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アートの幻想 --- 2. 消費としての芸術体験

1.資本主義カルチャーとしてのアート

2. 消費としての芸術体験

愛知県の豊田市美術館に、ヴォルフガング・ライプの展覧会を見に行った時の体験について書く。
ライプのそのインスタレーションは、長い時間をかけて彼が野山を歩き回り、さまざまな花から少しずつ採取した膨大な量の蜜や花粉によって作られていた。会場で私はその「匂い」に包まれ、作品のたたずまいの謙虚でセンシティブな美しさに素直に心を打たれた。
ライプの作品はよく、大量消費や自然破壊、過度な文明化への内省を促すものだと言われている。しかし、ライプの作品に感動しても、明日から質素な食生活に切り替えようと思う人はいないだろう。もう車には乗るまいと思う人もいないだろう。自然保護の運動に参加しようと決意する人もいないだろう。
作品体験は、あくまで「受容体験」に留まるのだ。それは人の生き方を変え、今までとは異なる行動に促すところまではいかない。どれほど深い芸術的感銘を与えようと、彼の洞察や思想は、実際にはおそらく使われることがない。「癒し」という言葉への置き換えは、それを物語っている。
アートは所詮「そういうもの」だというふうに結論づけると、前述の資本主義カルチャー論に回収されてしまうので、なぜ「使われることがない」のかという点に絞って考える。


「すぐれたメッセージ性を持つ」と言われる作品であろうとなかろうと、アートはまず知覚、感覚に訴えかけるものである。もっとも、色や形という視覚言語には、誰でも共有できる明確な体系があるわけではない。それは様々な「効果」としてその都度現前するものであり、その「効果」の中に様々な意味作用があり、それを直感的に感受する、あるいは分析的に読み解くことで、作品を観賞するのだ。
ライプの展示は、感覚に訴える強度と純粋さにおいてきわめて効果的なものであり、それゆえにメッセージもストレートに伝わってくる。それは見る人を糾弾し断罪するようなものではなく、自然の生命のサイクルについて静かに語りかけるようなものだ。しかしそこで、私はいったい何に感動したのだろうか。
この「人と自然はいかに共生しうるか」というメッセージ内容自体、目新しいものではない。アートでは既に60年代から扱われてきたテーマであり、ライプが自らの生活の中で見い出した真実にせよ、彼が発明したものではない。そしてこれはもともとアート独自のものではなく、社会的で普遍的とも言える昔からのテーマである。
要は、こうした聞き慣れたエコロジー的なテーマが、あのようなシンプルで美しい視覚(および嗅覚)言語に置き換えられている、そのことに私は感動した、ということなのだ。


いや、ここで感動というのはもはや適切ではない。感心した、と言った方がいいだろう。ライプの、意外性を感じさせるが的確なモチーフ選択と洗練された見事な展示技術に、私は感心した。これは、当たり前のことを予想外の言い方で明言された時の気持ちよさと似ている。
つまりライプの作品が強く支持される真の理由は、そのテーマ内容がクリエイティブだからではなく、プレゼンテーションがクリエイティブだからである。それによって観客は、メッセージをあたかも初めて聞いたかのように新鮮に受け取るのだ。
しかしそれは既知のメッセージでありテーマである。従ってそれは結果的に、より感覚に直接訴えかける視覚的現実の中に埋もれ、「美しいものを見た」という快の経験の記憶だけが残る。言い換えれば、彼の作品の簡素な美しさが、ミニマルで静謐なイメージ、スタイルとして消費されていくということである。



アートがスタイル化する、そして消費される。マスメディア時代のアートは、アウラと同時にその批評性も脱色されて流通してきた。
たとえばポロック以前には、絵の具の軌跡で構成されたようなプリント柄はない。ミニマルアートはあらゆるデザインジャンルのエッセンスになっている。アートが産出した表象、イメージの多くはなんらかの流通しうるスタイルとしてアートの外で消費の対象となり、経済に回収されてきたと言ってもいい。ポップアート以降はその逆転現象が起こり、それも飽和状態に達している。
アメリカの大衆誌『LIFE』の表紙のデザインはロシア構成主義から影響を受けたテイストだが、それを80年代後半のアメリカで、バーバラ・クルーガーは作品の重要なフォーマットとしてサンプリングした。そこにはアートと大衆文化、戦前ヨーロッパと戦後アメリカという関係が重層的に捉えられていた。
アートが自己相対的な批評性を有していたのは、このあたりまでだったように思うが、そのクルーガーの作品(情報)でさえ、日本では社会的メッセージのあるエッジの効いたダイナミックなインスタレーションとして、その大胆なセンスが感覚的に受容されたに過ぎなかったのではないか。


ライプ展が行われた豊田市美術館の建物は建築として優れ、展示空間も日本の美術館の中ではすばらしいものとして有名である。エントランスから左手の2階に上がって行く真っ白な壁には、ジョセフ・コスースの名前の作品、その上の空間にはジェニー・ホルツァーの電光掲示板の作品がある。言うまでもなく、二人とも非常にコンセプチュアルな、アートや言語や社会に対する鋭い批評的視点をもった仕事をした作家だ。 初めて行った時、作品と空間のマッチングに新鮮な驚きを覚え、二人の作家を選択した美術館の見識を評価したい気持ちになった。
しかし一方で、あの空間を通るたびに私は、作品の持つ思想的哲学的な緊張が薄められているように感じないではいられない。空間をあまりにも巧みにスマートに演出している作品のビジュアルが哲学的なメッセージを見え難くし、デザインとしての美だけがそこに虚しく残っているように思えるのだ。


以上のことは、個人的であろうと社会的であろうと様々なテーマを有するとされるすべての作品に当てはまるのではないか、そのように私は思わざるを得なくなった。アートというビジュアルに効果的に置き換えられた次の瞬間に、それが消費され別のものになっていくのは、どれだけ感覚的な要素を捨て去った作品でも免れないだろうと。
その時「芸術体験」とは、色や形や素材や空間といったものが渾然一体となって与える「効果」の受容体験と、どこが違うと言えるのだろうか。アート作品は、アート的なコンセプトをまとったすぐれた空間デザイン、ビジュアルデザインと、どういう本質的な違いを主張したらいいのだろうか。そこで見る人の内に起こる、混乱、驚き、当惑、安心、感動、快楽などの働きは、現代アートの専売特許ではないのだ。


これが、批評性を持つと言われるアートの本質的なジレンマである。ここを脱するには、テーマあるいは作品形式そのものをクリエイティブなものにしなければならない。しかしすでにありとあらゆるテーマと形式が出尽くしている。反芸術という「芸術的テーマ」まであったのだ。
結局今アートで行われているほとんどのことは、これまで出てきたテーマ、他ジャンルで既に扱われているモチーフ、あるいは日常の事象を、別の技法、素材、メディアの組み合わせで目先を変えてアレンジしているだけではないか、という拭い切れない疑問が沸き起こってくる。
とすると今後ますます、アート作品としての質の高さと言われるものは、そうしたテーマやモチーフを、いかに新鮮なアイデアと巧みな技術で上手に処理してみせたかという「料理の腕」の善し悪しになってくる。しかしこれはずっと昔からポピュラーカルチャーが、しのぎを削ってやってきたことである。


他ジャンルと共有するテーマや、なんらかのメッセージなどではなく(それなら言語に還元可能だ)、ただひたすら、見る、あるいは描くことについての思考と経験の内側を生きる、というフォーマリスティックなあり方もある。これはある意味すぐれてモダニスト的な、今や貴重とも言える正統的姿勢である。アートのもっともコアな部分を保持しているのは、こうした経験の具体的な質だけを問おうとする試みかもしれない。
しかしそれは、アートが見る側の「趣味判断」に依存するものだということに、容易に反転してしまう。そこでの視覚言語の捉え難さ、複雑さといったものに対する芸術的な感受性は、潤沢な文化資本を背景にした「趣味判断」力の高さに支えられているのだ。
こうした作品は無論、アートに対して真正面に位置付けされる。アートに対して自身の正当性を主張し、承認を求める。そのアートは、自明のものとして前提されていなければならない。だがそこでは芸術的感性やセンスは吟味されても、歴史的社会的感覚や内なる規範性を問われることは極めて少ない。その意味では、これらの試みもまた多くのポピュラーカルチャーの身振りと似てくる。
それでも尚、アート独自の意味を見い出し、全てのカルチャーと一線を画すのであれば、アートでなければ到達しえない新たな地平を示す必要がある。 それができなければ、名実共に資本主義カルチャーの一つだときちんと自覚し直すしか、社会に対してリアリティのある存在の仕方はない。


3に続く)




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