これまでの人生を振り返ると、私は若い頃から幾度となく苦難に直面してきた。
大難もあれば小難もあり、行き場を失い、途方に暮れたことも再三再四である。
それらは運期の良し悪しとは無関係だったように思う。
それでも今、こうして振り返り、よくぞ生き抜いてきたものだと、自分自身を祝福している。今の宗教活動を行えているのが不思議である。
特別に秀でた能力を持たない私が、今日まで歩んでこられたのは、信仰を捨てなかったからにほかならない。
正確に言えば、捨てようと思ったことは何度もあった。
しかし神仏のお導きによって、結局は捨てることができなかったのである。
ただ一心に、この道を歩み続けてきた――それがすべてであった。
また、これまでに数名の方が密教僧となり、あるいは寺院住職となられる過程で、微力ながらお手伝いをさせていただいたことがある。
不思議なことに、そうした人々は資格を得ると、まるで手のひらを返すように離れていった。
それもまた、私自身の忘恩の不徳ゆえであろうと、懺悔する思いである。
しかし、いずれの方もご縁が切れて数年を経たのち、風の便りに自滅されたと聞くに及び、残念な思いを禁じ得なかった。正直、密教の法は怖いなとも思った。
(余談だがそういう人は資格を取るとすぐに弟子を取りたがり、承認欲求を満たそうとする。資格があるだけでは当然ながら人は育てられない。むかしから「無知にして人の師となることなかれ」と戒められている)
同時に、恩を忘れないということが、結局は自らを導くことなのだと、あらためて気づかされた。
人のあり様そのものが、「こうなるなよ」と教えてくれているのである。
近年は、そうした忘恩の輩とはすっかりご縁も切れたが、自戒を忘れぬよう心がけている。
僧侶の世界でもこうなのである。信仰していてもなお難儀に遭い、「神仏などあるものか」と思ってしまう人の気持ちも、私にはよく分かる。
ただ、心得ておきたいのは、神仏は人間の狭い視野ではなく、はるかに高いところから物事を俯瞰しておられるということである。
目先の願いが叶わなかったがゆえに、結果として救われていた――そう思える出来事は、これまでにも何度もあった。
未完
