『パリに咲くエトワール』
”すべて”が詰まってる厚みのある映画ゆえに、見る人によって、そしてみる方向によっていろいろな解釈、感想が出る作品であると思うのですが、自分は、
モノを作る人間にとっての
「自由ということの恐ろしさ」
「お前を誰も助けて(教えて)くれないという非情さ」
を描いている映画でした。怖かった、とにかく自分はこの映画が怖かった
(現代と比べると)抑圧された女性や、民族差別も描いているんですが、然し、この時代において、そして作中での書かれ方に置いて、フジコと千鶴は圧倒的に『自由』なんですよ。それはこの時代の『パリ』というのが、本当に『都市』で、都市は人を自由にするんです。
自分で、自分の、夢を決めて、それを叶えるために努力することができる、それが許されている
そして、それを他の人は誰も評価してくれない。その価値自身も自分で決めるしかない
これはすごく恐ろしい事です。諦めることを誰のせいにも出来ない。自分自身が、それが自分自身のせいだと知っている。できる成果物も、それが本物なのか偽物なのか、自分自身は知っていて、それを誤魔化すことができない
誰も、彼女たちを否定しない、表層は『夢に向かって色々な障害を乗り越えて頑張る話』なんですが、でも、そうじゃない。誰も邪魔はしない。
そして、同時に、誰も答えを教えてくれない。ゴールを与えてくれない。
それが、本当に、ただただ怖い。
フジコが絵をかけなくなった理由、最初は仕事が忙しくて絵を描く時間が無くなってしまったから…と思われたんですが、実際はそうではないと明かされるシーンが本当に恐ろしかったですね。そして、それを誰も助けられない。ルスランは助言をするけれども、フジコに答えを与えることは出来ない。自分自身の中から湧き出るもの、自分自身しか、彼女を助けることは出来ない。
そういう『自由』と『自由に対しての怖さ』が描かれている映画だと思いました。
あと、余談ですけれども、この映画で必要な歴史的な条件などが全て作中で丁寧に表現されているので、この時代や取り巻く地理的な問題に対しての知識が、逆に映画鑑賞のノイズになってしまうという不思議なことが起こっているな…という感想も持ちました。
見え方が違ってしまう。
自分の好きな映画に『紅の豚』があるんですが、最初見たときは子どもだったので、ギャグもりもりの冒険活劇だと思ってたんですよ。この物語が終わっても彼らはこういう馬鹿な生活を送っていくんだろうって、そう感想を持っていたんですが、然し。
歴史を勉強して知ったのは、紅の豚の時代のこの瞬間というのはほんの一瞬の夏休みの夢のような時間で、二度とありえない、戦火の中の谷間の安らぎで、直ぐに失われてしまうものだと知って、そうすると、本当に、『紅の豚』の見え方というものが全く変わってしまいましたね。そして、実は、それはこの映画の中に全部描いてあったという衝撃。
『パリに咲くエトワール』も同じような映画で、映画として切り取られた額縁の外側に、苦い、辛い、救いのない時代と現実が横たわっている。この映画で描かれたパリはほんの一瞬の夢のような、そしてあっという間に失われてしまうきらめきの時代だった。
(その額縁の外に関しては、この方のnote記事で語られています。一読の価値ありです)
note.com
本当に一回見に行って欲しいです。
こんな風に描いてますが、ただの娯楽作品として見に行って、そして、少し背伸びが伸びた感じで帰ってきて欲しい。それくらいの気安さで見に行って欲しいです。
笑いあり、アクションありの、痛快娯楽作品として、是非ご覧になってください。