以下の内容はhttps://ose20.hatenablog.com/entry/2024/06/15/124602より取得しました。


読書記録:津田幸男『英語支配とことばの平等』

はじめに

『英語支配とことばの平等』という本を読んだのでその感想を適当にまとめたい。この本は、世界で英語が特権的な立ち位置を獲得していることの問題点とそれへ対処法を述べ、さらに進んで「ことばの平等」という概念を浸透させようと訴える本である。自分もどちらかというと英語が傲慢にふんぞりかえっている現状にいくらか思うところがあるので、その道の専門家がどのようなことを考えているのか知りたくて今回読むに至った。

 

本の概要

本書は3部構成からなる。第1部では英語が事実上の世界標準語として扱われていることによる問題を6つ挙げる。第2部ではこの状況への対応策として、日本が取れる施策を国内、国際のそれぞれの分野で具体例を挙げる。そして第3部では、「ことばの平等」というより原理、原則的な概念に目を向けて、これを推し進めていくための取り組みの必要性を訴える。

 

総評

主張がシンプルで一貫しているのでかなり読みやすかった。あと、著者の思想の強さが隠しきれないというか、流石にそれは言い過ぎだろうみたいな強火の主張がたまに紛れ込んでるのが面白かった。ただ、客観的な事実のみからしか何かを言うことができないとしたらかなり幅が狭まってしまう気がするので、ちゃんと区別ができていれば問題ないのかなとか考えながら読んでた(あとそもそもこれ論文じゃないし)。

 

切り口別の雑感

著者の提案のいくつかは構造的に無理がある

英語は英語を話せるものとそうでないもの、あるいは英語を母語としているものとそうでないものの間に強烈な不平等をもたらし、差別の温床となり、非英語圏の文化や精神をじわじわと蝕んでいくということには同意しつつも、著者がそれに対抗するために提案した方法のいくつかは構造的に実現性が低いと感じた。

基本的に、対価や強制力のない「呼びかけ」には意味がないだろう。なぜならそれで呼びかけに従うなら、そもそも呼びかけをする前からそれが実践されているから。本書でも利用者が少ない言語に対して「やさしいまなざし」を向けろと呼びかけをしているけど、まさにこの理由から成果は得られないと思う。他にも例えば著者は、英語で話しかけられたとしても、そこが日本なら堂々と日本語で話すべきだし、英語で返答できないことに申し訳なさを感じる必要もないと言っている。これは部分的には実践できるが、一般的には難しいと思う。例えば需要の少なくない部分をを英語圏(あるいは英語話者)の人に頼っている観光業のような存在を仮定してみる(このような状況は特に珍しくもないだろう)。このようなものにとって、英語で話しかけてくる客に英語で応対することは、お構いなしに日本語で応対するよりも得である。競合に需要を奪われないためにも、英語によるサポート体制を整える誘惑には抗えない。

構造的に無理というのは、「北風と太陽」における北風をしているということである。旅人の服を脱がせるならば、北風を吹かせて無理やり服を引き剥がそうとするのではなく、暖かい日差しで燦々と照りつけて旅人が自発的に脱ぎたくなるような状況を作り出さないといけない。

 

英語支配へのカウンターとして機能しそうなこと

本書では特に述べられていなかったが、英語帝国主義と呼べる状況に対して北風と太陽における太陽をしている例は恐らくたくさんある。つまり、英語の勢力拡大の抑止を、それ自身を目的とせずに達成しているものがある。

例えば日本のアニメや漫画に触れるために日本語を学ぶ海外の人の存在はその一例だと思う。彼ら彼女らは別に英語帝国主義を打倒するためではなく、自身の娯楽のために日本語を学んでいるだけだが、それが結果的に英語帝国主義へのカウンターになっている。他にもK-POPや韓ドラを通じて韓国に興味を持った若者が韓国語を勉強するのも当てはまる。

私が好きなアークナイツの話をすると、このゲームが面白いから、あるいは本国で先行配信されている内容に触れたいからという理由で中国語を勉強している人が周りにいる。アークナイツの世界は我々の世界をモチーフにしたものとなっており、それをストーリー、楽曲、ゲーム上の歴史などを通して恐ろしいほどまでに丁寧に描写するので、実は中国語どころか世界の歴史や言語について興味がそそられる。これは本書の第3部で提唱される「ことばの平等」にも意図せず貢献していると言える。

 

人権として公理化するという方面

英語帝国主義に終止符を打ち、ことばの平等を達成するための提唱された施策の多くは構造的な非現実性を持つものが多いが、この問題をすっ飛ばす方法がある。それはことばの平等を、基本的人権と同様に、証明、説得の必要のない約束事、公理として認めるということである。

基本的人権は、その存在が証明されたわけではなく、それを認めた上で世界秩序を構築した方が、より良い世界が作れるという信念のもとに認められた約束事だと思っているが、ことばの平等もこのように扱う。ただそのためにはもちろん、これを公理として世界に認めてもらうという別の壁が立ちはだかる。そのためには次の2つが有効であると思う。

まず1つ目は、ことばの平等とは、既に基本的人権に内包されるものだと主張することである。本書でも述べられているように、世界人権宣言や国連憲章などでは、人々が言語による差別を受けないことを規定している。つまり、我々が基本的人権を認めねばならないのと同様に、ことばの平等も認めねばならないと迫るわけである。

2つ目は、これを認めないと、どのような差別や不平等が助長されるかということを地道な調査によって客観的に明らかにすることである。それは例えば、英語を母語としない人が母語とする人に比べて人生の時間をどれだけ学習に捧げないといけないかとか、経済的な要請によって半ば強制的に英語を学ばざるを得なかったりすることによる損失や、それによって母国語が消滅してしまったりとかである。

 

終わりに

200ページちょっとしかない読みやすい本なのに感想記事書こうとすると全然書けないし大変ということがわかった。

 




以上の内容はhttps://ose20.hatenablog.com/entry/2024/06/15/124602より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14