プロ野球が開幕したのに案外映画を観ている。何週間連続で映画館にいるんだろう。個人的には珍しいほどの頻度なので普通に驚いているが「終わりの鳥」を観てきました、という日記を書いておきたいので書く。
難病の為、15歳にして余命わずかな主人公チューズデーの前に生き物に死を告げる鳥「デス(death)」が舞い降りて、母親のゾラが帰宅するまで何とか間を持たせてお別れを述べる時間を手に入れたものの、ゾラがチューズデーを救う為にとんでもない暴挙に出てしまい・・・と言うあらすじの作品で、予告編を観た時に「めっちゃホラーでは無さそうだけど不穏だな」と感じて、A 24なのもそれに拍車をかけたので公開初日に観に行ったら予想外の風合いで、予想以上にシンプルかつ素敵な映画だった。
命の終わりについて、当然ながら基本スタンスでは不幸なものだったり、残酷さみたいなものが真っ先に頭を過ぎるし、観終わった今もそれは変わらないと思うんだけど、別の側面もあるし、そもそも毎日の幸せってどういう基準で定めていたんだっけ?それは本当に自分で決めた事だっけ?ということを考えさせられる作品だった。
これ以上はネタバレになってしまうので毎度お馴染みスクロール避けの謎文章を挟んで雑感を続けたいんだけど、A 24の中で「終わりの鳥」がアリ・アスター監督作品を筆頭とした「鍋でドロドロに煮込んだ悪意をためらいなく塗りたくられる系」なのではと予告段階では思っていて、実際には「ムーンライト」みたいにしっかりとしたテーマを据えて(前者にもちゃんとテーマはあるけども)それを丁寧に描くと言う方向のA 24配給作で、ある種ミスリードなのではと思いつつ、予告で自分が釣れているので同じ様に沢山の人たちのフックになれば予告冥利に尽きるかと思うなどした。
この監督っぽいよね!はまだしも配給会社的に「ここっぽいよね!」と言うのは褒め言葉なんだろうか。他ジャンル揃えても拭えない一貫した姿勢が感じられる、と言うのは音楽を好んで聴く人間からすると褒め言葉なんだけど、映画的にはどうなんだろう。別にここで何らかの推論や結論を出すつもりはないんだけども、いつか詳しい人に聞いてみたいとは思っている。
それはそうとして雑感なのだけれど、まずは何よりもチューズデーの思慮深さがとんでもなくて泣けてしまった。
デスの存在と役割を表すカットの後で、2階建ての自宅の1階で生活する彼女が上階からの物音を聴きながら天井を眺めるところから映画が始まるんだけど、この物音が「母親が2階で売れそうなものを集めている音」なのだと後々明らかになるんだけど、「自分が病気になって上がる事が出来なくなったかつての自室があった2階への恋しさ」だったり「恐らく働いていない母親が2階を漁って毎日外出して働いているフリを今日も続けるつもりなのだ」だったり「自分がこんなだから母親が母親自身の為に暮らしていく事に投げやりになってしまっているのが辛い」と言うものが入り混じった視線で見上げていたのだなと途中で気付かされて、映画が進行中なのに冒頭のこのシーンを思い出して半泣きになってしまった。
チューズデーも自分自身についてはデスという死の象徴が現れても終わりを受け入れる準備が出来てしまう(悲しいが、それくらい病に耐え抜いてきたというのもあるのかも知れない)ものの、ゾラがどうなってしまうのだろうという不安と、自分の病気がそうしてしまったという後悔がかなり強かったのではと感じた。
ゾラにワガママを言って2階に上げてもらった際にがらんどうになった部屋を見て働いていない事を叱責したのも「もう死ぬ事が決まっているんだから遺されたゾラがこんな調子じゃ困る」という焦りからで、別に本当に働いていない事自体を責めたい訳じゃないと伝わり過ぎてかなり辛いものがあった。
母親のゾラは先述の感じでチューズデーという存在に完全に依存しており、「娘が生きている間だけ生活出来れば良い」と難病故の諦めの上に全てが成り立っているものの、娘に不安を与えたくない一心でフルタイム働いているフリを(バレバレだけど)しているという切ないキャラクターだった。滅茶苦茶勝手に見える言動の数々も、チューズデーと自分の暮らしを一日でも延命しないと自分自身にも存在価値がないという発想なのでずっと心配しながら見守る事になる。
「全ての愛は押し付けで、それを受け手が愛情と解釈するかどうか」というのを映画「エゴイスト」で学んだんだけど、この公式に当てはめると受け手の解釈が待てないほどに疲れて追い詰められてフラフラだけど失いたくない一心で立っている、しかも母も娘もというバランスの親子で、お互いを第一に想っているという関係で、本当はずっと幸せなのに病が本当に邪魔!と理不尽さに腹立たしくなる構図だった。
デスを倒して(デスって)でも娘を救おう!ダメだったから喰って消化してやろう!という、ちいかわも真っ青な「なんとかなれー!」精神のぶっ飛んだ行動は流石にチューズデーにも見破れなかったものの、デスを取り込んだ事で付与された「死を告げる能力」に全能感を抱いて調子に乗りつつも苦しむ人や生き物の声の中に本来死んで解放されていないといけない痛みを抱える娘の呼吸を聞いて我に返る辺りは本当にこの子の為にずっと生きてきたんだなと感じてやっぱりウルッときてしまった。
娘を見送ってからは一旦はやっぱりガタガタっと終わってしまいそうになりつつ、ちゃんと暮らしていくという約束を果たす事がチューズデーを思い出という形で生かせ続けるのだと立ち直ろうとするのはこれ以上ないハッピーエンドだったと思う。
デスは死神というよりも「命の終わりを告げる」という存在なのかなと思っている。
死という概念でもなく、本当に立会人みたいな、存在が魂が抜けるスイッチとして神が生み出したのだと受け取った。
常に耳に届き続ける「命の終わりに苦しむ声」の元を訪れる為に世界中を忙しなく飛び回って、拒絶されたり恨まれたりしながら淡々と役割をこなしていたのにチューズデーの機転と優しさに触れてからは「どうしよう、役目の範囲外の要求ばっかなんだが、この繋がりをすぐ手放すのも惜しい」と何やかんや言う事を聞いてしまうのが愛らしかった。
歴史上の人物の死に際がどうだったかみたいなのは誰もが思い浮かべる偏見にコミットしたギャグとして不謹慎ながら滅茶苦茶面白くて笑ってしまった。
チューズデーに引き止められた時点で寿命の短い虫が死ななくなってしまい数を大きく増やしてしまったり、事故で本来亡くならないといけない人が死ねなかったりと「これってもしかしてデスが訪れてないから?」と予感させる演出が、ゾラがデスを飲み込んで寝落ちした翌朝の世界の変貌ぶりが答え合わせとして100点過ぎて「わぁ・・・」となってしまった。
産み落とされてずっと役割を担ってきた中でチューズデーとの交流以上にゾラにぶちかまされた暴挙は経験したことのない出来事だったろうし、もしかして気を失う=眠るという行為も初めてで、それ故に目覚めるのにも時間が掛かったのかなと思っている。(デスが目覚めていたけど黙っていたみたいな描写があったなら見落としているんだけど)
チューズデーを送った後もゾラの元を様子見に訪ねたりとかなり健気で可愛らしいキャラだけど、チューズデーに貰った優しさに対する恩義と共に、自分の役割を一時的に経験したゾラへの親近感もあったのかなと思いながら見ていた。
劇中とエンドロールを彩るICE CUBEの「It Was A Good Day」は本当に名曲で、この映画いにピッタリだった。
黒人として生きる中で、理不尽がないだけでその一日は「良い日」だと言えてしまう社会的な背景を皮肉たっぷりに、かけがえのないものとして歌う曲が映画におけるチューズデーとゾラの「苦しい状況でもハグして笑顔で眠れたら良い日だ」という所にマッチしていて、エンドロールに添えられた歌詞の和訳を眺めながら「良い日かどうかの基準は人それぞれなんだろうな」と思ったし、その基準は誰が作ったものなんだろう、本当に自分で設定したものなのか?と考えさせられた。
ICE CUBEや劇中の親子、デスのような大きな壁のある前提で暮らしていないのに毎日ヘトヘトだし、腹が立つことも多いし、虚しさが凄かったりする日もあるんだけど、「嫌な仕事でも何とか終わらせて家に帰れた」くらいのものでも一日をやり遂げたという意味では良い日に出来るかも知れないし、単に「ちゃんと食事を3食摂って風呂に入って歯を磨いて寝れて偉い」で良い日にしてもいいんじゃないか、とか。
こういう感覚はすぐに忘れてしまうんだろうけど、度々思い出したい捉え方をこの映画で教わった気がしていて、金曜日に映画を観て、これを書いている月曜日の終わりまでは面倒に巻き込まれてもそう思ってやり過ごせた。
これからもそう思える日が1日でも多くあるといいなと思っている。
それはそうとICE CUBEってどんな人なんだろうと調べたら映画「21ジャンプストリート」と「22ジャンプストリート」のディクソン警部を演じている人で笑ってしまった。申し訳ないんだけどまさか過ぎた。一番のギャグじゃんとなりつつ、壮絶な日常を歌っていたので彼がこうして良い日を過ごせててそれも良かったと思うなどした。
またー。