小学生の頃、よくした家の中の遊びの一つに、「天井歩き」というのがあった。
直径が30センチくらいの母の大きな手鏡を、顔のすぐ下、胸の少し上のあたりで鏡面を上にして持つ。自分の顔はなるべく映らないようにして、天井を映している鏡の中を見る。すると、自分がまるで天井に立っているような錯覚に陥る。
でもちゃんと立ってはいない。自分の足の裏と"床"であるはずの天井との間に、隙間がある気がする。子どもなので持った鏡の高さが天井より床に近いために、そういう錯覚が起こる。
木目模様の天井から、細いコードに支えられた電灯の丸い傘が真っすぐ上に向かって突き出し、そこから紐がまた垂直に伸びている。見たことのない光景だ。鏡の下から手を伸ばして触ろうとするが、もちろんそこには何もない。
天井の鴨居も、低い塀のように下から突き出している。それを"跨ぐ"。そこにあるのは実際は引き戸の薄いレールや敷居だが、「よいしょ」と脚を上げて、鏡の中の鴨居を"跨ぐ"。
かと思えば、何もないと思って歩いていって、ちゃぶ台に脚をぶつける。鏡を覗き込んだまま、よろよろと家の中を彷徨い歩く。
上が下で。下が上で。あるのにない。ないのにある。
上下逆転の興奮と、視覚と触覚の不一致による混乱の感覚に、私と妹は夢中になった。
妹と交替で鏡を使って、「天井歩き」を楽しんだ。天井を歩いているつもりになっている人間の動作は滑稽で、見ていて笑えた。自分もあんなふうに間抜けに見えるんだ。
ある時、妹が縁側で「天井歩き」をやっていた。縁側の上は傾斜のついた屋根の庇で、妹は水平な縁側の上を、妙に体を傾けてバランスを取りながらそろそろと歩いていた。ヘンなかっこ‥‥。
それから私は家の中で他のことをしていて、少し間、妹のことを忘れていた。突然「わぁっ」という声が聞こえ、縁側から落ちでもしたのかと思い急いで出てみると、妹は庭の真ん中で尻餅をついていた。
「どしたの?」
「お空に落っこちた‥‥」
彼女は、何とも心もとない顔をしていた。
庭には大きな樫の木が何本かあり、上の方でたくさんの枝が四方に伸び、その一部が重なり合っている。妹は屋根の庇からその"下"に突き出していた太い枝に"乗り移り"、それを辿って別の枝に"乗り移ろうと"して、"足を踏み外した"らしかった。
妹が地面に放り出した鏡の中に、恐ろしい空間があった。はるか下の方の枝と枝の間から深い井戸のように見えている青空。あそこに落ちたのか。
まるで『ノンちゃん雲に乗る』みたいだ。私は読んだばかりの本の名前を思い出した。
「雲があったらよかったね」と、妹の手を引っ張って立たせながら言った。いつもの癖で、勝手に自分たちを「お話」の人物にしていた。「雲に乗ったら、ジャンプして枝に乗れたのにね」
「雲になんか乗れないよ。あれ、霧みたいなんだよ。知らないの?」
素早く現実に戻った妹は、姉を見て醒めた声で言った。ついさっき「お空に落っこちた」などと言ったのを忘れたように。*1
この頃から妹はさっさと現実に立ち帰る切り替えの早い子どもで、私は妄想の世界に浸っているぼーっとした子どもだったのだ。だから「天井歩き」に先に飽きたのは妹の方だった。
今でもたまに、一人で「天井歩き」をやっている。
身長が伸びた結果手に持った鏡の位置が高くなり、なんとなく足が鏡の中の天井を踏み抜いている気がする。狭い家の中をうろうろと歩き回り、床に積み重ねた雑誌や本につまづいたり、猫を蹴飛ばしたりしている。空に落ちたことはまだない。
*1:姉の「お話」に組み込まれたのが気に入らなかったのかもしれない。聞いてないのでわからないが。