神仏に祈願しても、必ずしも思い通りになるとは限らない。しかし、後になって「あれでよかったのだ」と気づくことがある。ただし、それに気づくまでには、ある程度の時間が必要だ。
時には、一見すると状況が悪化したように思える出来事が起こることもある。
だからといって、その時点で信仰を捨ててしまえば、後になって「これがご利益だったのか」と気づくこともできずに終わってしまう。まさに、「宝の山に入って手ぶらで帰る」のと同じである。そういう人を随分見てきた。まあ仏縁がなかったのだろう。
私自身、若い頃は「こうしてほしい」と強く願えば、目先のことは叶っていた。(もちろん成就しないこともあるが、それはそれで結果がよかった)まるで念力で押し通すように。
しかし、願った通りになっても、必ずしも幸せや安らぎにつながるわけではない――そう痛感させられる経験も何度もした。(今から考えればこれも神仏のお諭だったのかもしれないが)
だからこそ、我欲や囚われを少しづつ手放して、神仏にお任せするようになっていった。すると自然に時期が来れば、諸事整うようになっていった。もちろん時間が長くかかることもあるが。
修行時代、寺の大奥さんからこんな話を伺った。彼女の知り合いの寺の奥さんが、幼いわが子が大病を患った際、「せめて成人するまで生かしてください」と聖天様に必死に祈願した。親心としては、そう祈るのも無理はない。
すると、病は治った。しかし、ちょうど成人を迎えたとき、不慮の事故で亡くなってしまったという。
まさに、願った通りになったのだ。
もし、最初から「聖天様に万事お任せします」と祈り、願いが叶った後は滅罪と報恩謝徳に努めていたなら、このような結果は防げたのかもしれない。
