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ニッポンの夏、ラッセンの夏

タイトルはニッポンとラッセンで韻を踏んでみました(言わなくてもわかる)。
ラッセン論集『ラッセンとは何だったのか? - 消費とアートを越えた「先」』がいくつかのニュースサイトで取り上げられて急に話題になり出したと思っていたら、このタイミングでラッセン氏が今夏も来日して展覧会をやっているそうで、「ラッセン」でtwitter検索するとそれらのtweetが相俟ってなかなか”壮観”な眺めになっている。
多いのは「ラッセン展覧会行きたい」*1ラッセン見にいかねば」「ラッセンいいよね大好き♡」といったファンの人々のtweetで、特に驚いたのがこれ。


ラッセンが「美術の教科書」に?! マジですか!!  
ってラッセンほど有名なら日本の美術の教科書に紹介されててもおかしくはないので是非見てみたい。*2

で、こうしたtweetの間にラッセン論集についてのtweetラッセン忌避(主にアールビバンの商法について)のtweetがたまに散見され、もちろんファンと後者間のコミュニケーションはほぼなく‥‥‥。
このカオスと分裂こそが日本のアートの受容状況だと思えてくる。それが一望のもとにわかるtwitterってすごいですね。私はやってないので、本を読んで気付いたことの一端をここにメモしておきたい。



昨年夏にギャラリーCASHIで開催された「ラッセン展」(ラッセンの個展ではなく、ラッセンと共に現代アート日展の作品を展示したもの)の展開として正面からラッセンを取り上げた初めての試みだが、”ラッセンなるもの”についての重要な先行論考は実は二つ存在している。
制度論では、鼎談に参加した中ザワヒデキ氏がかつて提示した「ヒロ・ヤマガタ問題」。『STUDIO VOICE』の「Honey Painting」特集(2000年9月号)での中ザワヒデキ×村上隆対談「ヒロヤマガタとは?」とともに、この本でも幾度か参照されている。
受容論では、栗原裕一郎氏の『ワタセ、ヤマガタ、オフコース 80年代の”フツー”を支配したデオドラント文化の三巨頭』(『音楽誌が書かないJポップ批評28 オフコース小田和正の謎』(2003年8月29日発行)に掲載、ここで出されている呉智英のテキストも面白い)というエッセイ。これもラッセン論集の中で、原田裕規氏と斎藤環氏が触れている。
いずれもラッセンではなく主にヒロ・ヤマガタについて書かれているが、その内容はほとんどラッセンにスライドさせることができる。*3


こうしたことを踏まえたラッセン論集は期待した以上に面白く、2度読みした論考が幾つもあった。この本は、ラッセンを好きになれない人、できれば無視したいと思っている人ほど、興味深く読めるのではないかと思う。
寄稿者の一人としては、自分の鼎談発言やテキストと部分的に響き合っている言葉やニュアンスを、他のテキストの中に幾つか発見できたこと、つまりそこに何本かの線(線の太さは様々)を引けたことが収穫だった。
目についたところは以下。
●『美術史にブラックライトを当てること ── クリスチャン・ラッセンのブルー』(千葉雅也)という、ラッセンを享楽することについて書かれたそれ自体が官能的なテキストと、大野鼎談発言の「快楽とか官能というポイントは外せなくなる」。
●「しかし、長らく美術を規定してきた文脈主義が失効し、作品の回帰に基づく価値の転換がなされる時には(文脈ずらしの遊びはもう終わった)」([Essay]『ラッセンノート(再び制作し、書くために』by上田和彦)。「現代アート金科玉条のコンテクスト、ハイコンテクスト・ゲームが既にかつてほどスリリングなものではない、ヤバさを喚起しない」(『「日本の美術に埋め込まれた<ラッセン>という外傷」展』by大野)。
●『”アウトサイダー”としてのラッセン』(斎藤環)は、拙論考の冒頭で触れたヤンキー論について、前半部で拙ブログ記事を引用しながらさらに丁寧に考察している。最後の方の「「裡なるラッセン」を否認したままでは、ラッセンは語れない」は、私のヤンキー論の前提と重なる(というか斎藤氏はヤンキー論の第一人者だし、私はラッセン以前から”ヤンキーなるもの”に興味があったので、重なってくるのは必然か)。
●『ラッセンの(事情)聴取』(星野太)冒頭。「ラッセンの作品は、一九九〇年代の日本で少年・少女期を過ごした世代にとって、ある決定的な心的外傷となっている」。筆者の世代にとっての「外傷」を、自分は日本の現代アートにとっての「外傷」と拡大して書いている。またその流れの「いまわれわれがここで行っている試みは、すでに外傷として顕わにされた「ラッセン」という固有名をめぐる治癒のプロセスにほかならない」(星野)と、「毒をもって毒を制す的な「トラウマの治療」効果が、この企画を立ち上げるに際して期待されていたと考えてもよいのではないか」(大野)。星野氏は拙ブログ記事に目を通して下さっていたのか、「恥部」という言葉も「」付きで使っている。
*4


ある程度まとまった人数が書いている論考集の”売り”はまず、対象についての多様な視点を提供し、対象を多角的・重層的に捉え返すことのできる点になるだろう。が、それにも増して重要なのは、「その複数性の中にどういう線を新たに引けるか」ということだと思う。論考「間」や発言「間」に引かれる線、論考・発言から「外」に向かって引かれる線が錯綜し、そこに「見たことのない地図」が浮かび上がってくる。
‥‥いや、「ラッセン」に関して言えば「見たことのない地図」ではなかったかもしれない。その地図はずっと前からそこにあって、目には入っていたのだ。誰も改めて「見よう」としていなかっただけだ。


続き


*1:「展示会」という言葉もよく使われる印象。インテリアアート特有の言い方なのか、「新車の展示会」などと区別なく言っているのか、ポスターが「展示」してあるせいなのか。他のアートジャンルでは「展覧会」が普通。

*2:追記:「美術の教科書に載っている」情報(原田氏のretweetより)。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1133578871(3人目の回答)、http://blogs.yahoo.co.jp/kilptroops/15070511.html 著名なイラストレーターという扱いかしら(著名なのは日本でだけだけど)。

*3:昨年9月に出した拙書『アート・ヒステリー』でヒロ・ヤマガタラッセンについて書いた際も、もちろんこの二つは参照し、引用もさせて頂いた。

*4:他、何人かの論者が受容論としての拙ブログ記事に触れて下さっていた。自分×他の方のテキストで書いてみたが、全体でこれをやるとかなり興味深いことになるのではないだろうか。誰か作らないかな、ラッセン論集における論考・発言の相関関係図。そして各論者のポジション。そこに見えてくるかもしれない(まだ誰も言及していない)隙間‥‥。私の手には到底余る作業です。




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