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善悪をやたらと言い立てる人の『心の許容範囲』は狭い

森羅万象すべてのモノには波動があります。
そして、波動は自然にあるものです。
元から自然の一部なのです。
自然には端から善も悪もありません。  

例えば高気圧や低気圧のことを善気圧・悪気圧なんて言う人はいません。 
晴れや雨は善でも悪でもないからです。  

気圧に高低があるように波動にもレベルの高低はあります。  
ただ、もちろんそれにも善悪はないのです。
 
 人間にとっての『善悪』は確かにあります。
しかし、それはどこまでいっても人間の人間による人間のための「善いとか悪いとか」なのです。
 
善悪は人間の『創造物』ってことです。
逆にいえば人間が善悪の『創造主』なのです。
 
善だの悪だのといったってどこかに普遍不動のモノとして独立して存在しているわけではありません。
どこかっていうのは人間とは全く無関係な「どこか」ってことですけどね…
 
善悪は自明の理ではないってことです。
十人十色の人間によって用意された『物事を計るための物差し』の一つに過ぎないのです。
要はどこまで行っても相対的なモノだってことです。
 
じゃあ、何故善悪というモノが考えだされ、必要とされてきたのか?
それは「社会的な生き物としての人間を律するモラルとして」だと思います。
社会生活を行う上でのモラルとして善悪の判断は必要であるということです。
 
しかしながら、人間の社会というモノは有為転変止まるところを知らず、あっという間に変わりゆくモノです。
ということは当然その変化に合わせてモラルもドンドン変わることを意味しています。
 
人間社会のモラルが変わるってことは善悪が変わるってことです。
それは善悪は常に変わりゆくモノであるってことなのです。
 
朝令暮改の善悪という概念をまるで永久不変の真理のごとく信じ込めば、当然心は迷路にハマり込むでしょう。
そして、善悪を真理のごとく扱う人は後を断ちません。
 
人を見る眼を養いたいなら、一つ簡単な注意点があります。
その観察対象の人がどれくらい善悪を相対的なモノとして判断出来るかを見ることです。
 
善悪を相対化して見られない人っていうのは大抵自分のことを『絶対的な善』の側にいる人間だと認識しています。
だから、他人に自分の考えを幾ら押し付けても平気なのです。
ていうか「他人に自分の考えを押し付けることが善である」と信じ切っている場合も多いです。
 
以上「善悪を言い立てる人は心の許容範囲が狭いってことを覚えておくと人間観察の時役に立つ」というお話でした。
 
関連記事  「人間の『創造物』ではない善悪は実在する!」とかいう幻想 - 『クリアー整体ヒーリング』です
 

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