本、それは人類最後のフロンティア。
読んでる途中で急に広告が挟まることも、億万長者に急に買収されることも、生成AIで勝手に編集されることも、クソリプが飛んでくることもない、美しく閉じたあなただけの世界、それが本。働いてると読めない、いや読める、など議論も続く今日この頃ですが、四の五の言わず、読んでいきたいですね。
とか言いつつ2025年はそこまで本が読めなかったんですが、読書リストを作ってみたら、良い本もけっこう読んでたし、ベスト10形式で紹介していきます。
劇場公開作から選んでる映画のベスト10↓と違って「その年に出版された本」とかそういう縛りは一切なし。合言葉は「読んだ時が新刊」。
ちなみに本のベスト10、2024年はサボっていた。2年ぶりか。
2025年に読んだ「ベスト本」10冊
『動物には何が見え、聞こえ、感じられるのか 人間には感知できない驚異の環世界』

一発目はこちら。題材の奥深さと面白さはもちろん、自分がなぜ動物学の知見を大事にしているのかを再確認できる本という意味で、2025年のベスト本と言って差し支えなさそう。
さっそくだが、本書の冒頭の文章を。
想像してみてほしい。部屋の中に、ゾウがいる。「部屋の中の象」と言えば、英語のことわざで誰もが見て見ぬふりをしている厄介事のことだが、ここでは実物の、大きな哺乳動物のゾウを想像しよう。
部屋はゾウが余裕で入る大きさだ。うん、学校の体育館にしておこう。さて、そこにネズミが入り込んできた。そのすぐ横を、コマドリが飛び跳ねている。頭上を見ると、フクロウが梁で羽を休め、コウモリが頭を下にして天井からぶら下がっている。ガラガラヘビが床の上を滑るように遣い回り、部屋の隅にはクモの巣が張られ、ブーンという羽音を立てて蚊が飛び回り、マルハナバチが鉢植えのヒマワリに止まる。そうやって次々に生き物が現れるこの想像上の空間の真っただ中に、人間がいる。彼女のことをレベッカと呼ぼう。レベッカは、健康な目をもっていて、好奇心が旺盛で、(幸いにも)動物が大好きだ。彼女がどうしてここに迷い込んだのかは気にしないでくれ。他の動物がなぜ体育館にいるのかなんてことも気にするな。その代わり、レベッカとここに集められた想像上の動物たちがお互いをどのように知覚しているのか、それだけを考えてみよう。
どう、この静かでユーモラスで奥深い、素敵な書き出しで本を読みたくなったんじゃないでしょうか。この後、それぞれの動物が、同じ空間を共有していながら、全く異なるやり方で「お互い」や「世界」を知覚していく様が、いきいきと詳細に語られていく。あらゆる動物がひとつの体育館に集結するなんて、ありえないファンタジーな仮定ではあるのだが、この寓話は私たちが生きる現実世界こそがとても不思議なものであることのメタファーだ。
「コウモリであるとはどのようなことか?」という動物好きの間では有名な命題がある。哲学者トマス・ネーゲルが1974年に発表した哲学の論考のタイトルで、「その動物として生きる世界の体験は実際どういうものなのか」という話題の時によく引用される。本書『動物には何が見え、聞こえ、感じられるのか』もその命題を中心におき、科学的(時に哲学的)な知見を結集して、「タコやフクロウや蚊やサメであるとはどのようなことか?」などなど、 さまざまな生物がそれぞれの知覚によって体験する多様な世界、人呼んで「環世界」の秘密に迫っていく。
ただし、この本は「コウモリやタコやフクロウや蚊やサメであるとはどのようなことか?」が「わかる」と安易に語る本ではない。むしろ、わかることの難しさを強調する。結局、私たち人間は、自分の馴染み深い感覚(特に視覚)による先入観をもっていて、それが他の動物の環世界を理解するうえでの妨げになってしまう。視覚の偏重は言葉遣いにも現れていて、たとえば「見方」「盲点」など、認知にまつわる単語ではとりわけ顕著だ(顕著=目に付くことだから、これもか…?)。望ましい状態を「明るい」「輝かしい」と、その反対を「暗い」「暗黒」「陰鬱」などの視覚の欠如によって表す。科学者でさえ、人間に備わっていないの感覚(電場など)を描写する際、「イメージ」など視覚関連の言葉を使う。私たちがいかに人間の「視点」(あら、またもや)に縛られているかを、せめて自覚すべきだろう。
それでも、科学の知見をふまえて想像することは可能だ。
「第1章 滲み出る化学物質――匂いと味」では、生物にとって最も根源的な知覚である「化学物質の検知」、すなわち嗅覚と味覚にフィーチャーする。最も身近な動物でありながら(人間が軽視する)嗅覚を中心とした別世界を生きているイヌや、化学物質を駆使して「個体」を超えた「超個体」を作り出して地球に君臨するアリや、「全身が舌」と言えそうなナマズや、私たち人間の「嗅覚」への蔑視や思い込みがコンドルに長年の誤解を植え付けた事例などを紹介していく。章の最後は、化学的センサーという共通点に着目し、「私たちは光の匂いを嗅ぐことによって『見て』いるのだといってもいいわけだ。」という、本書を象徴するような興味深い文章で締めくくられる。
百花繚乱の進化を遂げた地球の生きものが頼る知覚は、匂い、味、光、色、手触りのような、人間にも馴染み深い「五感」の領域に収まらない。熱、表面振動、電場、磁場など、人間が想像しづらい感覚で体感する「世界」の秘密に科学で迫ることで、この本は「知覚」の枠組み自体を広げていく。アフリカや深海や宇宙に行くまでもなく、驚きに満ちた未知の世界は、すぐそばにあるのだ。
動物について学ぶことは、私たちと異なる「他者」について学ぶことである。そこが動物学の何より好きなところだし、自分でも大事にしたいと思うところだ。他者の視点……だけでなく、聴く/嗅ぐ/感じる/味わう「世界」を想像することで、私たちの人生はもっと奥深く、優しく、面白くなると信じている。そんなわけでこの本『動物には何が見え、聞こえ、感じられるのか 人間には感知できない驚異の環世界』を、2025年のベスト本に選びたい。
『フクロウ 地球上で最も謎めいた鳥の科学』
ジェネラルではなくスペシャルな「どうぶつ本」で、ベストを1冊選ぶならこれ。
地球のいたるところに生息するフクロウは、人間を最も魅了してきた鳥である。文化の中でも知性のシンボルとして扱われ、様々な神話や芸術にも登場してきた。
その反面、実際のフクロウの「捕食者」としての生き様は荒々しく獰猛で、文化的なイメージとのギャップの大きさも面白い。
本書では世界のフクロウガチ勢(専門家)の活動も次々に紹介され、そのフクロウ愛と執念には感銘を受ける。獲物だけでなく、人の心にもその鋭い爪を深く食い込ませてきた鳥・フクロウを語り尽くす本。
『フクロウ 地球上で最も謎めいた鳥の科学』、世界に並び立つフクロウガチ勢の1人として『極東のシマフクロウ』著者のジョナサン・スラート氏も登場してアツかった(かっこいい)
Blakiston’s fish owls are so large that, as adults, they don’t really have natural predators. I’m aware of only one case of predation, when a Eurasian lynx surprised one along a riverbank while it was concentrating on the water & watching for fish 1/4 🌍🦉
— Jonathan C Slaght (@jonathanslaght.com) 2024-11-17T13:54:30.750Z
スラート氏は捕獲難易度どころか観察難易度すら高すぎる世界最大のフクロウ「シマフクロウ」を、研究のために捕獲するというベリーハードミッションに挑んだことで知られる。フクロウが魚を捕まえる川を特定して、魚を入れた罠を川に沈めるというアイディアなどを駆使して頑張るのだった。
ジョナサン・スラート氏に並ぶ最強フクロウキャッチャーとして『フクロウ 地球上で最も謎めいた鳥の科学』で活躍するのは、デヴィッド・ジョンソン氏。アナホリフクロウ(その名の通り穴を掘って暮らすので捕獲が難しすぎるフクロウ)の専門家で、推定6000羽を捕獲したという。
プロが作った罠にも簡単に引っかからない抜け目なさを持っていて、カラスなどの(人間にもわかりやすいタイプの)「知性」ともまた違う、フクロウの「知的能力」を目の当たりにする。
音の罠を使ってクリエイティブにフクロウを捕獲するジョンソン氏のコメント。フクロウのセリフが良い↓
「しかし、私はすべてのフクロウを捕獲することはないでしょう。歳を重ねたフクロウは、とても狩りがうまく、私の捕鳥網の上を飛んでこう言うに違いありません。『ありがとう、ジョンソンさん。でも、私はもっと上手に狩りをすることができます。カンガルーネズミも捕まえられます。あなたの小さなネズミまで捕まえようとは思いません。これがゲームであることは知っていますが、私はそのゲームはしません』」
こんな鳥好きわくわくエピソードが満載な『フクロウ 地球上で最も謎めいた鳥の科学』だが、フクロウの大衆人気が、かえって(特に映画で人気になったシロフクロウを筆頭に)フクロウの存続を脅かすという問題も語られていく。
日本がとりわけ深刻なフクロウ「輸入」大国であるという補足もあった。奇しくも最近のWWFとのコラボ図解がまさにその「ペット問題」なので、参照してほしい↓
野生動物のペット利用について、ヤマザキ動物看護大学の学生と共同でイラストを制作しました。最後は、森の忍者、夜の狩人などの異名をもつ #フクロウ です🦉ホッホー
— WWFジャパン (@WWFJapan) 2025年10月15日
イラスト:ぬまがさワタリさん(@numagasa)
もっと詳しく知りたい方はコチラもチェック👇https://t.co/9KkGNwipyx pic.twitter.com/p84xVXFdrA
本書『フクロウ 地球上で最も謎めいた鳥の科学』を読んで、フクロウを含む動物たちに、いかに私たちが(良くも悪くも)好き勝手にイメージを抱いて、文化のあちこちに反映しているかということを、いきものクリエイターとして改めて考える契機となった。動物文化論、やはり奥が深いジャンルだ。
本の中に、ひたすらフクロウ関連の所蔵アート(彫刻、絵画、アクセサリーなど、古今東西のフクロウ芸術が550点もあるらしい)を調べてリスト化しているメトロポリタン美術館の学芸員・フレミング氏という人が出てきて、「フクロウ・レディー」として知られているらしく、へー良いなと思ったので…

…マネしてみた。ワニ展も人気みたいだし、フクロウ展、ぜひやってほしい。
『春はまた巡る デイヴィッド・ホックニー 芸術と人生とこれからを語る』
これも年間ベスト級。詳しめ感想記事も書いた↓のでここでは省略するが、年末にすご〜く良い本に巡り会えたなあ…と胸に染み入った。
生成AIだなんだで、「絵を描くこと」の意味そのものが問い直されているご時世でもあるけど、だからこそ色んな人に読んでほしいなと。本書に限らず、今以上にアーティストの(作品だけでなく)言葉をみんなよく聞くべきなんだと思う。アーティストが「作品で語る」「言葉で語らない」ことが絶対善とされる風潮もあって、そのせいで政治的・社会的な発信がやたら忌避されるのも良くないのだが、それとは別に、「自分にとって芸術とはどういうものか」と価値や意義を芸術家が語ってくれるのって、とても素敵なことじゃないかと思う。「ゴッホの手紙」とかだって読んでみると凄くイイしね。そもそも作品「だけ」で語れることなんかごく限られるだろ、という話でもあるし。
これ以上なく「絵を描くこと」のハードルが下がりまくってて、ある意味こんなに恵まれた時代もないはずが、その真価を本当に私たちの世代は、80代のホックニーよりまともに受け止められているのだろうか、など、『春はまた巡る』では思考を促された。
これを読めばホックニーのような天才芸術家になれるかはともかく、天才芸術家の声が聞こえる部屋を心のなかにつくれるかもしれない、そんな本でした。
昨日も言ったが今年の抱負はこれでいきます↓

ホックニー「いやだから何?こわい」
『サルとジェンダー 動物から考える人間の<性差>』
尊敬する動物学者フランス・ドゥ・ヴァールが残念なことに2024年に逝去し、こちらが最後の本となったのだが、ああやっぱりもっと沢山この人の本を読みたかったなぁ、と思えるような、知的に刺激的な「どうぶつ本」だった。
本文(第5章)より
科学の世界は、ボノボとその行動とは折り合いが悪かった。彼らを人間の最近縁種として受け容れたら、私たちの自己像が崩れてしまうからだ。ボノボがどれほど独特かを直接知っている科学者はほんのひと握りしかおらず、ボノボのことを伝えるのに苦労していた。ボノボはあまりにセクシーで、平和的で、女優位なので、すべての人に歓迎してもらえたわけではない。見るからに気分を害する人々もいた。私がボノボのアルファメスの権力について、ドイツの聴衆を相手に講演したときがそうだった。講演のあと、高齢の男性教授が立ち上がり、ほとんど非難するような調子でこう怒鳴った。「なんたるざまだ、そのオスどもは!?」
サル(とタイトルにあるが、本書ではいわゆるサル=monkeyよりも、霊長類=primateの話題が中心)は、人間の心をザワつかせる動物だ。引用のドゥ・ヴァールの記述によれば、人間に最も近い霊長類の一種である「ボノボ」は、特にそういう傾向があったようだ。
このドイツ人の男性教授は(今では)極端な例と思いたいが、チンパンジーやボノボがDNA的にも極めて私たち人類に近いこともあり、人はついつい彼らを自分たちと重ねて、そこから何かを「学ぼう」としたり、(件の教授のように)ある種の人間的な規範の目を通して見てしまうことがある。「性」は人間界においても重要なテーマであり続けることから、その社会の議論や価値観の変化も、動物の「性」を語るうえでは常に反映される。しかしそうした偏りを捨てて、人間に近い動物たちの「性差」のあり方について、曇りなき目で読者に伝えようとする本となっている。
この本では、生物学的な性の区別を表す「セックス」よりも、あえて社会的・文化的な性を意味する「ジェンダー」という言葉を中心に据えながら、動物の「性差」のあり方について論じていく。なお原書のタイトルは ‘Different: Gender Through the Eyes of a Primatologist’ (違い:霊長類学者から見たジェンダー)。
タイトルを見て、「ジェンダーという言葉は、人間にしか使わないものじゃないの?」と疑問を抱く人もいるかなとは思う。たしかにセックス=「生物学的な性」であり、人間を含めた動物全体のもので、ジェンダー=「社会的・文化的な性」であり人間特有のものである、という区分は、今のところ一般的かつ常識的なものと言えるが、動物にも「社会」や「文化」があるという見方も科学的に有力になりつつあるので、定義的には動物にも「ジェンダー」=「社会的・文化的な性」に相当する性区分がある、という考え方が市民権を得る日もそれほど遠くないかもしれない。
『サルとジェンダー』の中で、動物園に来たお客さんが時々「この動物のジェンダーはオス?メス?」と聞くことがあるそうで、ドゥ・ヴァールもそこは(動物にもよるだろうが大抵の場合)「セックスは〜」のほうが適切では?と言っていた。「ジェンダー」をセックス(性別)のちょっと上品な/学問的な言い方くらいに思ってる人も多いのかもしれず、それがジェンダー的なマイノリティの人への誤解や反発や偏見に繋がる場合もあるとすれば、人間社会において解決すべき問題だろう。
詳しい内容はぜひ読んでほしいが、本書を読むうえで重要な箇所を一文だけ引用。
今日、チンパンジーとボノボという、私たちに最も近い二つの種の遺伝的背景について、前よりもよくわかっている。DNA分析によると、人間との比較で、これら二種のどちらか一方を依怙贔屓する理由はないそうだ。私たちには、ボノボと共通でチンパンジーとは共有していない遺伝子があるものの、チンパンジーと共通でボノボとは共有していない遺伝子もある。遺伝的には、どちらの類人猿もまったく同じ程度、私たち人間に近い。
チンパンジーとボノボは、前者は暴力的で男性(オス)上位的、後者は平和的で女性(メス)上位的…という傾向があるといわれ、この区別が厳密に正しいかはともかく、人類にどちらも同じくらい近いにもかかわらず、驚くほど対照的な動物だ。したがって「私たちはチンパンジー?ボノボ?」という疑問は無意味だろう。両者の性のあり方は全く異なるし、そもそも人間とは異なる動物なので、私たちの社会や性のあり方をチンパンジーやボノボが定義することもできないからだ。
たとえばチンパンジーの「男性(オス)優位的な」生態をあまりに都合よく解釈して、「私たちの本質はチンパンジーなのだ! 男たちよ、"アルファ・オス"となれ!」とか叫びながら、暴力的だったり女性蔑視的な価値観を広めている不届き者もけっこういるようだ。しかしそういう人は大抵、チンパンジーの生態についても、「アルファ・オス」という概念についても勘違いしており、人間社会が独自に構築した性差別的な価値観に浸りながら、それを正当化しているだけだ。
たとえば、いわゆる「アルファオス」という概念は人口に膾炙してるし、チンパンジーのオスにも実際リーダー的な存在はいるのだが、それは腕力が強く威圧的なオスだとは限らない。むしろ寛容で争いを仲裁するなどの人間関係ならぬ「チンパン関係」のセンスこそ、リーダーの資質として求められたりするそうだ。むしろ腕力や凶暴さに物を言わせるオスは普通にみんなに嫌われて、仲間に闇討ちされて大事なバナナをちぎられたり(婉曲表現)することもある…。
人間がうっすら「チンパンジーとはこういうもん(なので人間の"本質"もきっとそんな感じだろう)」みたいに思っているが、実際にはただの知識不足と「自然主義の誤謬」(自然界にある=良いとする誤謬)の組み合わせである思い込みを、専門家のドゥ・ヴァールがスパスパ切っていく面白さがある。
一方で、ボノボをジェンダー平等のユートピアにすむ動物として、過剰に神聖視するような風潮にも、ドゥ・ヴァールは専門家としてNOを突きつける。チンパンジーにしろボノボにしろ、複雑な側面をもつ野生動物であって、その振る舞いや生態を私たちの社会の指針や規範にすることはできないと理解すること。それと同時に、私たち人類が霊長類という動物にすぎず、チンパンジーやボノボと多くの共通点を持っていると謙虚に認め、その実際の姿を曇りなき目で見つめること。この2つは両立できるのだとドゥ・ヴァールは教えてくれる。
動物を通じてジェンダーを語るという挑戦的な内容ゆえに、海外でもいくつか批判的なレビューも見かけた(中には頷けるものもあった)一方で、ドゥ・ヴァールの学者として/人としてのまっとうさに疑う余地はないと思うし、日本でも「生物学」への胡乱な認識を振りかざしてマイノリティを抑圧する動きも強まる中で、読まれるべき本だと思う。
『数学者たちの楽園 「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち』
アニメ本としても数学本としても面白かった。アメリカ屈指の人気長寿アニメ(最近は日本でも配信で見やすくなっている)「ザ・シンプソンズ」は、いっけんドタバタなファミリー向けコメディだが、実は脚本家などの制作陣に数学関係の経歴を持つ人がやたら多い「数学者の楽園」でもあった、というノンフィクション。
そんな「数学者の楽園」である「ザ・シンプソンズ」は、ボンクラなギャグの合間に、よくみると頻繁に数学の小ネタが挟まるという。たとえば、あるエピソードで野球場に表示された謎めいた数字のクイズは、全ての数が数学的に個性あふれる数字だったりする。

解説すると、
A)8191→メルセンヌ素数( 2n − 1 の形で表せる素数、この場合はn=13)
B)8128→完全数(自分自身を除く正の約数の和が自分自身に等しくなる自然数。8128は6、28、496に続く4番目の完全数)
C)8208→ナルシシスト数(各桁の数を、もとの数の桁数に等しいべきにしたものの和。8208の場合は、8,2,0,4をそれぞれ4乗して足した数である)
こういう視聴者の99.99%は絶対に理解できるはずもない数学ネタがさらっと出てくる。いま見返しているので、目を凝らしておかなければ…。
『ザ・シンプソンズ』の脚本家の数学ガチ勢っぷり、単に数学好きとかオタクとかにとどまらず、真面目な研究論文も書いたりしている。ある脚本家が「ザ・シンプソンズ」でもネタとして扱った「パンケーキ数(焦げたパンケーキをひっくり返す回数)」にまつわる論文が「専門誌に載ったよ」と脚本チームに言ったらみんなびっくりしたが、他の脚本家に「私は二ヶ月前に載ったよ」と返されてさらにびっくり、なんてエピソードも。
脚本家のコメントには苦笑してしまう。「『ザ・シンプソンズ』の脚本を書くようになってみたら、『離散応用数学』に論文が載った唯一の脚本家にもなれないとはね」
『ザ・シンプソンズ』の数学エピソードをもうひとつ。1995年のハロウィン(ホラー回)エピソードで、ホーマーが3D世界に足を踏み入れてしまう(シンプソンズ世界は2次元なので誰も3次元の概念を理解できない)という話なのだが、これも『数学者たちの楽園』で「数学ネタ回の頂点」として語られていた。
実はアニメ史的にも地味に重要なエピソードで、というのもこの3Dアニメを特別に作ったスタジオが、これが一種の宣伝となったのか、同年にドリームワークスとの契約を獲得し、『アンツ』と『シュレック』を作ることになるのだった(ちなみに同95年に『トイ・ストーリー』が公開された)。
この本で紹介されている、『ザ・シンプソンズ』に数学の精神が満ちているという話は、大衆向けコメディをとても知的な人々が作っていたことの証明でもある。もちろんアニメ本編の大部分はしょうもないギャグなのだが、その中に鋭い社会風刺や、権力や大企業への批判や、(もちろん時代なりの制約こそあれど)マイノリティに寄り添った描写を巧みに織り込むのが『ザ・シンプソンズ』の真髄だ。
「エンタメは、頭空っぽなほうが良い!」みたいな反知性主義的なことを言う人は常にいるが、そもそも万人を楽しませる作品が「頭空っぽ」で作れるはずもないし、おそらくこの世で最も有名なコメディのひとつである『ザ・シンプソンズ』が、いかに作り手の知性と、観客の知性への根本的な信頼の上に成り立っていたかは、今こそ再確認すべき部分だろう(まぁ数学ネタは「客にわからなくても全然いいんだよ」的なノリで入れてたみたいだけど…笑)。
『ザ・シンプソンズ』、最近まで日本では配信とか全然なかったようで、意外と未見の人も多いと思うが、Disney+の提携でだいぶ見やすくなったので、もし未見ならぜひ最初から見てほしい。
現在37シーズンまで続いている超長寿シリーズだが、特に最初の10シーズンくらいは文句無しの傑作として語り継がれている(別に最近のシーズンだって現代批評コメディとして十二分に面白いし日本から見ると羨ましいんだが…)。
あと『数学者たちの楽園』、後半では『フューチュラマ』に話が繋がっていく。シンプソンズの制作陣でも特に数学的な素質のある人が結集して作った、さらに理系み(?)を順化させた姉妹作が『フューチュラマ』だったという。
劇中によく登場する数字「1729」が、インド生まれの著名な数学者ラマヌジャンが病床で「興味深い数字だ」と述べたという、心打たれる友情のエピソードに起因していたりする。
先日みた最新シーズン13の4話「ナンバーランドの裂け目」がわかりやすすぎるほど露骨で知的な数学回だったので、なるほどな〜と答え合わせ感もすごい。とても面白いシリーズなので「ザ・シンプソンズ」同様オススメ。
そんなわけで『数学者たちの楽園』、図書館で借りたのだが、電子版で買い直すくらい面白かった。よく見ると作者が『フェルマーの最終定理』のサイモン・シンだ。そりゃ面白いね
『ジェイムズ』
小説を読むことの意義を最も強く感じた一冊だった。
本作『ジェイムズ』は、有名文学『ハックルベリー・フィンの冒険』に登場する黒人奴隷ジム(ジェイムズ)を主役に据えた、二次創作的かつ批評的な「スピンオフ」小説。2025年のピューリッツァー賞を受賞したりもした。
アメリカで最も有名な小説の一冊と思われる『ハックルベリー・フィンの冒険』、日本語版もたくさん出てますね↓
原作が書かれたのは1885年であり、主人公ハックとともに旅をする黒人奴隷のジムも、時代なりのステレオタイプとともに描かれていた。そんなジムを、恐るべき人種差別社会をサバイブする知的な人間(ただし知性がバレたら殺されるので愚か者を演じている)として再解釈&再構築し、ジムとハックの逃避行を新たな視点で描き直したのが、本作『ジェイムズ』である。
まず、原作『ハックルベリー・フィンの冒険』の第2章の冒頭を引用してみる。(引用は角川文庫『トウェイン完訳コレクション ハックルベリ・フィンの冒険』)
オレたちはぬき足さし足で、立ち木の中の小道をたどって裏手にまわると、後家さんとこの庭のはずれのほうへ行った。腰をかがめて、木の枝がオレたちの頭をこすらねぇようにしてな。台所のそばを通り過ぎようとしたとき、おいらは木の根っこにけっつまずいて、音をたてちまった。で、オレたちはうずくまって、じっとしていた。ミス・ワトソンの黒ん坊で、体のでっかいジムっていうのが、台所の戸口に坐っていた。その姿は、すごくはっきりと見ることができた。というのも、明かりがジムの後ろからさしていたからだ。ジムは立ち上がると、首を長くのばして、一分ほどそのままにして、じっと聞き耳を立てていた。そのうちに、
「誰だ、そこにいるのは?」
ジムは、また少し聞き耳を立てていた。それから、ぬき足さし足でやってくると、オレたちのちょうど真ん中へんに立った。オレたちは、ジムに触ることができるくれぇだった。もうちょっとでな。
語り手であるハックとトムが、寝ているジムに抜き足差し足して近づき、バレないようにいたずらを仕掛ける場面となっている。ジムは2人の存在に気づいておらず、それどころか迷信深いジムは、人の気配を「魔女の仕業」と解釈して、奴隷の仲間たちにもそう語っていたと原作『ハックルベリー・フィンの冒険』では描写される。
反面、本作『ジェイムズ』の書き出しは、こう。
悪ガキたちは丈の高い草むらに隠れていた。月は満月ではなかったが明るく、子供たちの背後にあったので、夜のかなり遅い時刻でも二人の姿は昼間と同様にはっきり見えた。
黒いキャンバスを背景に蛍が光った。私はミス・ワトソンの屋敷の、台所の扉のところに立ち、緩んだ踏み板を足で押しては、明日修理をするようにと言われるだろうと考えていた。ミス・ワトソンがセイディーのレシピに従ってトウモロコシパンを作ったというので、私はそれを渡されるのを待っていた。”待つ”というのは奴隷生活の大きな一部を占めている。待つ、そしてさらに待つために待機する。指示を待つ。食べ物を待つ。一日の終わりを待つ。そしてあらゆるものが終わるときに、キリスト教徒として功罪に応じた正当な報いが訪れるのを待つ。
白人の少年、ハックとトムが私を見ていた。二人はいつも何かのごっこ遊びをしている。
そこでは私は悪者か犠牲者の役だったが、いずれにせよ彼らのおもちゃだ。二人はツツガムシや蚊みたいな虫に咬まれてもぞもぞしていたが、私の方には近づいてこなかった。いつだって白人には調子を合わせておくのが得策だから、私は庭に出て闇に向かって呼びかけた。
「暗がりにおるのは誰だか?」
二人はクスクス笑いながらぎこちなく体を動かした。あの様子ではたとえすぐ横で楽団が音楽を演奏していても、たとえ相手の目と耳が不自由であっても、気づかれずに忍び寄ることなんてできそうもない。こんな子供たちの相手をするくらいなら蛍の数でも数えていた方がましだろう。
そう、原作『ハックルベリー・フィンの冒険』に存在した同じ場面を、全く違う視点から、全く異なる場面として捉え直しているのである。当然『ジェイムズ』のジムは、ハックにもトムにも気づいているし、彼らのいたずらについても(面倒だとは思いつつ)理解している。もちろん魔女も信じていない。
そのうえで、「子どもにからかわれる間抜けな黒人」を演じるほうが"安全"である、という、白人の目には映ることのない不条理な現実と、それを冷静に認識する彼の知性が見事に描写されている。
白人少年の代表格であるトム・ソーヤーはもちろん(トムが出てくるのが冒頭のここだけというのもなかなか思い切ってる)、ハックとジェイムズとの間に存在する圧倒的な不均衡についてもそれとなく提示する。そのうえで、逃避行を通じてジェイムズとハックの関係性に生じる変化を丁寧に描き直していく。『ジェイムズ』はまるで鋭利なハサミのようにクリエイティブな「二次創作」なのだ。
『ジェイムズ』のジムは、このように知的な存在で、実は独学で様々な本を読み、社会や人権といった概念への知見も深めていた。にもかかわらず周囲から「知的でない」と思われている…どころか、「知的だとバレると殺される」という極限状態にあるので、自分の知性を隠し通している。そんな黒人奴隷の視点だからこそ、本作は「読む」ことの切実な価値と意義を改めて万人に突きつけてくる。
『ジェイムズ』本文より引用↓
私は早く本が読みたかった。ハックは眠っていたが、万一目を覚ましたときに、本を広げて読んでいる姿を見せるわけにはいかなかった。それからこう考え直した。本当に読んでいるのかどうか、ハックに分かるわけがない、と。意味も分からないまま、どういう意味だろうと思いながら文字をじっと見ていたのだと言い訳することもできる。ハックに分かるわけがない。その瞬間、読むことの力が現実的なものとしてはっきりと私に感じられた。もしも文字が私の目に入れば、誰もそれをコントロールすることはできないし、私が何をどう受け取るかを決めることもできない。私が単に文字を見ているだけなのか、それとも読んでいるのか、頭の中で音にしているのか、それとも理解しているのか、誰にも知りようがない。それは完璧に私的な行為であって、完璧に自由で、それゆえ完璧に破壊的だった。
奴隷は誰より不自由な存在だが、「もしも文字が目に入れば、誰もそれをコントロールすることはできないし、私が何をどう受け止めるかを決めることもできない。」肉体ではなく、精神の自由のための命綱、それが本なのである。
今のアメリカでも、奴隷制やLGBTQ+にまつわるテーマの本が特定の州で禁書扱いされているというリアルタイムのニュースがあったが、こうした恣意的な言論弾圧は日本でも決して他人事ではないし、文字通り「本が焼かれている」社会で、何度も読み返されるべき言葉だと思う。
『ジェイムズ』、もちろん『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んでから読むに越したことはないと思うが、別に知らなくても(作品について大雑把な認識でもあれば)万人が面白く読めるサスペンスとして完成度が高いというのもスゴイ。(ぶっちゃけ私も『ハック』昔読んだきりうろ覚えだったので、これを機にもっかい読み直したりした。)
基調としてはシリアスではあるのだが、黒人奴隷の一生の非常にシビアな側面もきっちり描かれるだけに、外連味のある展開がよりド派手に見えて、終盤とかちょっと『イコライザー』みたくなっとるやんけ、と不謹慎なことを思ったりした。
気づかなかったが著者のパーシヴァル・エヴェレット氏、アカデミー脚色賞とった映画『アメリカン・フィクション』の原作者なんだね。
本作『ジェイムズ』も様々な受賞(全米図書賞&ピュリツァー賞他)も納得のエッジィな面白さだし、映像化もしそうな気配(すでにスピルバーグ制作で話が動いてるんだとか)なので、ぜひご一読を。
人種差別を題材にしたキレのいい小説関連で、もう一冊だけ紹介。
『どこかで叫びが ニュー・ブラック・ホラー作品集』
ご献本いただき、「ジョーダン・ピール編」の謳い文句に惹かれつつ読み始めたが、読み応え抜群のホラー短編集だった。血なまぐさい歴史に留まらず、現代もなお続く黒人への差別や抑圧を背景に、当事者である書き手たちが綴る、多種多様なアイディアと奇想、時にはユーモアにあふれた「恐怖」の数々。
一発目からN・K・ジェミシン(『第五の季節』等)の、「車に目がついてる!?」という(怖いカーズ的な…)権力と視線を巡る話で鮮烈。2025年はホラー映画も豊作で、今「ホラー」という枠組みが世界的に(日本でも)問い直されている時期なんだと思うが、アメリカ文学界の最前線からの、恐ろしくも豊かなアンサーといえる。
『ニッポンの移民 増え続ける外国人とどう向き合うか』
海外の人種差別も確かに深刻なのだが、日本も全く他人のことはいえない。それどころか政権が代わってまたひとつタガが外れたような嫌な雰囲気がある。大手メディアでもSNSでもなんとなく外国人バッシングの空気が醸成され、外国から来た人や見た目が異なる人への排斥的ムードが続いている中、audibleの番組「アトロク・ブック・クラブ」でライムスター宇多丸さんが紹介されていて読んだのがこの本。
日本の移民政策が実は世界的に見てもリベラルかつ開放的である…と聞くと、「そんなわけあるか」と思う人が大半だろうが(私含む)、昨今の現場での運用はともかく、あくまでシステム上は(欧米と比べても)確かにそうした見方ができる、という話は目から鱗だった。なんなら、日本はすでに移民国家としか言いようがないのだ。
倫理的な面でも移民政策はもちろん重要だが、日本社会の窮状を考えれば「移民ボーナス」とでもいえる社会的利益を逃すべきではないし、日本独自のシステム的な有利さを存分に生かしたほうがいい、と本書は論じる。
この本を読んだ流れで、類書『移民と日本社会 データで読み解く実態と将来像』も読んだが、こちらもデータ重視で、移民が社会に与える影響を分析していて面白かった。
たとえば「移民が来ると犯罪が増える」は排外主義的な人の決まり文句になっているが、ほとんどの研究では、移民の増加は犯罪率に影響を与えないと示されており、むしろ移民の割合が多い(例:20〜30%)地域では犯罪が減る傾向にあるという。
別の記事には「むしろ、罪を犯すことで在留資格が失われるなど、日本での生活の基盤が壊れることを考えれば、日本人よりも外国人の方が慎重になる」という分析があり、それは当然そうだよな…と。
外国人の犯罪離れが嘆かわしい、日本の伝統文化である犯罪を移民から守らなければいけない、というのは冗談だが(SNSでいうとマジで怒る人がいて困る)、ありもしない「現実」をもとに外国人への恐怖や憎悪を煽っているようでは、これからの日本社会は行き詰まっていく一方だ。倫理的な意味でも現実的な(経済/人口/観光業etc)意味でも、移民や外国人をどのように扱うかが日本の最大の分岐点になるんじゃないだろうか。
『「偶然」はどのようにあなたをつくるのか: すべてが影響し合う複雑なこの世界を生きることの意味』
「あれ、冷静に考えると、世界、こわすぎん…?」と思える、おもしろこわベスト本。
あるアメリカ人夫婦がたまたま旅行していなければ、京都に原爆が落とされていたかもしれない(そして広島に原爆は落ちていなかったかもしれない)。フェルディナンド太公が乗る車が最悪のタイミングでエンストを起こさなければ、第一次世界大戦は起きていなかったかもしれない。あまりに重大な歴史的事象が、あまりにささやかな偶然によって左右されることは珍しくない。現在の私たちの足元がいかに偶然によって形作られているかを説き、偶然の恐ろしさとスリリングな面白さ、そして不確実性に対して謙虚であることの大切さを論じる。
『「偶然」はどのようにあなたをつくるのか』、先述した人間社会における「偶然」の重すぎるウェイトを語る部分も迫力があるのだが、生物にまつわる本としても面白い。 そもそも人類を含めた生命全体がいかに些細な偶然に翻弄されているか、改めて突きつけるのだ。
6600万年に浅い海に激突して恐竜を全滅させた巨大隕石は(ちょうど「大絶滅展」やってるが…)、あとほんの少し角度がズレていたら、あと1分でも遅れていたら、もっと深い海に落ちてそれほど大きな被害になっていなかったと言われるし、そもそも地球にぶつかっていなかった可能性もある。そうすれば恐竜は繁栄を続け、人類は白亜紀末の小さな哺乳類から進化することもなかったかもしれない。
しかし隕石がドンピシャな位置とタイミングで地球に直撃したことで、全ては変わり、今に至る。
生物史の驚くべき偶然は、隕石だけではない。進化における「偶然」の驚くべき例として登場するのが「目」だ。ランダムな変異の果ての驚異的な低確率によって、光に敏感な細胞が「偶然」生み出されたことで、脊椎動物は「目」を獲得した。
だが驚くべきは、イカやタコのような無脊椎動物が持つ「目」が、私たちの目の仕組みにそっくりであること。
脊椎動物の目と、イカやタコの目は、ある遺伝子の別個だが似通った変異からそれぞれ独自に誕生したとわかり「同じ遺伝子に、雷が二度落ちたようなものだ」と言われる。
要するに「収斂進化」だが、こうした「収束性」は、それと対をなす「偶発性」よりも科学において崇拝されてきた、が…?と続く。
生物学で「収束性」は神聖視されてきたが、実際には「偶発性」も「収束性」も同じくらい支持する証拠を自然界は提供する、と論じる。
「偶発性」の好例がカモノハシ。カモのような嘴・ビーバーのような尾・カワウソのような足・毒針(オスのみ)を持ち、産卵する上に乳を出して子どもを育てる。あまりに特殊な動物で「進化上1回限りのもの」と生物学者に称される。
逆に「収束性」の好例は甲殻類で、タラバガニもアカホシカニダマシもヤドカリもカニではなく、互いに関係もないが、進化の過程で5回は動物がカニのような身体構造を取るようになった。「カニのような形態に進化すること」を意味する「カーシニゼーション」という用語まである。(カーニゼーションじゃないよ)
さらに、人間性における重要な部分すら、大いに偶然に左右されているかもしれない。私たちは「人の本質とは…」みたいな話をよくするが、その「本質」とやらは、少なくとも生物学的な意味では、わずか1万人だか数千人だかの人類がどんなもんだったか、という紛うことなき偶然によって決定された可能性が高いんどあ。
というのも数万年前に人類は「深刻な人口のボトルネック」を経験し、残り人数がわずか1万人〜数千人くらいにまで減少した時期がある、という研究があり、本当なら今の私たちは全員その子孫ということになる。よって人類の遺伝的多様性はめちゃくちゃ低く、地球の反対側の人類同士よりも、川を挟んで暮らすチンパンジー同士の方が遺伝的に多様であるとも言われる。人種差別がいかに馬鹿げてるかという話でもある。
そして『「偶然」はどのようにあなたをつくるのか』、テーマから言えば必然だけど「人生を変えるには思考を変えろ、幸福を引き寄せるイメージを持て」的な自己啓発ビジネスの傲慢さに対して怒りを炸裂させる。「2世紀前に奴隷だった人は、不幸を跳ね除け幸福を引き寄せる"イメージ"が足り無かったとでもいうのか?」と痛烈な皮肉。
「人生は自分次第」というのは前向きな文言として受け入れやすいけど、裏を返せば「悲惨な人生でもあなたの自己責任」ということでもある。これは、「自分は大金を持った成功者なのだから、何をしても許されるんだ」とばかり、目を疑う暴挙に出る億万長者にも顕著にみられる態度だ。そのように「偶然」の重要性を軽んじ、自分の成功を必然と受け止め、新自由主義にどっぷり染まった自己啓発的な思考を斬る本となっている。面白さでは今年読んだノンフィクションでも随一だったので、オススメしたい。
『リミタリアニズム 財産上限主義の可能性』
というわけで(?)、大金持ちの存在自体を問い直すべき時がきた。
あまりに莫大な富が一個人に集中することがどんな悲惨な事態を引き起こすのか、イーロン・マスクのような札束ヤバ人間のおかげで実感しやすい今日このごろだが、この本『リミタリアニズム 財産上限主義の可能性』は、「個人の所有する財産に"上限"を設けるべきである」という主張と、その道徳的な理論の基盤や、実現に向けた構想を真面目に論じる。
…と書いただけで、反論が目に浮かぶようだ。もちろん億万長者自身や既得権益者はすぐさま「共産主義だ!」とか反発するだろう(本書を読めばわかるように、共産主義とは全く別物なのだが…)。特にお金持ちではない庶民でさえ「でも稼いだ金はその人のものだし…」となんとなく同意できない人が多そうだ。だが、そこに新自由主義的な社会が植え付けた誤った固定観念の罠がある、と説くのが本書の狙いだ。
進歩主義的な人の間でさえけっこう言われがちな「不平等や格差そのものが問題なのではない、貧困が問題なのだ(=なので億万長者の富に制限をかける必要はない)」という理屈に対して、いやそれはおかしいやろ、貧困は間違いなく問題だが、それと同時に不平等や格差そのものも大問題だろ、と鋭いツッコミを入れていく本でもある。
たしかに環境問題ひとつ取っても、地球温暖化を引き起こす温室効果ガスをめちゃくちゃ排出してるのって圧倒的に金持ってる層に偏っているので、中間層や下層からかけ離れた超富裕層の行動に着目しないことには解決できないんだよね。
大金持ちがある程度の節度というか、最低限の人目を気にしていた前時代ならともかく、やはり特にイーロン・マスクを筆頭に一部の大金持ちが一気に箍を外してしまったよなと肌感覚でも実感する。なので一見突飛なリミタリアニズムの議論は(海外のTax the Rich="金持ちに課税せよ"運動の亜流としても)わりと本当に市民権を得ていくんじゃないかという予感もする。
もちろん大多数の億万長者は大反対して、まさしく金の力でなんとしてもそんな方向に進ませないようにするだろうから、マジで階級闘争みたいになってくかもだが。1兆ドルなんてバカバカしい金額を一個人が持ってたってしょうがないんだよね本当に…。
『リミタリアニズム 財産上限主義の可能性』、金持ちを批判するだけでなく、私たち庶民が当然視している考え方を「本当にそうか?」と疑っていく、知的刺激に満ちた本でもある。たとえば超富裕層の存在を支える、「稼いだ金は個人の働きの成果である」という考え方自体、論理的には隙が多いと語っていく。
たとえばテスラのような自動車メーカーにしたって、一般市民の税金によって政府が構築したインフラであるとか、科学知識の蓄積や他の企業の発明といったリソースなしには何もできなかった。にもかかわらず、大いに運やタイミングによって左右される競争に「勝った」一握りの強者が莫大な富を独占し、あろうことか(マスクのTwitter買収のように)その富を使って社会に害をばらまく者もいる。そう考えると滅茶苦茶な存在だよな、億万長者…。
もっと言えば超富裕層が持っている金自体、べつに「自分で稼いだ」ものとは全く限らず、単に先祖から受け継いだだけなことも多いし、さらに問題なのはその金が「汚れた金(ダーティマネー)」かもしれないということ。つまり、奴隷貿易や植民地政策や戦争犯罪やホロコーストといった、倫理的に明らかに間違っている所業によって稼いだ金が「富」の基盤をなしているのだとすれば、その上に座す超富裕層の存在を許して良いのかという話にもつながる。
超富裕層の資産の出どころに透明性をもたらし、ダーティマネーの存在があればそれを明らかにし、せめて部分的に徴収するなりして社会に還元すべきだと本書は論じる。過激どころか、至極当然なことのように思える。
また本書では、個人への富の集中が「民主主義をむしばむ」という問題を語る章があって、たしかに億万長者が発揮する政治的な影響力は、ほかの問題に比べても特に深刻だよなと、アメリカの政治などを見ていても実感する次第だ。
政治における金は、特定の個人を優遇するとかそういうレベルを超えて、「金持ちが政治課題そのものを決定してしまう」という点が真に深刻。億万長者がメディアを買収することで議論をさらに都合よくコントロールしてしまう。
極端な富によって作り出された情報エコシステムの一例が、超保守派の億万長者コーク兄弟の化石燃料ネットワークであり、莫大な富を投じたプロパガンダ政治活動によって地球温暖化対策を大幅に遅らせた、という具体的な損害も出ている。昨年の猛暑や災害も、ある意味で億万長者がもたらしたもの、とさえ言える。
さらに、あまりに巨大な富は、私たち庶民や地球環境だけでなく、億万長者自身にすら害を及ぼすということも『リミタリアニズム』では説明される。
大金を持ってしまったことで人生がおかしくなった人は(まぁ元から悪人だったとかいくらでも言えてしまうが)やっぱいるよなとは思ってて、実際、超富裕層は心理的にもおかしなことになりやすい、と語られていて、まぁそうだよねと。ディズニーの娘さんが自ら語っていたが、どこ行っても誰に会っても金の無心されるし、そうすると同じ金持ちとしか付き合わなくなって、どんどん世界が閉じていくと。
よく考えるのだが、金とは資本主義社会における「可能性」なので、たしかにあれば嬉しいしないと困る。しかし可能性は恐ろしいものでもある。個人の手に余る大金=大きすぎる可能性は、負の方向に振れればとんでもなく邪悪で愚かなことも可能にしてしまい、誘惑に負ければあっさり人生を破滅させてしまう。億万長者がおかしくなりがちなのも、この「大きすぎる可能性」が理由のひとつだと思う。
ちょうど、尊敬するギレルモ・デル・トロ監督がこんなことを言っているのを見かけた。
Guillermo del Toro on wealth: "a wealthy man is a man who has enough, not a man that needs more. If you have enough to invite someone for a beer? You're rich. If you have a yacht, planes, islands, and you still need more? You're not rich."
— Abigail Larson (@abigaillarson.com) 2025-10-27T01:37:11.808Z
翻訳すると、「裕福な人とは、十分なお金を持っている人であり、それ以上を求める人ではありません。誰かをビールに誘えるほどお金を持っているなら、あなたは裕福です。ヨット、飛行機、島を持っていても、まだ足りないなら、あなたは裕福ではありません。」
こういうデル・トロ監督の発言とかに「金持ちだから言える綺麗事だ〜」みたいに冷笑するのは簡単なんだけど(そもそもデル・トロ監督、いつも作品づくりの資金繰りに困っているし、有名だからって金持ちなのかさえ断言はできないが…)、実際は金を持ってしまったがゆえに破滅する人も少なくないので、単なる綺麗事とも言えない。
確実に議論を呼ぶ本ではあると思うが、ぜひ議論すべきだし、より良い未来を思い描く上で重要な1冊だと思う。
億万長者の話題に関連する、読んで良かった本をもう1冊。
『テクノ封建制 デジタル空間の領主たちが私たち農奴を支配する とんでもなく醜くて、不公平な経済の話。』
ここで解説されていた「デジタル領主」の概念を知っておくと、"AI戦争"がここまで激甚化する理由や、最近のイーロン・マスクのSNSやAIに関する挙動などが(イヤな感じに)納得がいってしまう。たとえ世界一の億万長者ではあるが、あくまで本業は(今はどうなのか若干よくわからないが)自動車会社であり、この本でいうところの「デジタル領主」にはまだなれていない。だからこそ焦って必死にめちゃくちゃなことをやっているのだろうが…。
気が滅入るけど面白い本なのでオススメだし、大金持ちに世界の運営を任せていたらダメでしょ、という危機感と決意を抱くための読書案内でした。
『未来』
大金持ちや権力者の暴れ狼藉っぷりを見ると(ちなみにこの記事を書いている真っ最中にトランプがベネズエラに侵攻したヨ)、あぁもう人類に未来などないのか、と暗澹たる気分にもなろうというものだが、いやふざけるんじゃねえ、未来は私たちのものだ、この手で大金持ちのあほどもから取り戻してやるよ、とやる気が湧くような本がこんな時こそ大事だ。そんなわけでド直球なタイトルの小説『未来』を紹介する。
著者はナオミ・オルダーマン。地球の女性がスーパーパワーに目覚めたことで、社会の権力構造に大転換がもたらされ…!?という、タイムリーなフェミニズムSF小説『パワー』で有名(ドラマ化もされたね)。
そのオルダーマンの新作が『未来』となる(『パワー』に続きド直球なタイトルでちょっと面白い)。あらすじを超噛み砕くと、テック系の大企業に寡占支配された近未来を舞台にしたサスペンス。イーロン・マスクとマーク・ザッカーバーグとジェフ・ベゾスとスティーブ・ジョブズあたり(今だとサム・アルトマンあたりも?)のテック連中を悪魔合体して分割したみたいな大富豪3人が、人類滅亡の危機に直面したことで、自分たち(だけ)が生き残るための高機能システムに惹かれて…?という導入から始まる物語で、めちゃ現代(いま)を捉えまくりなのだが、予想外の方向に転がっていく。
特に終盤の切れ味は拍手してしまった。こういう人類滅亡っぽいシナリオを扱ったSF作品としては、まさにありうる、というかあるべき「未来」に正面から真摯に向き合うスタイルが新鮮に感じられる。
本作自体がネタバレ厳禁系なので、ちょっと回りくどく、関連する話を。
昨今の戦争や疫病や権威主義の勃興や環境問題の悪化などを見るに、人類もうダメ?滅びそ?という絶望に浸りたくもなるが、そういう時はちょうど100年くらい前の
・第1次世界大戦(戦死者1600万人以上)
・いわゆるスペイン風邪(志望者5000万〜1億人)
・関東大震災(日本で10万人以上死亡)
・世界恐慌(ダウ平均株価89%下落)
などに襲われていた時期の人類(終わり感がすごい)に思いを馳せるのだった。
言うまでもなくこの後WW2も起こるし、なんならキューバ危機(人類が滅亡ラインに触れた瞬間ランキングかなり上位な気がする)もあるし、てかごく最近でも新型コロナがもうちょっと悪質だったら全滅してたんじゃないかと少し思わなくもないし、地球生命への全体攻撃こと気候変動は確実に現代ならではの脅威だし、そもそも「過去の災厄を生き延びたから今後も安心」ということには決してならないが、「もう終わりだろこれ」というタイミングがかなり沢山あったのにまだ滅んでないということだけは言える。人類はしぶとい。
「人類は滅びる」的なことは、政治思想や貧富を問わず、各方面の人が口にすることだが(まぁ私も「人類滅びねーかな」と気休め的に思ったりはする)、やっぱそういうのはダメねと思ったのは、テック系とか金持ち権力者の間で「終末のファシズム(end times fascism)」と呼ばれる思考の枠組みが力を得ているというのがある。
これはナオミ・クラインらによる「終末ファシズム」解説記事↓
記事より引用
「終末のファシズムは、暗く祝祭的な宿命論であり、覇権のない生活を想像するよりも破壊を祝う方が楽だと考える人々にとっての最後の避難所である。」
『未来』でも強調されていたが、「世界の終わり」を確信・切望することって、いっけん卑屈なようで、実はめちゃマッチョで特権意識に溢れた思想でもあるんだよなということに改めて気付かされた。
自分たちが権力を失い、我々その他大勢と「平等に」生きるくらいなら、自分の死と共にこの世界もろとも滅びるか、もしくはなんらかの手段(火星のエリート都市だの意識アップロードだのなんだの)で自分たちだけが生き残るために全力を尽くす、みたいな、まぁ全能感と幼稚さをこじらせたようなあほの思想と言わざるをえないが、深刻なのはそういう人が実際に権力の中枢に食い込み、まともな手段(科学や人権尊重など)で人類の滅亡を回避しようとする人々を邪魔していること。
自分でも、そういう風潮に抗うためのポジティブな記事を書いたりもした。
終末ファシズムへの対抗策のひとつとして、先述の記事では「誰も置き去りにすることなく、これからの困難な時代を生き抜く方法についての、はるかに優れた物語」の必要性が語られていた。
「終末のファシズムのゴシック的な力を奪い、私たちの集団的生存のためにすべてを賭ける覚悟のある運動を活性化させる物語です。終末の物語ではなく、より良い時代の物語。分離と優位性の物語ではなく、相互依存と帰属の物語。逃避の物語ではなく、私たちが絡み合い縛られている、困難な地上の現実に留まり、忠実であり続ける物語です。」
オルダーマンの『未来』は、こうした考え方が念頭にある小説だったんじゃないか…とBlueskyで感想を書いていたが、なんと著者のオルダーマンさんからリプライをもらえた↓。(こういうのがブルスカをやっていて良かったところだ!)

オルダーマン氏のリプ↑の拙訳
"私の小説『未来』への素晴らしい感想をありがとうございます。「終末的ファシズム」という言葉は初めて聞きましたが、まさにその通りだと思います。「世界は燃え、全ては破滅する」という物語は、「我々こそが唯一の解決策だ」と主張する権威主義的ファシスト・テクノクラートや指導者たちに力を与えています。"
こうした著者さんのスタンスを見ても、嬉しくなる一方、(もちろん国ごとに過度に一般化するつもりもないが)彼我の差を感じてしまう部分もある。
希望にしろ絶望にしろ、「現実の世界がどうあるべきなのか」という書き手の思考という強固な地盤があってこそ、SF的な想像力も輝くわけで、個人的に(SFに限らず)フィクション全般に求めるのはこういう想像力である。科学、企業、政治、ジェンダー、環境問題etc、SFの書き手こそ社会の現実に敏感でないと、この先は取り残されてしまうんじゃないかとも思う。
この『未来』の話でいえば、
1)マイノリティ(レズビアン女性)が主人公とかはもう前提で、
2)今の社会の歪みや不平等を鋭く見据えることで物語のドライブ感に転化し、
3)もう一歩踏み込んで、ある種のディストピアで破滅的な「未来」を描くSFの淫靡さに浸るのではなく、「未来」がどうあってほしいのかのビジョンを具体的に提示する
日本だともう1の時点で説教臭いとか思想が強すぎとか言われちゃう現状なのかもだが、海外の第一線はもう全然先に行ってるということを認識する必要はある。せっかく翻訳という形で送り届けてくれているわけだし、読者のほうも海外作品に目を向ける必要性を実感するばかり。
そんなわけで『未来』、『パワー』同様、高確率で映像化もすると思うが(Netflixあたりでもう進んでそうだな…)、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』よろしく大ネタがある系の小説だし早めに読んじゃうのオススメです。
この流れで『これからの地球のつくり方 データで導く「7つの視点」』も(科学グッドニュース記事でもオススメしたが)改めてオススメ。今年ベストの1冊です。
なお原題は「Not the End of the World: How We Can Be the First Generation to Build a Sustainable Planet」=「世界の終わりじゃない:私たちが持続可能な惑星を築く最初の世代になる方法」。副題もカッコイイ。こうした建設的な文章を読むなり書くなりして、「終わり」に酔う人々に抗っていきたい。
2万字近いのでこのへんで一回終わりたいが、読んで良かった、面白かった本は実際もっと色々あり、最初は普通にBEST10にしようかと思ってたが、いいかげん長すぎてもな…と遠慮した結果である。
なので以下、ベスト7からは漏れたものの良かった本の箇条書きを、オマケ的な有料記事として書き連ねておきます。(投げ銭感覚でどうぞ)
その他、面白かった本(オマケ部分)
タイトルだけ並べると
『市民的抵抗 非暴力が社会を変える』
『酔っぱらいの歴史』
『満足できない脳: 私たちが「もっと」を求める本当の理由』
『関東大震災 虐殺の謎を解く』
『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』
『ノスタルジアは世界を滅ぼすのか: ある危険な感情の歴史』
『世界を旅して見つめたクマと人の長いかかわり』
『知性の罠 なぜインテリが愚行を犯すのか』
です