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苦、三密行、自力と他力 その2

真言密教への正しい理解を促すために、故田中千秋先生の『入門 真言密教の常識』から大事な個所を引用します。この本は残念ながら絶版。

 

行法の眼目は入我我入観、正念誦(注、しょうねんじゅ=本尊の真言を108回唱える)字輪観(注、じりんがん)である。ご本尊が何様であれこの三つはつきもので、ここで行者は金剛薩埵(注、密教修行の菩薩)の資格から昇格して本尊となる。強いて分ければ入我我入観は身密、正念誦は口密、字輪観は意密に配せられる。が、三観はバラバラでなく連続している。

 

仏の三密と行人の三密が互いにとけあうこと、あたかも光と光が溶け合うごとくであると観ずるのである。ご本尊と行人は有徳と無徳が相対している関係ではない。有徳と有徳、具徳と具徳の出会いである。(注、仏様と私たち修行者は同等の徳があるといえる。このあたりの話は直接伝授の時にお伝えしている)

 

だから、たちまちに無二無別の境に至ることができるという。弘法大師の『即身義(注、『即身成仏義』の略称)に「三密加持すれば速疾に顕わる」とあるのは、そのことをさしている。

 

こうして”無始の間隔”を超えようとするのが真言門のいき方である。

”無始の間隔”とは、『菩提心論』に見えるもので、百八とか八万四千とかいわれることのある諸煩悩の根本、つまり根本煩悩のことである。

凡人は自と他、能と所、主と客の間に一線を引き、自・能・主にはあつく、他・所・客を忘れることが多い。

この分別にも程度の差があるが、”無始の間隔”はその微細なもの、微細な我である。

 

この微細な我を根とし、これに従属する例えば貪(むさぼり)は、他をおかし自らを損なう動きをするだろう。

しかし、もし微細な我(無始の間隔)がなかったら貪の動きは変わり、他も自らも損なわれなくなるのではないか。

 

とすれば、問題は貪を制することにあるというより、無始の間隔どうするかにあるといえよう。

 

もし間隔がなかったら、貪があってもその動きがかわり、貪に振り回されなくなる。

これは心の欲するところに従って則を越えずという境地と一致するかもしれない。

密教は貪を捨てずして、貪に自由を得、貪の達人となることを教えているように思うのである

(※注は大森)

 

つづく

田中千秋著『入門真言密教の常識』朱鷺書房刊 p27~28から引用

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