こうして念誦していると、その間にいろいろな物の姿を見たり声や言葉を聞いたり、また思わぬ考えがフイフイと浮かんで身内が熱くなることがある。
それは不思議な感激である。
けれどもよりありがたいのは、そうした経験を超えて、自分の身と心とが清く光明に輝くの覚えることである。
これが何よりも尊い。
これほど幸福で満足なことはない。
これがいわゆる「自証の大楽」と言われるものであろう。
そして、こうした満足を味わうと、何となく人懐かしくなり友が欲しくなり、この喜びを語り合って、幸福を共にしたいという心持ちになる。
一人では淋しい。
それは世間並の淋しさではないが、寂しい。それは※「愛のさびしみ」である
愛さねばすまない、清いさびしみある
友をえて、この清い幸福を共にする時、大楽はまた大喜となる。
これはいわゆる「化他の大喜」である。この大喜大楽を得て、はじめてわれわれは大満足を得るのである
それは、その時こそ我々が本当に「人間」になるのだからである。
つづく
※神代先生は元クリスチャンだったので、こういう表現を使う。仏教で言う渇愛のことではない。
(本文の読みやすさを考慮し、原文からカナを漢字に改め、句読点を変更し、()にて原文を補った。)
『神代峻通講話集』 神代峻通講話集刊行会刊(高野山出版社内) 昭和35年8月10日発行より転載

神代先生の墓所