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芸術、あるいは「人の感性を批評するな」について(tadashiさんへのお返事)

ラッセンは何の恥部だったのかのコメント欄で、tadashiさんが不快感を表明されています。いろいろ興味深い問題を孕んでいると思ったのと、レスが長くなりましたので、別エントリを立てます。特別批判の意図はあるのではないことを、最初にお断りしておきます。
最初のtadashiさんの書き込みはこちら。それへの私のレスはこちらの中程です。前後に他の方の関連レスがあります。長いですが、読まれてない方は一通り目を通されることをお勧めします。

「権威の選択したものが正しいという証拠は何も無い」のか

二回目のtadashiさんの書き込みから引用させて頂きます。最初に、私に宛てた部分から。

>芸術的な価値は最終的には「権威」が決めます。もちろん「権威」って一枚岩じゃないですけどね。
権威が決める?権威も結局は人です。しかも世界の人口の一握り。
権威の選択したものが正しいという証拠も何も無いから、個々の感性を信じればいい。
それを「ちょっと笑っちゃう」って人を嘲笑するuetamさんに対し感情的になってしまいました。
荒らすとかそう言う気はありませんので、、すいません。


「権威」は「制度」と結びついて裾野にまで影響を及ぼします。
たとえば生前あまり評価されなかったゴッホの絵画は、今、美術館に収蔵され学校の美術の教科書に必ず登場しますが、それはどこかで「権威」に評価され(もちろんそれを最初に見出したのは、ごく僅かな人でしかなかったでしょう)、「芸術」であるとの認証を得、その認識、見方が「正しい」として世の中に広まったからです。
そこには、ゴッホの作品を「優れた芸術」とする一定の「根拠」があります。それは「個々の感性」を超えて、ゴッホが「美術史や絵画史の上でどういう意味を持ったか」という判断に依っています。端的に言えば、「それまでの芸術の価値観や支配的美意識をどれだけ更新したか」ということです。それが(近代以降の)芸術の評価の判断基準と言われるものです。
もちろん基準が厳密なところまで共有されているとは限らないので、「一枚岩」ではないと書きました。


「権威」の認めたものと「個々の感性」とが合わない場合は、もちろん無数にあるでしょう。たとえば私は、ピカソキュビスム時代の抽象絵画ルノアールの後期の作品を心から良いなぁと思ったことがありません。
しかし「個々の感性」も、社会・文化環境にまったく影響されていないまっさらなものではないという認識は必要かと思います。「個々の感性を信じればいい」とは簡単には言えない、が、最終的には「自分の感性に従う」しかない、というところではないでしょうか。


>それを「ちょっと笑っちゃう」って人を嘲笑するuetamさんに対し感情的になってしまいました。
uetamさんは、ラッセンを絵画的には「素人作品」だと見た上で、アールビバンの強引な絵画商法や作品を投機の対象とする人を問題視していたと思います。
>>もっとも、ラッセンを好きで買った人は否定できません。つたない絵であっても、その人が気に入っているならそれは名画といえます。
と書かれていますので、「個々の感性」で選択することについては認めておられると思いますが。

「芸術作品を自身の感性で評価する」ならば

この後tadashiさんからsho_taさんへのレスがありますが、私の記事及び発言への批判とも重なっていると思いますので引用してお答えします(raijinさんへのコメントで内容的に重複しているところへのレスも兼ねます)。

>自分の書いたものが自爆ブーメランになっていないかどうか確認することをお薦めします。
あなたたちが気を悪くするのは解ってます。
そして、あなたたちから見たらここでは私の方が「悪人」と思われるのも。
でも、あなたたちは芸術作品を自身の感性で評価するのに留まらず、
その作品を好きな人達を批評していませんか?
何で売れたんだろう?好きな人、欲しい人がいるから売れたんですよ。


私は(たぶんsho_taさんも)tadashiさんを「悪人」とは思ってません(「荒らし」とも)ので、その点誤解のないようにお願い致します。
で、「芸術作品を自身の感性で評価する」ということがあるなら、自身の感性にそぐわない芸術作品を批評する、そうしたものを評価する感性をも批評する、ということもあるはずです。「こんなものが売れていいのか」と思えば、「こんなものを買う人の神経を疑う」という言葉は出てくるでしょう。そうした発言の自由は認められるべきです。
そもそも、ある作品を高く評価するというポジティブな行為にしたところで、それを評価している人の感性や価値観を評価すると同時に、評価できない人の感性、価値観を間接的に批判することにもなり得ます。人の感性や価値観が様々である以上、誰かを不快にすることは避けられませんし、当然このことは自覚した上で書いております。


「何で売れたんだろう?」については、アールビバンの強引な絵画商法を見る限り、「純粋な個人の趣味としてラッセンを好きな人が多かったから売れた」だけには還元できません。こちらの記事を参照して下さい。
ラッセンが本当に好きで買った人ももちろんいることでしょう。しかし、前の記事の引用メールでもコメント欄でも指摘されていましたが、あまり絵画について詳しくないところに勧誘員に強引に購買を勧められ、乗せられて大金を支払い後で後悔した人々は少なからずいると思われます。
ラッセンを優れた芸術、あるいは投機の対象と思い込まされて買った人は、"ある意味では"絵画商法の「被害者」と言えるのではないでしょうか。ただし最終判断を下したのは自分自身ですから、法的に「被害者」としてアールビバンを訴えることができないというところではないかと思います。
もっともこうしたことは、書画骨董を初め芸術分野ではよく起こっていそうなことではあります。

芸術は「自己満足」なのか

例にも挙げましたが、ピーコのファッションチェック、
あんた趣味悪いわね。と言われていい気のする人なんていませんよね?
ファッションも芸術も結局は自己満足でしょ?
人が何を好きだろうが、誰にも迷惑かけてないんであればそれに口を挟むなと。
センスがあると気取って他人のセンスにケチを付けないで。
芸術なんて境界の無いものであり、落書きでも人によってはそれが芸術と感じる。
それを、芸術を知り尽くした顔で人のセンスを貶める。
そういった行為は気持ちの良いものではないと思いますから。


芸術の捉え方によってくると思います。「自分が芸術と思ったら芸術だ」としてしまえば、まさに「自己満足」で且つ、芸術とは「境界の無いもの」です。そういう見方が出てくるのはよくわかりますが、また一方で「芸術とはこういうものだ」と定義づけ、フレームが作られてきたことも事実です。むしろ何らかの定義づけがあり、それが作品によって更新されてきたからこそ、芸術というジャンルは維持されてきたのです。
たとえば、重要な作品、作家と言われるものの評価される理由、美術史に登録されてきた理由(ゴッホの話のところで書きましたが)を少し見れば、個人の「自己満足」だけで測れない面があることは事実です。


ただ、「自己満足に過ぎない」という見方は、これまでの芸術のあり方を問い直す上では一つの契機となるとは思います。
「自己満足」としてしまえば、じゃあなぜ「権威」があり「制度」があり、芸術と芸術でないもの、芸術家と芸術家でない人を峻別する構造があるのか?という問いが引き出されます(そういう意図で書かれたかどうかはわかりませんが)。


「ピーコのファッションチェック」については思うところがあって以前書きましたので、よろしければどうぞ。
上下関係の秘密(2004/11/24)
ピーコは「ファッションを知り尽くしているプロ」として登場し、「素人」を批評します。そのバックにあるのは「世の中には良い趣味とそうでない趣味がある」という見方です。良い趣味を知っている人とそうでない人がいる。そこに「上下関係」がある。
すべての趣味は等価だとしてしまえば、そんなものは関係ありませんが、残念ながらそこまで達観できる人は稀です(少なくとも「ピーコのファッションチェック」に登場する人は、「ピーコさん、ファッションチェックお願いしま〜す」と言って相手に判断を委ねています。「上下関係」を受け入れているわけですから、「あんた趣味が悪いわね」と言われても文句は言えません)。
ファッションを「自己満足」だとしても、他人の視線(とりわけセンスがあると言われる人)を一切気にしない人は少ないでしょう。「知っている者」が措定されて欲望が生まれるのです。芸術でも同じような構造があります。

「芸術を知り尽くした顔」とは何か

tadashiさんは、前の記事及びコメント欄で暗に芸術的価値判断における「上下関係」が措定されており、「上」から「下」を見下ろしている優越感が感じられて不快だということかと思います。「芸術を知り尽くした顔で人のセンスを貶める」、スノビズムが腹立たしいと。


こちらのコメントではラッセンにこだわっているわけではないとのことですが、とりあえずラッセンに関しては、「芸術を知り尽くし」ているか否かに関わらず、商法の観点から批判的に見られているところは大きいです。記事で引用したメールも主にその観点のものからです。
またコメント欄のtadさんの指摘にもあったように、イラストとして評価されるのではなく、「絵画」「アート」として売られたということについての疑問があります(ここではイラストと絵画とどちらが「上」かという判断は保留されています)。
これらの疑問は、芸術的価値判断における「上下関係」を棚上げにした上でも出てくるものだと思います。


ラッセンが芸術業界では一顧だにされていない理由を、私はコメント欄に「絵画としての狙いとか企みはラッセンからは感じられないので、専門家から見ると食指は動かないのだろう」と書きました。
これはおそらくどんな絵画の専門家に訊いても、同じような答が出てくるものと思います。そしてこの点で初めて、「上下関係」なるものが顕われてきます。以下、それについて書きます。


ある作品に「絵画としての狙いとか企み」があるかどうか、どうやって判断するのか。それは先に書いた「それまでの芸術の価値観や支配的美意識をどれだけ更新したか」を見られるか否かに尽きます。平たく言えば、「新しいものの見方、新しいセンスを提示できているかどうか」の判断です。
この判断ができる人とできない人がいるということは、そこに「芸術についてわかっている/わからない」という、芸術的価値判断における「上下関係」が存在するということです。
判断基準=価値基準は、現代美術ではほとんど知的変態ぶりを競い合うようなスノッブなところに入り込んでおり、細かな差異を見るには最初から高い「センス」を養える環境にいるか、でなければ頑張ってそれを鍛えるか、さもなければ複雑な文脈を読み解く「勉強」が求められます。つまりは文化資本の差によって、わかる人とわからない人が分かれてきます。もちろんわからない人には「教育」でもって啓蒙するということが行われてきました。
そしてこうしたことが、芸術を芸術たらしめる「権威」を作り「制度」を維持してきたのです。


極論すると、「上」から「下」を見下ろしているような優越感を"根本的に"批判するのであれば、これまでの芸術のあり方を根底から覆し、その意味を書き換えなければなりません。
そうでないのなら、「傷つく人がいるといけないから、人のセンスについて書くな」と言っているだけになり、それはわかって書いている者には説得的な言葉とはなり得ません。



さて上記の諸条件を一旦横に置いた上でも、「ラッセンの絵はダサい」「あんなものを有り難がる人もダサい」という趣味判断はあるでしょう。これはtadashiさんの言われる「個々の感性」です。
「個々(自分)の感性を信じれば」こそ、自分から見て変だと思う他人の感性についての批判も出てくるわけで、繰り返しますがその表明は自由です。表現の仕方も自由です。tadashiさんが私の記事やコメント欄に不快感を表明されるのが自由なように。


ここでは「ラッセンの良さがわからないのか?」という意見はまだないのですが、単に好みを言い合っているだけなら議論としては不毛です。が、なぜ「良い/つまらない」と思うのか意見交換できれば、少なくともその背景がわかれば、自分とは異なる感性(及びそれを評価する文化圏)について、少しは違った見方が得られるかもしれません。他者への理解というものがあるとすれば、そこから始まるものだと思います。
それを、人の好みや感性を批評するのはけしからん(と感じるのも「個々の感性」だと思いますが)というところで切らない方がいいと思いますが、いかがでしょうか。


私はラッセンの作品及びその現象を「なんか恥ずかしいもの」として捉えてきました。個人の趣味としても、「芸術」として見た場合もです。
その「恥」の中身を考えていくと、ラッセンを受容する人々の中にある「ヤンキー」性という観点が浮かび上がりました(ヤンキー文化圏は日本人の中に薄く広く存在しているというナンシー関の見方を参考にしています)。
であるなら、その「ヤンキー」なるものがもしかすると自分の中にもあって、見たくないと思っているから「恥」と感じるのではないか、という結論を出しました。
単に「芸術を知り尽くした顔で人のセンスを貶める」ために書いたのではないことを理解して頂ければと思います。




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