『賽の河原』 村上晶 著 | 筑摩書房
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駒澤大学准教授・村上晶先生の新刊。
>津軽地方の「イタコ」たちのフィールドワークをもとに、日本の供養を考える。
死別した、愛する人はどこにいってしまったのか。人間はその答えを求めて、 死後の世界についてあれこれ考えを巡らせる。 日本では、亡くなった子どもの行先として、独自の「賽の河原」が考えられた。著者は、10年以上にわたって、死者の口寄せなどで知られる津軽地方の「シャーマン」たちの調査をしてきた。本書は、「和製の地獄」とも言われる賽の河原を中心に、日本の供養を考えるものである。
ここからは大森の雑感。
日本の仏事というものは、仏教だけでは理解しきれない。実にさまざまな要素が複雑に絡み合って成り立っている。言い換えれば、矛盾した要素がそのまま受け入れられ、実践されている。私は、そこに日本の仏事の良さがあると感じている。
この矛盾を包み込んでいるのが、日本人の霊魂観である。霊魂観は、時代や地域によっても異なるが、本書では津軽地方の巫者(イタコ)を通して、霊魂観や供養という営みが考察されており、とても興味深い内容となっている。
ちなみに、法事の際に口寄せを行う習慣については、私自身、奄美大島や三重県で実際に体験したという方から話を伺ったことがある。探せば、日本各地にもまだ例が見つかるかもしれないが、残念ながら、すでにほとんどが失われている可能性が高い。
私自身もかつて口寄せを体験したことがある。伝統的なイタコによる口寄せでは、祭文のような言葉がつらつらと唱えられる。それは聞く人によって内容が異なるようであり、その中には、思わずハッとさせられる言葉が散りばめられていて、大変感銘を受けた。かつてテレビのショーで放映されていたような霊媒的な演出とはまったく異なる。
本書の中では、こうした伝統的なイタコに疑問を呈する外国人研究者の例が紹介されている。彼らの主張によれば、「神がかり的なトランス状態に入っていない」ことが疑問の理由とされている。
しかし、シャーマニズムというものは、その土地の文化的背景と深く結びついており、同時に、当人がどのような学びを経てきたかにも大きく左右される。
また、トランスには「浅いトランス」や「深いトランス」などの段階があり、見た目に没頭していないように見えることをもって否定的に捉えるのは、理解が浅いように感じる。
(※私は研究者ではないので、学術的な定義には明るくないが、あくまで実践者としての見解である。)
だから私は、イタコの口寄せとは、イタコが修行によって培った力を通じて、呼び出された存在が語っているものとして理解するのが適切だと考えている。
しかし現代では、それどころではない。伝統的なイタコは、いまや消滅寸前である。
その代わりとして、霊場に参拝し、そこで自らが心の中で亡き人と語らうという形が、最も自然な方法になってきている。たとえ霊場に行けなくても、墓前や仏壇の前でも同じように対話することができる。
なお、本書179ページに次のような一節がある。
「供養実践を通して、故人には死者という新しい属性が与えられる。いつまでも生者の姿のままではない、死後の成長という新たなイメージで上書きされていく。それは故人についての過去の記憶の一部を手放し、変化させていくことでもある」
この考え方は、数十年にわたって供養に携わってきた私の実感からして、まさに死者供養の核心を突いている。そう、供養とは、故人の「死後の成長」を促進する営みなのである。それを最も端的に表しているのが「年回忌法要」である(もちろん、それ以外にも多くの意義があることは言うまでもない)。
