先週は、はてなブックマークのお気に入りを見るに、「はてサ」の話題が目についた。そこで言われていた「はてサ」とは、はてなブックマークを中心に左翼的な立ち位置を表明している人の中で、言動に一貫性がなく党派的且つ攻撃的で人の批判を受けつけない代わりこちらが言ってもいないことで怒り出す困った人々‥‥のことを指しているらしかった。
はてなでの政治的な話題には首を突っ込まないようにしている私でも、「はてサと思われる人のIDを上げよ」と言われれば10個くらいは思いつくが、その人々のうちのどのくらいが上記のような困った振る舞いを見せる人なのかは、よく観察していないのでわからない。
「はてサ」(の一部の人)批判について、右翼でもそういう人はいる、左翼に限らないという意見もブクマコメで見た。ただ、はてなのサービスではどちらかというと右翼より左翼的な人の方が言説が目立つ(or多い?)ので、「はてウ」(そういうのがあるのかどうか知らない)ではたぶん盛り上がらず、「はてサ」で盛り上がってしまうということは言えるのかもしれない(こことかここのブコメが中心。他にも幾つか関連記事がありブックマークを集めていた)。
では「はてサ」批判の話題に乗っている人々は、あれこれの材料を元に左翼を馬鹿にして嗤いたい、この際ネットの左翼がかった人々を引きずり降ろしたいと思っているのだろうか。そういう人も中にはいるかもしれないが、大半は違うのではないかと思う。
「はてサ」に言及しているのは、政治的にはおそらくリベラルから左寄りの人が多く、その立ち位置から、「はてサ」(の一部の人々)の言動を「左翼があれでは困る」「あれでは石原や橋下みたいな右翼がかった勢力を支持する人々に対抗できない」と思っているのではないだろうか。
党派的且つ攻撃的な言動をする人がネットに一定数いるのは、仕方ない。でもそれが「はてサ」と呼ばれる左翼の人々だと厭だ。右翼っぽい人々がどれだけアレな振る舞いをしても「どうせネトウヨだし」「右翼だから話にならないし」で切って捨ててしまえるが、左翼だとちょっと気にかかる。自分とはかけ離れた者の困った言動はどうでもいいが、自分に比較的近い者の困った言動には一言言いたい感じになる。
なぜなら、その人は左翼にまだ少しは期待を抱いているからだ。期待があるからこそ反感も大きくなる。別にこれという根拠はないが、ブコメを眺めていてそう感じた。
今回の「はてサ」批判は、「はてサ」と呼ばれる人々のみならず左翼という立ち位置全体を印象で貶めるような結果となっていて腹立たしいと感じた左翼の人もいたかもしれないが、そもそもハナから左翼に期待していない人から見ると、「はてサ」(の一部の人々)の言動の問題なところを指摘して、みんなして細かく意見を述べ合っているところに、逆に左翼への断ち難い思いが垣間みられてなんとも微笑ましいということになろうかと思う。
因に大昔のことになるが私の中では、左翼とは「硬直した古い考えや物事に疑問を投じる」という構えのことだった。それは常に少数派の構えだった。それで10代から20代にかけては完全に左翼支持だった(どころか一時期、ロクな知識もないまま新左翼に片足突っ込みかけた)が、それ以降は徐々に、左翼(およびリベラル)の言葉遣いに幻滅するようなことが増えていった。
それは、「硬直した古い考えや物事に疑問を投じる」という構え自体の中に、ある種の硬直性が現れていると感じられたからだった。その「疑問」の中には、既に硬直してしまっているかもしれない自分の考え方やポーズは含まれていない。「疑問」の対象は常に自分の”外”にある。だから彼らは攻撃的になれる。
でももちろんそれは、左翼に限らないことだった。
議論の実質的な内容以前の、構えや言葉遣いの印象や雰囲気が言説全体を支配し、それで物事がある方向に流れある”理解”が共有されていく。そういう現象が、この30年くらいの間にあらゆるところで見られた。「はてサ」を巡るネットのあれこれも、その一部のように思える。
関係ないけど選挙が憂鬱だ。