前々回、桜井識子さんの過去のカレンダーをご紹介した。それでふと、本ではなくカレンダーは、桜井カラーがより凝縮されているのではないかと思った。それで今回は、2023年のカレンダーの内容を少しご紹介しようと思う。

この年のカレンダーは、「運気を上げる習慣」が特集されていた。世界の幸運スポットが12個(12ヶ月分)ピックアップされ、その写真とともに運気向上習慣が紹介されている。(ちなみに巻末には日本の幸運スポットが紹介されており、前々回私がブログに載せたのはそれ)。
全てをここにご紹介することは出来ないが、私が「なるほど!」と思ったいくつかを書いてみる。
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3月の写真はモロッコのヴォルビリス古代遺跡。そして推し習慣は「笑う」だ。いつ笑うのか。不幸が襲ってきた時だ。不幸には「魔」が関係しているものが少なくない。魔は人間を不幸にして、その人が苦しんだり悲しんだりするのを楽しむ。不幸な人が、他者を憎んだり妬んだり恨んだりすると、大喜びする。何故ならば、憎む・妬む・恨むという感情は低波動で、魔を最高に良い気分にするからだ。
だから、苦しい時、不幸に襲われた時、そのどん底にいる時ほど、笑うのだ。「笑い」は魔に対抗する「武器」になる。「笑い」は魔を不愉快にさせる。不愉快になると魔はその人から離れる。不幸の原因が魔であれば、笑う事で脱出できる。
ここからは私が考えた事だが、笑うとは「あははは」と大声を上げる事ではない、他人を馬鹿にして嗤うのでもない、心の中でにっこり微笑む感じなのではないかと思う。苦しさのどん底で、微笑めるのは何故か。それは神聖なものを信じているからだと思う。どんなに苦しくても自分は守られていると信じられれば、微笑める。たとえ何があろうとも、殴り殺され息絶える苦しさの極みにでも、守られているのを信じる。微笑はその気持ちの強さだ。つまりまさしく武器なのだと思う。
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8月の写真はセドナのベルロック。推し習慣は「感動する」だ。毎日する必要はないが、たまに感動できるような習慣を持つとよい理由は、感動により、過去自分がした、よくない考えや言動(そういうものは自分の中に溜まっていく)が、感動する事で消滅するからだ。感動は自分を洗濯するようなもの。
感動する方法は、➀美しい景色(星空や海など)や絵画を見る、➁本や映画、テレビやアニメなどで人や動物の心の美しさに触れる、③美しい音楽を聴く、など美しいものに触れる機会を持つことだ。美しいものは人間の心身をリフレッシュしてくれる。
ここからは私が考えた事だが、感動せずに漫然と生きているという事は、洗濯しない服を着続ける、入浴せずに暮らす、という事に近いのではないかと思う。生きてはいられるが、不健康だ。その鈍感さ故に周囲も苦しめる。感動を忘れない人は、健やかで、周囲にも心地よさを感じさせるのだと思う。自分を心身(そして環境)ともに健やかにしたいなら、感動する習慣は大事ということだと思う。
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10月の写真は皇居外苑だ。推し習慣は「早起き」。
季節によって違うが、夜が明けるのは午前4時頃。4時から6時までが、私達を取り巻く空間が、一日の中でもっとも清浄になっている。6時以降時間の経過とともに、透明度は低くなっていく。
時々で良いので、この時間に起き、早朝の清浄な空気を胸いっぱいに吸い込む事で、体内を浄化できる。浄化できると何がいいのか。大事なことが良い結果となりやすいのだ。ちなみに天候は関係ない。
だから、大事なことをするならこの時間帯にする。例えば、入学願書を書く、大事な手紙やメールを書く、買って来たお札や縁起物を包装から出して飾る、等々。
ここからは私が考えたことだが、私はこの早起きが苦手。まず出来たためしがない。今このブログを書きながら、月に1回、5時に起きる日を作ろうと決めた。そして大事なことは一か月ためておいて、その日にしようと決めた。確かに、夕方になるについて空間が濁ってくるのは感じる。疲れが出てくるせいだと思っていたが、それだけではないのだなと思う。大事なことは、夕方や夜ではなく早朝に。自分によく言い聞かせたい。
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ご紹介はこのぐらいにしておく。今年の桜井カレンダー、テーマは何だろう?と楽しみ。皆様も良かったら。
(ちなみに2025年のは1320円)。

(おまけ)
生花も開運の1つ。理由は、花に力があるから。花の値段は関係ない。道端の花にも同じ力がある。数も関係ない。1輪のタンポポでも、薔薇の花束でも同じように力をもつ。自分にパワーが不足していると感じる時は、花を飾る、花を見に行く、が良い。花なんて現実なんの栄養にもならないけど、見えない世界で力を与えてくれるそうだ。
ここからは私が考えた事だが、女性に花好きは多いが、男性と比べて体力的に劣るからだろかと思う。男性より力が弱い分、見えないパワーを補充できる花を身近に置きたいのかも。お供えに花、お見舞いに花、というのも同じ理屈か。ただ綺麗なだけなら、お見舞いに造花でも良いはずだが、そうする人はいない。私達は生花の持つ力を、無意識に感じているのだろうな。