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女はそこにはいない。女はどこにもいない。

アニメヒロインが淫乱だったら放送出来ないんじゃね? - 煩悩是道場


「処女」でなければいきなり「淫乱」とは。それはいったいどういう二択か。
コメント欄では非処女はいるのでは?という指摘もあったが、アニメヒロインとなると処女が前提となっていることが多いと思う。そもそもヒロインの平均年齢が低い。大概ローティーンだ。その年代なら現実でも処女が多いので、設定に無理が生じない。アニメ受容者の同世代の女子に感情移入しやすくするためという理由もあるだろうが、それだけだろうか。


「処女」とは、セックスに関して体験的に無知であるという事実を示すだけの言葉である。一方、オタクがアニメヒロインに求める属性として、一途さ、純粋さ、ひたむきさというものがあるという。それらは、「処女性」と呼ばれている(参照:処女のヒロインは好きですか? - ネットの片隅で適当なこと書く人のブログ
一途さや純粋さやひたむきさは、処女に特化される属性ではない。少年でもおじさんでも大人の女性でも、そうした属性は持ちうるはずだ。なのに、一途、純粋、ひたむきと言えばいいところを、わざわざ「処女性」と言わねばならないのはなぜか。多くのアニメで、一途さや純粋さやひたむきさが「処女」だけの属性として描かれているから、だけではないだろう。性的に無知という属性が「処女性」の中心にあり、それを男性が求めているからだろう。


の指摘にもあったが、アメコミでは伝統的にアマゾネス系(女傑タイプ)が好まれてきた。『ワンダーウーマン』や『バットマン』の「キャットウーマン」に代表される、セクシーでアグレッシブな成熟した女性だ。
これはハリウッド映画に受け継がれており、敵と死闘を繰り広げる英雄的なヒロイン(『エイリアン』のリプリーシガニー・ウィーバー、『バイオハザード』のアリス=ミラ・ジョヴォビッチ、『トゥームレイダー』のララ=アンジェリーナ・ジョリーなど)が続々登場した。いずれも女傑タイプの成年女性として描かれている。
しかし日本のアニメを見ると、古くは『風の谷のナウシカ』だって、ヒロインたるナウシカはどう見ても、まだ恋愛やセックスを体験していない処女だ。対する悪役のクシャナは年齢的に大人であり、たとえセックス未体験だったとしても、義手をカチャリと外して「我が夫となるものは、更におぞましきものを見るであろう」なんてセックスを連想させる台詞を吐いている。


斎藤美奈子著『紅一点論』によれば、ナウシカクシャナの原型は、『ルパン3世 カリオストロの城』のクラリス峰不二子である。一方は言わば聖少女、一方は酸いも甘いも噛み分けた大人の女。峰不二子は「ワンダーウーマン」の末裔として、その「お色気」で男性を悩殺したが、ヒロインは前者であり、その後の多くのアニメヒロインは「少女性」「処女性」によって人気を得ている。
90年代以降の欧米では、日本のアニメ人気の影響もあって、少女が活躍するアニメも多く作られているようだが、性的コードに対して厳しい規制が設けられており、日本のアニメTV放映(たとえば『セーラームーン』の変身シーンなど)はかなり制限されているらしい。


斎藤環は『戦闘美少女の精神分析』の序章で、「日本人のロリータ志向」という解釈を退けた上でこう書いている。

 こうした前提のうえで、あらためて見えてきた特質がいくつかある。それは「戦闘する」少女たちの「人格」である。欧米圏のそれは「ガール」であれ「ウーマン」であれ、性格も男勝り、体格もしばしば筋肉質の女性であることが多く、基本的には「女性の肉体をもった男性」あるいはマッチョのパロディとしての女性であることが圧倒的に多い。これらの大部分は、明らかにフェミニズムの政治性という土壌から発生した人物造形である。
 これに比して、日本の闘う美少女たちの場合はかなり異質である。『ナウシカ』あるいは『セーラームーン』に顕著であるように、そこには無垢や可憐さなどの「少女性」(必ずしも「処女性」とイコールではないが)が、ほぼ完全な状態で維持されている。そこでは受容のされ方も明らかに異なる。日本の「闘う美少女たち」は本来の対象層であるローティーンまでの少女たちが同一化するためのイコンであった。しかしいまや、これを上回りかねない規模の消費集団が存在する。それがおたくだ。少なくとも男性のおたくの大部分は、これらの少女たちをセクシュアリティの対象物とみなしている。


本書では、「戦闘美少女」が虚構的存在である(「ファリックマザー」から転じて「ファリックガール」としていた)からこそ、そこにセクシュアリティを差し向けることが可能になる、といったことが書かれているが、「非戦闘美少女」への嗜好や「処女性」へのこだわりについては、本論と外れるためか明確に説明されていない。


ちなみにオタクの「処女性」嗜好について議論をしているAntiSepticさんはこの記事の最後で、「リアルと妄想の間で、そんなに簡単にスイッチ出来んのかよ。出来ゃしねーだろ」と書いているが、スイッチできるらしい。以下『「性愛」格差論 萌えとモテの間で』(斎藤環×酒井順子中公新書ラクレ、2006)のp.79〜80より。

斎藤 一部向かっている人がいるのは事実ですけれども、それが決してすべてではないということです。たしかに、おたくの趣味って、外から見れば単なるペドファイル小児性愛)、ロリコンに見える。ペドファイルは犯罪志向が強いわけですけれども、しかし、おたくは虚構空間と実生活の区分けをしています。そうじゃなかったら社会生活を営みえない。おたくの性犯罪率はきわめて低いのです(以下略)。


で、AntiSepticさんはコメント欄で、(スイッチできたとしても)「底に抱えている女性観の幼稚さには呆れ返る」と言うのだが、そもそも子供向けアニメに登場する少女に「萌え」たり彼女達と「恋愛」できること自体は、人の性の多形倒錯の一つに過ぎない。
重要なのはセクシャリティ=性的欲望のかたちが往々にして、男女非対称であるということだ。女性の童貞礼賛はあまり聞いたことがないが、虚構空間に限らず男性の処女礼賛は昔からあった。だが、そうした志向がアニメヒロインに「処女性」を求めるオタクにあるからといって、今更「差別的だ」と糾弾してもどうなるものでもない。もう、そういうものなのだ。*1


男性の女性に付与するキャライメージは、女性の男性に付与するそれより、はるかに豊富である。男性はありとあらゆるタイプの「女」(聖女から悪女まで、処女からファイティング・ウーマンまで)を想像、創造してきた。それぞれの「女」が細部においていかに異なるか、それを男性は語ってきた(アニメキャラを対象にしているのがオタクだ)。
このキャラクター創造の欲望の強さにおいて、歴史的に女性は男性に及ばないのではないかと思う。斎藤環が『心理学化する社会』(PHPエディターズ・グループ、2003)でオタクは「キャラ萌え」、腐女子は「位相萌え」だとしているのも、そうした男女の非対称性を踏まえてのことである。


その一方で男性は「女は謎である」とした。そりゃそうなるだろう。どのキャラも想像上のものなのだから、現実に当てはめたって無理が出るだろう。むしろ「謎めいていてほしい」のではないか。欲望を維持するために。
もっとも現実の女性も、男性の創造した「女」を、時と場合に応じて身に纏うくらいのことは普通にしてきた。勝手に妄想しててよ、こっちもせいぜい利用させてもらうから、ということで。
では「本当の私」であるところの「真の女」が、そのキャラのベールの下にいるのだろうか。
いや。女はそこにはいない。女はどこにもいない。



●関連記事
「男」という病、「女」という病

*1:たとえば、松任谷由実が昔『魔法のくすり』で歌った「♪男はいつも最初の恋人になりたがり、女はいつも最後の愛人でいたいの」という凡庸な歌詞の"説得力"。




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