出す機会になった。批評家の藤田先生からいただいた以下のポストが特に良いトリガーになったので、少し考えを広げてみたい。
ぼくも『エヴァンゲリオン』世代、「シンジくんはぼくだ!」的な癒着していた世代ですが、同時に「これはただのアニメ」「キャラクターにすぎない」「現実に帰れ」的なメタな意識と突き放しが同居していたと思うんですよ。その二重性は、歴史的な産物だったのかなぁ? https://t.co/n5dVOcphrM
— 藤田直哉@『小島秀夫論』『攻殻機動隊論』 (@naoya_fujita) 2026年3月3日
「余所見をしないでベタベタに観る」
「現実に帰れ」。
とても懐かしい響きだ。
それから2026年から見れば無邪気な言葉にもみえる。私の理解をざっくり言えば、2026年における現実はアニメのようで、アニメもまた現実のようだ。物理的現実、自然科学的現実が厳にあること、それ自体は否定されるべくもない。では社会的現実はどうだろう? 現実を想像と思い込みと願望が分厚く覆い、その覆いを加速する通信技術が人類社会を包囲している2026年において、たとえば『Fate/strange Fake』や『呪術廻戦』などは現実そのものではないが現実に先行している。あるいはそれらでさえ、社会的現実に関連するフェ…フィクションとしてそこに存在している。
そうした情況下での「現実」、とりわけ社会的現実の在り処を巡って、私たちは右往左往している。が、ここでは既存秩序に従い、「大手メディアとオーソリティの言う通りにしていれば社会的現実に帰ることができます」と復唱しておくことにしよう。
けれども1997年において、「現実に帰れ」はもう少しシリアスな突き放しだったと言える。少なくとも突き放しと受け止める人もいたのだろうなぁと思い出す。それからエヴァンゲリオンの時代に流通していた「アニメの言葉」を思い出さずにいられないフレーズでもある。
『新世紀エヴァンゲリオン』に対するオタクたち、ひいては視聴者たちの態度はさまざまだった。TV版がヒートアップしていき、26話で爆発し、それから旧劇場版『シト新生』『Air/まごころを、君に』がつくられ、作品が外へ外へ広がっていった頃、キャラクターや物語に自分自身を重ねる視聴者がいると同時に、冷静で客観的にみえる言葉で作品を論評する人々がいた。両方、という人だっていただろう。たとえば大塚英志のエヴァンゲリオン評に耳を傾け、「TV版の26話は自己啓発セミナーだ」とうそぶいているその当人が、碇シンジや葛城ミサトといったキャラクターに前のめりな態度をとっていることなど、珍しくもなかっただろう。『パラノ・エヴァンゲリオン』とか『スキゾ・エヴァンゲリオン』とかを買い求め、いわば楽屋裏から作品に言及するファンもいたように思う。
制作者サイドのステートメントやコンテキストを視野に入れながらエヴァンゲリオンについて語る・考える人たちがいたのは事実だったはずで、そうした態度は藤田さんのおっしゃる(作品に対する)メタな意識、に通じるものだろう。作中描写に基づいて作品を愛顧することをベタとみるなら、楽屋裏の事情を踏まえて作品を論評するのはメタレイヤーの楽しみ方とみることができる。時代や社会とエヴァンゲリオン"現象"を関連づけてしゃべってみるのもそのうちかもしれない。
そういった態度がカッコ良いという雰囲気は、現在よりも1990年代において強かったと思う。それが作品に対する上等な態度であり、ベタ一辺倒は下等だ、という意見もたぶんあったように思う。正確を期して言い直すなら、そういう意見が存在するように学生時代の私には見えていた。
地方在住の私の耳にも、こうしたメタレイヤーを踏まえたエヴァンゲリオン評はある程度までは聞こえていた。その劣化コピーかもしれないが、エヴァンゲリオンの「謎本」なるものを買って読むファンの姿もあった。エヴァンゲリオンを楽しむファンにもいろいろあったし、一人のファンがいろいろな態度やレイヤーで作品と向き合う・作品を切り取ることはあっておかしくないことだった。ベタからもメタからも、なんならネタからも作品を楽しむ──それは珍しくないだけでなく、上等なファンやオタクを自負する人々には可能であるべき姿勢だったのだとも思う。
その後、私はエヴァンゲリオンとベタレイヤーに著しく偏ったかたちで向き合うことになった。だから私が『スキゾ・エヴァンゲリオン』や『パラノ・エヴァンゲリオン』を実際に読んだのは新劇場版が完結してからのことである。そういったものは私には必要無かったし、場外のノイズでしかないと感じられたからだ。TV版の25-26話や『まごころを、君に』のなかにメタく受け取りたくなる表現が埋め込まれていたとしてもである。
ビデオテープを何十回もリピート再生し、楽屋裏の事情など無視して作中描写に集中・埋没する。作中描写と自分自身との相互作用をどこまでも追求する。万巻のコンテンツを渉猟できる都会のオタク・エリートではなく、たとえば『Zガンダム』や『ガンダムZZ』の再放送を録画し何度も再生するしか能のない田舎のファンだった私にとって、それは難しくない向き合い方だった。
さきに触れたように、当時の私の推測では、ベタに徹してメタレイヤーを見ない、そして批評的な態度を取れないファンは(それが可能なファンから)下にみられる存在と思われた。そうした推測は現在も消えてはいない。むしろ文化資本について学ぶにつれ、そのことを確信すらしている。
しかし、そんなのは私には関係のないことだったし、作品やキャラクターに対して零距離になってみなければわからないこともある。エヴァンゲリオンは、たとえばTV版の後半パートは、零距離になるのに適したつくりでもあった。ATフィールドというフィーチャーも、『死に至る病、そして』や『人のかたち、心のかたち』のような話も、作品やキャラクターとの距離感を見失わせる、否、みずから放棄するにはなかなか都合が良い。自己啓発セミナーと呼ばれたTV版25-26話にしてもそうだ。
歳月が流れ、年を取り、作品やキャラクターに対して零距離になる、なんてことは私にはできなくなった。メタレイヤーを意識しながらアニメを眺めることにもあまり抵抗がない。というより、何かに言及する際には、いくらかメタレイヤーを意識しながらまとめたほうがうまくいくとさえ思っている。
けれども、あの時、エヴァンゲリオンにベタベタに向き合ったことは良かったと思っているし、その経験は『シュタインズ・ゲート』や『まどか☆マギカ』や『PSYCHO-PASS』や『葬送のフリーレン』を世間のなかの作品でなく自分にとっての作品として受け取る際の態度として今も生きている。『機動戦士ガンダムジークアクス』のような、世間にウインクしまくった興業を眺めている時でさえ、その態度は尾てい骨のように残っていた。
私は、好きな作品が社会において(または制作陣にとって)どのような作品なのかよりも、私自身に何をもたらしたのか、ひいては私にとってどういう作品なのかを重視する態度──そういう態度は、「推し活」の時代にあっても注目されず、上等とはみなされないようにみえる──を大事にする。推し活と、90年代のアニメ批評的な感性は対照的な部分をもちろん含んでいるが、私自身にとってどういう作品なのかを重視する主観的人間からみれば、推し活もアニメ批評的感性も、第三者性に開かれ過ぎていて*1、他者の目や耳や口を意識しすぎている点では共通しているようにみえる。繰り返すが、推し活とアニメ批評的感性の間に大きな相違点が横たわっているとしてもだ。
だから私は、推し活についても、それが他者の目や耳や口を気にし過ぎていたり第三者の評価に心奪われていたりするなら、私が大切にしているものとは相いれないな、と感じるだろう。ちょっと昔のネットスラング的な言い回しになるが、それが過ぎれば「キョロ充的」に過ぎるし、ともすれば、他人が欲しいものを欲しがる人間の顔つきになってしまうかもしれないからだ。
世の中には他人が欲しいものを欲しがることしかできない人や、そういう欲しがりかたをするのが人間として正統であるとみる人も、かなりいるようである。というより、私みたいに自分自身にとってどうなのかばかり意識する人間は、社会や世間のなかにおいて取るに足らないもの、資本主義に貢献しにくいもの、なにより政治のできないものとみなされるだろう。そういうのは90年代にも20年代にもファンとしては取るに足らないもの、キモいとみなされるものではないか?
うーん、偏屈な方向に流されてしまったぞ。これこそ、今日の社会や世間のなかでキモいとみなされる態度だな。当初、私は藤田さんと自分との対照をとおして、私がいかに動物的であるか、藤田さんがいかに人間的であるのか、を書いてみたかったのだった。そのうえで、範疇的な態度として動物に対する人間の優越を認めたうえで、私のなかではそれが逆転していること、その逆転を促した契機としての新世紀エヴァンゲリオンとの付き合いを書いてみたかったのだった。でも実際に書いてみると、そういう対照をスマートに提示出来ていない、なんだかみっともない文字列が生じてしまった。これは、藤田さんとの言葉のやりとりをとおした議論として失敗の範疇に入ると思うのだけど、この失敗を後日の私に委ねるためにも、ブログに残しておくことにしました。
(※本文はここまでです。以下の有料記事パートにはたいしたことは書いてありません)
*1:客観性、と言ってしまうと言い過ぎのようなので敢えて第三者性、と書いた

