書籍公式Twitterに連続tweetしたのを、映画関連メモとしてまとめておく。
非常に大雑把に言って、「安定から崩壊へと至る映画」と「崩壊から再生へと至る映画」がある。後者には崩壊が予め含まれているか次第に露になる。家族関係、社会秩序や制度の崩壊。そこから必然的にどう生きるかという命題が浮かび上がる。こういう物語が日本で流行り始めたのは90年代だった。(続
— 書籍 あなたたちはあちら、わたしはこちら (@anatatachi_ohno) 2016, 1月 31 続)「崩壊から再生へと至る映画」は人を元気づけるし希望を与える。だからこの傾向はまだ続くのだろうと思いつつ、個人的には「安定から崩壊へと至る映画」をもっと観たい。何かの崩壊の過程がじっくり丁寧に描かれる映画。例えば小津安二郎の『東京物語』のような。(続
— 書籍 あなたたちはあちら、わたしはこちら (@anatatachi_ohno) 2016, 1月 31 続)でも安定が失われた現在、「安定から崩壊へと至る映画」は難しいとすれば、それは個人の内側にあるものとして見出される。たとえば女性の自意識に焦点を当てていた『ヤング≒アダルト』や『ブルージャスミン』。本人が崩壊に気付けない、気付いたとしてもどうしようもないところが刺さった。(続
— 書籍 あなたたちはあちら、わたしはこちら (@anatatachi_ohno) 2016, 1月 31 続)『桐島、部活やめるってよ』も、菊池の自意識に焦点を当ててみると優れた「安定から崩壊へと至る映画」だった。公開当時、前田に感情移入する感想でネットが沸き返っていたが、もっとも劇的な内的崩壊(空洞)に直面するのは菊池だ。東出昌大の歪んだ顔。あの顔のための映画だとすら思った。(大)
— 書籍 あなたたちはあちら、わたしはこちら (@anatatachi_ohno) 2016, 1月 31 続)ということは、「安定→崩壊/崩壊→再生」という対立項ではなく、むしろ「崩壊→再生/安定=空洞」なのか。「崩壊から再生に至る物語」はあらゆるバージョンで語られ尽くされている。「安定してると思ってたら何もなかった。崩壊すらなかった。空洞があるのみ」というのが今のリアリティ。(大)
— 書籍 あなたたちはあちら、わたしはこちら (@anatatachi_ohno) 2016, 1月 31 続)考えてみると「安定=空洞」でまた安定という言葉を使っては話が循環してしまうのだ。「充実=空洞」と言ったほうがいいのか。仮の充実。様々なものが壊れていく過程をメディアを通じて眺めつつ、自分の中に空洞があるとは信じられない自分。でもあるのだろう。直面するのを避けてるだけで。(大
— 書籍 あなたたちはあちら、わたしはこちら (@anatatachi_ohno) 2016, 1月 31 空洞を埋めるために文章を書いているのか、空洞を露にするために文章を書いているのか。その両方なのか。(大)
— 書籍 あなたたちはあちら、わたしはこちら (@anatatachi_ohno) 2016, 1月 31 何かがぎっしり詰まっているところに空洞を見出し、一見スカスカのところに恐ろしいような充実を見出す。そういう仕事がしたい。(大)
— 書籍 あなたたちはあちら、わたしはこちら (@anatatachi_ohno) 2016, 1月 31