仏様に頼ってそのお導きで生きてゆくと、次第次第に私たちは智慧を増し、憐れみ深くなり、心は揺るがぬようになり、総じて素直になるものである。
仏様にお願いしたからと、、何も彼も叶うというわけではない。
空しくなる望も数々ある。災いにもあい、困難にも出会う。けれども月日が経つ間にそれが皆、それでよかったのだと言うことがわかる。
空しくなると見えた望は他の方で綺麗に満たされていることがわかる。
災いや困難にも別の道が開かれる。そこにありありといと細やかな仏様のお計らいの跡が見える。「人の目は短く、神の目は長し」まことその通りだ。
私たちには如うしても得手勝手がある。自分中心になり勝ちのものである。
そして事の勘定を急ぐ風がある。
そこで知らず知らずの間に無理をする。またムシの良い夢を描くのである。普通に私たちが不幸だとか災いだとかいうものの中には、そういう夢が破れたり、そういう無理が通らなかったりしたものが無いことはない。
人の力におえないことは、仏さまにお頼みしてじっとこらえるほかはない。
そうすれば何時の間にかそこに仏様が道を開いてくださる。
世間でもよく「成り行きに任せる」というが、信心がなくても、経験に教えらるるのだ。それはいわば無信仰の信とでもいえよう。
私たちは漠然と「成り行きに任せる」のではない。
「仏さまにおまかせする」のであるこれは信仰だ。
その3-2につづく
本文『神代峻通講話集』 神代峻通講話集刊行会刊(高野山出版社内) 昭和35年8月10日発行より転載
