年度末の案件がある程度捌け、残った案件が遅々として進まないので出先から早退して気晴らしに映画を観に行った。
ボールをもらう為に下がっても、サイドを何度駆けてもパスが出てこないを繰り返す虚しいサッカーの様な年度を労うつもりで。まぁ上手い引き出し方があるのかも知れないし、それを探す努力をしたのかと言われると自分なりにはやって来たし、数字上かなり結果も出ているとは思うんだけど、積み重ねた虚しさを消す程の達成感は無かったどうしてもスッキリしない。社会人ってこういうのの繰り返しなんだろうと毎年度末考えている。
そんな状態で選んだ作品が「ミッキー17」なのは吉と出るか凶と出るか、という感じだった。
結果としてはギリ吉だったと思う。「ギリギリで吉」の略。
あらすじとしては、主人公のミッキーは「マカロンがハンバーガーより売れる時代が来る」と言う友人のティモと始めた商売に失敗し、借金取りから逃れる為に植民星を目指す宇宙船に「使い捨て人間(エクスペンタブル)」として雇われる事で潜り込み地球を脱したものの、何度死んでもリプリント(再生産)されて記憶をダウンロードされる=生き返ることからあらゆる危険作業、人体実験を強いられる最底辺の扱いを受ける事になってしまう。
ミッキー17(17回目に生き返ったミッキー)は事故に遭い、何とか宇宙船に生還するも、そこには死んだと判断されリプリントされたミッキー18がいて・・・と言う物語だった。
ポン・ジュノ監督は「パラサイト」を筆頭に格差社会を鋭く、ユーモラスに描いてくれる監督という印象があって、今回もかなり強烈だった。生活を超えて生死の尊厳にまで及ばせながらもずっとユーモラスなのが恐ろしい程で、BGMの悲喜交々(実際には悲×16喜交々)っぷりもとても良かった。
ネタバレを交えて雑感を書きたいのでスクロール避けに無関係な文章を挟んでおく。
最近、ちいかわの作者ナガノ先生がちいかわにネズミの絵文字を添えて画像をポストしていて、「ちいかわってネズミだったんだ!!!」と衝撃を受けてしまったんだけど、じゃあそもそも何だと思っていたのかと聞かれるとハムスターだったのでそんなに遠くもなく、逆に何でそんな衝撃を受けるに至ったんだよと考えてしまった。ああでもないこうでもないと考え続けた結果、ピンと来るものがなかったので「ちょっと驚きたかっただけなのかも知れない」に落ち着いたんだけど、こうして文章にしてみると「もっとあるやろ」と思わなくもない。それだけの話。
雑感に戻ると、まずはミッキーの生い立ちについて触れておくと、不幸な自動車事故(車のボタンをミッキーが押した事で生じてしまった)で母を失い、施設暮らしを経てティモとマカロン屋を始めるも失敗し、借金から逃れる為に命を使い捨てるエクスペンダブルとして宇宙船に乗船する、というルートだった。
社会の下層とされる立場から成り上がるには自分で商売を興すしかない→誰も目をつけていないブルーオーシャンを開拓するぞ!でも知識も技術もないから何か売るだけにしよう!というパターンは韓国(日本も)のチキン屋、フードトラックに近いものがある。
勿論しっかり経営されている方々もいるけれど、ハードルが低いけれど新たな搾取に飛び込んでいるだけ、教育格差や経済格差が機会や判断力を奪ってしまっている面もあるよなと思ってしまった。
ミッキーは自分の行動により母親の死という大きな過失を犯してしまったという思い込みから、選択することを恐れて周囲に任せて失敗を重ね、投げやりで自身の境遇や環境に気を遣えない、思考停止型の人間に成長してしまった訳で、これは貧困層のルポなどで読んだ事例とかなり近い。「立ち上がる気力が無いと周囲は思っているけど、そもそもそういう概念が無い人がいる」という現実を大半の人は理解出来ないので「あいつはやる気がないから落ちただけ」みたいになりがちというか。
だから危険な作業や人体実験で16回も死んでも「こういうもの」と諦めてしまうし、借金取りに殺されるのが怖くて宇宙に出たはずなのに何度も死の恐怖を繰り返す立場になってしまった事も誤魔化して受け入れた事にしてしまうのかなと感じた。
宇宙船でも最底辺で、年金もなく、自分の立場なら怖いはずの「死」を押し付け、度重なる実験の結果として過酷な環境でも適合出来る様になっても感謝すらされない。
ミッキーがいなければ生死の危険を伴う実験は出来なかった訳で、惑星で活動するにももっと莫大な時間が必要だったはずで、そういう事へ気付けない社会というのはホワイトワーカーとブルーワーカー、ケアワーカー論争の成れの果てという感じだった。
そんな社会の中で、本当は自分の中にある「いや、おかしいでしょ」「怖いし理不尽過ぎる」が蓄積してミッキー18が生まれたのかなと思うと、攻撃的な18はトラブルメーカーではなく、かなり愛おしい存在に思える。最初はミッキー17を通して「ヤバい奴が生まれちゃったよ」みたいな見え方をしていたけど、どう考えて18の方が正常で、強烈で極端な行動でしかそこを抜け出せないという、ミッキー1〜17までが考えない様にしていた部分を実行しているだけなんだなと気付くと「いけ!」という気持ちになる。
17と18がバタバタした展開の中で互いに価値観をすり合わせていく様は、誰しも自分の中で長い時間をかけて行なっている事の可視化なので見ていて優しい気持ちになった。
「自分の中にはこんな考えもあるのか」という気付きが良い時も悪い時もあるけれど、それが受け入れられた時にまた新しい自分になるという。
最後にミッキー18が死の恐怖を乗り越えて爆弾のボタンを押したのは「逆襲を成し遂げたい」というそもそもの願望以上に生き続けてくれる(であろう)ミッキー17に「母親の死はお前のせいじゃない、人生を選択しろ、自分でボタンを押せ!」と伝えたかったのもあるだろうし、ナーシャと自分(ミッキー17)の未来を守りたいと思ったのかもなと僕は受け取っている。
そんなミッキーにとって一番重要なのはナーシャだと思うんだけど、ナーシャのキャラクターはまだまだ掴めてなくて、原作を読まないとなぁと思っている。
何でも優秀にこなすナーシャでも死を厭わないことは出来ず、他の人間に成しえない役割を背負うミッキーに惚れたのかなと今のところ思っている。
クリーパーという自分達と異なる出立の生き物にすら先住民としての尊厳を主張する正義感が、ミッキーの尊厳を守ろうとする姿はとても素敵だった。
ミッキーも自分を大切に扱い、誰よりも人間として求めてくれるナーシャがいる事で日々の恐怖や苦しみを乗り越えてこられたんだろうと考えると、本当に大切な存在なんだろうなと思う。ナーシャの様な考え方が支持される様になれば自分やクリーパーも共存していけるはずで、エンディングで描かれた未来はそれを連想させる明るいもので安心した。
最初はミッキーの対比としてケネスとイルファの独裁者夫妻がいるのかと思っていたけど、どちらかと言うとナーシャとの対比な気がした。
自分が成功し、目立つ事を徹底する2人は他者を思いやるナーシャとは対極でヴィラン兼ギャグ要員として凄く優秀だったと思う。
ティモは兄貴分というよりは何でも決めさせてくれるミッキーに甘えてしまう愛嬌のあるダメな親友という感じで良かった。
2人で貧困から抜け出そう(失敗したけど)、2人で借金取りから逃げよう(自分だけ先にパイロットとして上手く潜り込んだけど)、2人で生きよう(ミッキーは生き返るから危険を冒すのはミッキーだけ)、文字にすると薄情だけど、ミッキーを見捨てられるタイミングはいくらでもあった筈だけど2人で宇宙船にいると言うことはそういう事なんだろうと結論付けている。最後はちゃんと自分の手で借金取りの追手を撃退した訳だし。
2人を見ていると、落ちるのは願ってなくても簡単で、上昇することはどんなに願っても困難なことであると思い知らされ、SF映画なのに現代社会って最悪だよなと思ってしまう。
クリーパーは先住民として排除されかねない、分かり合えないものと決め付けられそうになる描写が植民地支配に重なる。ミッキーがクリーパーに受けた行為は優しさだったと信じたり、虐げられる側の困難さが解る故にそうならないで欲しいとコミュニケーションを図ろうという姿勢とナーシャの気高さが彼らが助かる事に一役立てたのはグッときたし、描写がところどころナウシカで、これは狙っているのか?となってしまった。
その他、ミッキーが18まで生成された人体プリンタと記憶のバックアップについては哲学とか勉強している人の感想を聞いてみたいなと思っている。
身体に関しては、色々な物質を混ぜて元の体とそっくりにリプリントするという説明で、見た目は同じかも知れないけど構成されている物質は焼却された自分の遺体ほ他にも色々入っている訳で、回を追うに従ってどんどん割合としては減っていくのではと思っている。
ジュースと水を混ぜて半分飲んで、水を足して半分飲むという忍たま乱太郎のきり丸考案のケチケチジュースのシステムを想像するとイメージしやすいと思うんだけど、18回もそれを繰り返したらどれくらい「本当のミッキー」が残っているんだろうと思う。
スーパーでウニの味がする豆腐をたまに買う(滅茶苦茶美味しいし安物のウニにある臭さなど当然微塵も無いので)んだけど、ウニが入っている訳じゃないけどウニの味が楽しめるというのを思い出した。本当のミッキーの身体では無いけど、ミッキーとして認識されているというのは本当に「生き返っている」と言えるのかなという話。これが身体についての疑問。
記憶や感情については定期的にバックアップを取って、リプリントされた身体にインストールすることで記憶の連続性を保っているという話なんだけど、電脳というか、データになってしまった記憶や感情って本物なんだろうかというのが気にかかる。
定期的なバックアップ前のミッキーの精神状態が次にプリントされるミッキーに影響を与えていそうな描写があって(何番のミッキーはどんな性格だった、みたいな)、バックアップしてから死んでしまうまでの体験や感情は引き継がれないという時点で本当に連続性なんだろうか、その間に納得・解消されたりしたことはリセットされてしまうんじゃ無いかと思うと、これもまた本当に自分の記憶なんだろうかと悩ましい。改竄も出来てしまいそうだし。
SFって遠いようで近いことを考えさせるジャンルなのだなと改めて感じた。
主にはそんな感じの感想である。長い。
「死なないとしたらどうしたい?」みたいな話は割と夢のあるものとして話題になりがちだけど、同じ境遇で、目的も決まっていて、同じスペックのままで、誰かの都合で生き返るというのはかなりキツいものがあるなと帰りの電車でずっと考えていた。
「生まれ変わってもいつもここから」をクリアしたミッキーに拍手したいし、この虚しさをより強固にするために原作は7人目だったのに10人余計に死なせて「ミッキー17」として映画化したポン・ジュノ監督の存在自体がブラックジョークみたいなアプローチもエンディングがアレだったから笑えるなと思っている。
映画監督って凄い。
またー。