人間が執らわれ心を離れて、そのものになりきるには身口意の3拍子が一致しなければなりません。そのことは皆さんが日常を経験しておられることであります。
例えばそこらへ坊やでも来て、自分が可愛いと思えば、すぐ私どもは心で可愛いなと思うと同時に口で「お利巧ちゃん」と言いながら抱っこする、それと同時に初めてその坊やが本当に可愛いという現実そのものになりきるわけであります。
それを人がいるから体裁が悪いと言って、中途半端でやめておけば、そのものの可愛いという三昧によく入らない。半熟で途中でやめてしまっている。どうしても私どもその3つがぴったり一致した時に初めてそのことになりきる。
坊やが可愛いという三昧になり切る。
そして、初めて坊やを愛するという自己を確立するのであります。
とにかく不動明王の三昧になりきるのが魔性を取り払う根本であると説いてあります。
そこでこの大日経では不動明王をどう説いておるかと申しますと、不動明王の本地は大日如来であり、この大日法身が不動明王に現れておるのであります。
これは他でもない、先ほども申し上げました我々が自己というものを捨てて、いわゆる無我、赤裸々の自己を悟った時に一切平等の境涯、それがすなわち法身であります。
それを大日如来と呼んでおるのであります。この宇宙の大法、今日の言葉で言えば真理、すなわち法がいわゆる法身如来(ほっしんにょらい)であります。
その法が具体的にあらわれてこられたのが不動明王であります。しかし宇宙の大法は不動明王だけにあらわれるものではない。いろいろのものに現れて参ります。もちろん、私どもお互い人間も皆、個人個人の人間なり、あるいはその他の万物に変化して現れてきておるのであります。宇宙の大法なる大日如来が不動明王に現れておるというのであります。
続く
那須政隆猊下「不動信仰」(浅草寺仏教文化講座第1集所載)昭和32年3月18日刊 P80〜81から転載

善龍庵蔵不動明王