さてかような無辺の衆生の悲願が実はそのまま御仏の悲願なのである。
衆生のもがきがそのまま御仏のもがきなのである。
仏は衆生のその苦悩を抜き、楽を与えようとして夜も日も、もがきたもう。
私たちは我が苦悩によって仏様の苦悩がわかる。衆生の願う心が仏さまのめぐむ心。
衆生の生きる心が仏さまの生かす心である。
だから衆生のその願う心が転じてめぐむ心となり、その生くる心が転じて生かす心となるとき、衆生もまた仏となる「衆生はなはだ仏に遠からず」
願う心の果てがめぐむ心である。
生くる果ての心が生かす心である。
迷いの果てが覚りである。
衆生の果てが仏である
本文『神代峻通講話集』神代峻通講話集刊行会刊(高野山出版社内) 昭和35年8月10日発行より転載

修行大師 久渡寺にて撮影