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鍛えた拳がバブルを破る。『羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来』感想&レビュー

この世で最強のエコーチェンバーとは何だろうか。
この世で最大のフィルターバブルとは何だろうか。
ツイッター(X)?スレッズ?ブルースカイ?インスタグラム?ユーチューブ?ティックトック?テレビ?ラジオ?新聞?ブログ?
違う。SNSも動画サイトも既存メディアも、しょせん二流の「反響室」と「泡」にすぎない。

最強のエコーチェンバーとは、国だ。
最大のフィルターバブルとは、国家なのだ。

インターネットの発達によって、私たちはすっかり国際人になった気分でいる。ちょっとググれば(今ならAIに聞けば?)世界中の情報が手に入るんだから、もはや情報伝達に国境など存在しないというわけだ。エンタメ作品だって、ちょっとネトフリやアマプラで検索すれば世界のどんなコンテンツにも触れられるというわけだ。

だがそれは思い上がりだ。地理的・社会的な制約は本当にバカにならない。「国」という閉鎖的な情報環境は、今もバッキバキに機能して、私達の認知や知識を制限している。他人が使ってるSNSを「エコーチェンバー(笑)」とか言ってバカにしてる場合ではない。日本という国で生まれて育って暮らす私たちは、すでに日本社会という固有の最強エコーチェンバー&最大フィルターバブルの中に閉じ込められている。バブルから出るのも破るのも簡単ではないが、少なくともその存在を自覚すべきだ。社会や政治や経済や国際情勢や環境問題といった一般的な問題についてもそうだし、文化についても同様だ。特にアニメのような、「日本スゴイ」神話がいまだにそれなりの説得力をもって幅をきかせるジャンルでは、エコーもバブルも強く大きくなりやすい。

だから実際、ほとんどの日本のアニメ好きが、『羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来』を見逃すことだろう。どう見たって桁違いにクオリティが高く、誰の目にも圧倒的にパワフルで、ジャンルの歴史を更新するような超一流の作品であっても、「海外の作品だから」「中国のアニメだから」というだけで、宣伝も露出も劇場公開数もそもそも少ないし、大部分の日本人は観ない、どころか存在を知ることもない。興行収入だって映画『鬼滅の刃』が1週間で稼ぐ金額にも及ばないかもしれない。

だが、そんなことはどうでもいい。時には作品のパワーそのものが、まるで鍛え上げた拳でコンクリートの壁をブチ破るかのように、「国」という最強最大のバブルの壁を突破して、人々の元に届くことだってあるだろう(少なくとも私には届いたのだから)。ちょっとくらいはその力を信じて、そして「面白い映画をもっとたくさんの人に見てもらえるといいな」という素直な心で、久々に長文を書き連ねてみることにしよう。

 

前置きが長くなったので結論だけ言うと、11/7から劇場公開中の映画『羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来』は嘘のように素晴らしい傑作なので、少しでもアニメが好きで、アニメの歴史と未来に関心がある人は、今すぐ公式HPにアクセスし、やっている劇場を探し、どこでもいいから、そのへんのシネコンの小さいスクリーンでもいいから、さっさと観に行ってほしい。観ればわかる。おわり

luoxiaohei-movie.com

 

いやおわりではなく、『羅小黒戦記2』の凄さを説明するためにこれから2万字ほど書くのだが、はっきり言って凄さは誰が見ても明らかだと思う。もう開始数分、なんなら数秒で「これはとんでもないアニメが始まっちまったな」と大部分のアニメファンはビリビリくるだろうし、そのビリビリは2時間続く、どころか強まり続けることになる。俗に言うビリビリ動画である(念の為に言っておくと、違う)。

絵が動くのを初めて見たという人ならともかく(いやそんな貴重な初体験をこの映画でできるなら羨ましいが)、アニメに日常的に触れていれば「マジで違うな、凄い」と思えるだろう、それくらいわかりやすく「違う」し「凄い」。なのでこんな記事は必要ないといえば必要ない。だが何が違って凄いのか、言葉にしてみるとしよう。偉大なアートの前に言葉は必要ない、なんて言わないでほしい。いつの世も、言葉は必要だ。

 

この記事は3つのパートに分かれる。

 

ネタバレ度は1→2→3と上がっていく。1はネタバレなし、2は基本もう見た人向けでネタバレあり、3は結末も含め完全ネタバレ。まぁネタバレ踏むと楽しめなくなるとかそういう次元の作品では一切ない(現時点で3回みたが3回目が一番面白かった)ので過剰に気にする必要はないが、できれば何も知らずまっさらな気持ちで観てほしいのが人情なので、一応配慮した。配慮はともかくさっさと始めたい。時間は大切だ。特に傑作が映画館でかかっている時は。

 

1)全然なにも知らない人に『羅小黒戦記』と『羅小黒戦記2』をオススメする

タイトル通り、まずは『羅小黒戦記』をオススメし、続いて公開中の『羅小黒戦記2』に話をつなげよう……と思っていた。だが、そんなまだるっこしい手順を踏んでいては、現代のアテンションエコノミー環境では遅すぎるかもしれない。現代人は金魚より集中力がない、というのはデマらしいが、集中力が魚にワンチャン負けるかもしれない不安が蔓延しているのは否めない。せっかく読んでくれた人も「なんか文字ぎっしり、だる、アリーヴェデルチ」とブラウザバックし、ティックトックしてしまうかもしれない。それでは困る。

だが…ここで思い出した。『羅小黒戦記』シリーズの面白さや凄さの本質、それを作ってる人たちの哲学や思想の核心を、考えうる中で最も完璧に表している作品があると。しかも2分半くらいで終わる。パーフェクトだ。ただし『羅小黒戦記』とは全く関係ないIPなのだが。

その動画とは、これだ↓

youtu.be

…いかがだろうか。私はマジでぶったまげて、ブログ記事まで書いた。

numagasablog.com

紹介が遅れたが、上記の動画や、『羅小黒戦記』シリーズを作っているのは中国の寒木春華(HMCH)というスタジオだ。『万聖街』というアニメも作っており、それを見た私は(主にキャラデザの素晴らしさに)ぶったまげ、ブログ記事を書いた。何度書かせるのだ。

numagasablog.com

とにかく上記の2分半のポケモン短編アニメを見てみて、「こりゃ凄い」と思ったなら、ちょっとでも心の琴線に触れたなら、絶対に『羅小黒戦記2』を観るべきだ。監督はそれぞれ違う方が務めているものの(あと当然ながらポケモンも出ないし話も雰囲気も異なるものの)、寒木春華スタジオならではのアニメ哲学のようなものが確実に共通している。『羅小黒戦記2』が、この短編の「凄さ」が2時間続くような、とてつもない作品であることは保証しよう。

 

…これにて、オススメRTAは果たしたと言えよう。少し肩の荷が降りた。とはいえまだ本題を何も語っていないので、少し落ち着いて、改めて『羅小黒戦記』シリーズの魅力を振り返ってみよう。

さっき『羅小黒戦記2』がアニメの歴史を書き換えた、と書いた。そうなんだ、じゃあその前にアニメの歴史を書き換えたのは?と思うかもしれない。答えを教えよう、『羅小黒戦記1』である。そう、前作だ。

前作は正確には『劇場版 羅小黒戦記』であり、2019年に中国で公開され(直後に字幕版が日本公開)、翌年2020年に『羅小黒戦記 ぼくが選ぶ未来』というタイトルで日本語吹替版が公開された。豪華声優起用を筆頭に、見やすくパッケージングしてくれたANIPLEXには感謝だ。

なお私の『羅小黒戦記』ファーストコンタクトはこんな感じだ↓(ちょっとインディ感のある単館上映の字幕版を観たのは良い思い出だ。6年前か…)

そして6年越しの『羅小黒戦記2』のファーストインプレッションはこんな感じだ↓

「絶対に観た方がいい」というワードが重複しており、語彙の不足を疑われそうだが、この言葉は(知るかよって感じかもだが)私にとっては重く、よほどその作品がジャンルの歴史を確実に更新するとか、ジャンル全体の基準値を大きく押し上げるとか、絶対的な事件性がない限りは言わないようにしている。そして事実、『羅小黒戦記』にはその事件性があったはずだ。そして今回の『羅小黒戦記2』にもある。一作目と二作目に連続して「絶対に観た方がいい」事件性があることは稀だが、今回はその珍しい例なのだ。『エイリアン』と『エイリアン2』みたいなものだ(違うかもしれない)

 

ちなみにその前にWebアニメシリーズの『羅小黒戦記』があり、これも面白いし今まさに日本語版が放送/配信されているのだが、少々ややこしくなるのでいったん忘れていい。日本語版もまだ序盤だからね(これからどんどん凄いことになっていくのだが)

とにかく全然何も知らない人も、まずはこの一作目の『劇場版 羅小黒戦記』を観てもらえれば『羅小黒戦記2』への準備はオールOKだ。

luoxiaohei-movie.com

時間もたった101分と見やすいし(一時期なぜか消えていたが)配信も豊富にあるので、おうちでサクッと観てしまってほしい。

もちろん承知している、好みは人それぞれだ。それでも『劇場版 羅小黒戦記』が、「凄いアニメだ」「面白い作品だ」ということに、95%くらいの人に同意してもらえるのではないか。それくらい誰にでも安心してオススメできる、広く開かれた、普遍的な凄さと面白さに満ちたアニメ映画だと思う。

性別や年齢を問わず万人に開かれ、事前知識やコンテクストも必要ない独立したオリジナルの世界観を築き、純粋なアクションによって物語を駆動して最後まで駆け抜ける、こんな理想的な娯楽大作アニメ映画は、アニメ大国を名乗る日本でさえも、近年ほとんど思いつかない。あえて近いものを選ぶなら、『ルパン三世 カリオストロの城』『天空の城ラピュタ』のような宮崎駿の初期監督作が上がってくるだろうか。こんなレジェンド級タイトルを持ち出さないといけないこと自体、凄いことだ。

この一作目『羅小黒戦記』の何がそんなに凄かったのかを詳細に書こうと思うと、記事が別個にもう1本必要になってくるので、「凄さ」をひとつだけに絞らせてもらう。

それはやはり、アクションである。『劇場版 羅小黒戦記』はとにかくアクションが凄かった。最初に日本公開された時、アニメファン(私含む)がザワめいたのは、なんといっても「絵が…めちゃめちゃ動いてる!!」ということだ。いや当たり前だろアニメなんだから、お前は絵が動くのを初めて見た人か、って感じだが、2Dアニメーションに再び出会い直したくらいのインパクトが確実にあった。

気が短くて疑り深い人はこの本国の公式アニメMV↓の2分くらいから見ると、わかりやすく凄いので凄さがわかるだろう。(けっこう良いとこ見せちゃってるので、できたらもう普通に映画を観てほしいが…)

www.youtube.com

まず、わかりやすい意味での「アクション」的な見せ場、つまりバトルシーンの作画クオリティがバッキバキに高い。序盤の無限vs妖精たちのバトルや、古書店での戦い、列車での激闘など、大自然やビル、狭い空間、公共交通機関など多彩なシチュエーションで、カメラをぐわんぐわん動かしたダイナミックな格闘が展開する。めちゃめちゃカッコいいし爽快だし、誰が見ても「アクションが凄い!」と感じるはずだ。

しかし『羅小黒戦記』の真の凄みは、アクションという概念が、いわゆる「アクション」的な見せ場だけを意味するのではない、という鉄則を、作り手が心身で深く理解していることにあるんじゃないかと思う。戦ったり高速移動している「活発な」場面だけではなく、歩いたり、浮かんだり、話したり、食べたり、キャラクターが日常的な所作しか行っていない場面さえも、なぜかダイナミックで、自由で、開放的で、縦横無尽で、目が離せない。

たとえるなら『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のジョージ・ミラー監督が体現するような、「映画とは即ち、アクションである」という思想のアニメ版…つまり「アニメとは即ち、アクションである」という思想が全編に満ちている。それは『羅小黒戦記』の制作スタジオ・寒木春華(HMCH)の全ての作品に共通する思想であり、哲学であり、コンセプトなのだと思う。だが言うは易し、行うは難し。そんな思想を本当にアニメで体現できている作り手が、この世にどれほどいるだろう。

それを可能にするのが、まるで宮崎駿のような(と言ったらさすがに言い過ぎと思われるかもしれないけど明らかに才能のタイプも質も近いだろう)、圧倒的な空間構築能力である。とにかく「空間」に対する感度がバリバリに高いのだ。まさに空間系能力である(と書いて、本作の主人公シャオヘイの能力ってアニメーション的なんだなと気付かされた)。

よもやの2回目だが、このポケモン短編を何度も見直してほしい。

youtu.be

冒頭からパートナーのポケモンとスパークリングしたり、ポケモンに乗って道路を走ったり空を飛んだりするというう「わかりやすい」アクションシーンもあるが、大部分が一般人とポケモンの穏やかで日常的な所作に占められている。それなのに、このダイナミックさ、この浮遊感、この広がりは驚くべきことだ。この動画が教えてくれる最も重要なことは、ポケモンのような「ワンダーなもの」を魅力的に描くためには、「普通の空間」や「普通の人間」という「別にワンダーではない世界」をこそ、実在感や重みをもたせ、魅力的に構築しなければいけないということだ。その周到さこそが本当の「センス・オブ・ワンダー」を生む。『羅小黒戦記』のアニメーションの真髄はそこにあると思う。

2019年は海外アニメ界隈にとって大変な年で、『羅小黒戦記』だけでなく、あの『スパイダーマン:スパイダーバース』が日本公開された年でもあった。長らく3DCGに完全に押されていたアニメ表現に、アナログ/コミック的かつ爆発的な色彩の2Dアートを巧みに織り込むことで大きな変革をもたらした『スパイダーバース』が、ここ10年のアニメ界の「西の横綱」だとすれば、「東の横綱」は何を隠そう、「アクション」の概念を2Dアニメーションの文脈に完璧に結合させた『羅小黒戦記』であると言っていいだろう。

もっと細かくその魅力を語りたいが、さっさと『2』の話に入りたいので、もう私のようなアニメ素人より、伝説的アニメーター・井上俊之さんが『羅小黒戦記』の凄さを語り倒したインタビューをぜひ聞いてほしい。

open.spotify.com

『羅小黒戦記』の傑作っぷりや強靭な制作体制を論じながら、それと比較した上で日本アニメの現状の問題点に対する、なかなか率直で「おお…」となるような批判的意見も飛び出したりするのだが、アニメ業界をずっと見てきたレジェンドならではの貴重かつ建設的な意見であり、まずは虚心坦懐に耳を傾けてほしい。

ともかく、寒木春華(HMCH)スタジオが、全盛期のスタジオジブリにすらエンタメ分野で拮抗しうる、世界屈指のアニメ制作集団であることを広く証明した、歴史的な一作。それが『劇場版 羅小黒戦記』なのだ。

 

2)『羅小黒戦記2』のアニメーションの凄さを語る

というわけで、いよいよ『2』の話に入ろう。

もうこれまでのテンションで言わずもがなではあるが、公開中の『羅小黒戦記2』について、ネタバレ抜きの結論を先に言っておこう。『羅小黒戦記2』は、前作の凄さと面白さを大幅に増幅し、作品世界を格段に押し広げ、テーマ的に必ずしも描き足りていなかった部分を改めて掘り下げるという、まさに理想的な続編となっていた。

どんな傑作でも好みの差はあると思うが、少なくともアニメーションのクオリティの圧倒的な高さに関しては、観た人のほぼ全員が同意するところだろう。中国や(日本含む)東アジアのアニメ作品という括りを超えて、世界全体を見回しても、全年齢向けのエンタメ大作かつ2Dアニメでこのレベルを実現した作品は思いつかない。紛れもなく世界最高峰のアニメーション映画であり、アニメの可能性そのものを明らかに押し広げているという意味で、「アニメの歴史に刻まれる」という決まり文句のような評価が、そのまま当てはまる傑作だ。

というわけでこの章では「アニメーションの凄さ」という点に的を絞って、『羅小黒戦記2』の魅力を語っていきたい。大きく分けて、3つのシークエンスを語るつもりだ。ここからは主に前半〜中盤のネタバレになるので、未見の人はここで引き返して『羅小黒戦記』及び『羅小黒戦記2』を観てから読んでほしい。

 

 

〜〜〜以下ネタバレ注意〜〜〜

 

 

○ファーストショットに全てが宿る

優れた映画はファーストショットで全てを語る、とよくいわれるが、『羅小黒戦記2』の冒頭の場面にもまさにそれが当てはまる。(だから遅刻してはいけない。)
ファーストショットは粉雪の舞う、なんの変哲もない草むらから始まる。よく見ると、小さなトカゲがバッタを捕食している。ごく平凡で、なんなら地味な「自然」の光景だ。
だが突如そのトカゲに「銃」という場違いな異物が突きつけられる。その銃を掲げるのは人間の兵士だ。「なんだ、トカゲか…」というように、兵士は銃をどかすが、どんな小さな動きや熱であっても感知できる、高度な技術を備えていることを暗に示す。カメラがゆっくり左に動くと、不穏なことに、草むらの中を歩いていく他の兵士たちの姿が映し出される。

その直後に繰り広げられるのは、衝撃的なバトルシーン…というより、殺戮シーンだ。

寺のような外観の妖精支援施設「会館」で牧歌的に暮らす人型の妖精たちを、現代兵器を携えた兵士たちが襲撃する。襲撃を察知した妖精たちは、自分たちの格闘術や戦術を駆使して、素早く身を守ろうとする。こうした一瞬の身のこなしからも、生き生きとした躍動感が感じ取れ、いきなり本作のアクション面の凄みをまざまざと感じ取れるのだが、それに嘆息する暇もない。圧倒的な「兵器」の暴力によって妖精たちが次々と命を落としていく容赦ない展開に、観客は絶句することになる。

アニメーションの語源は「animate=命を吹き込む」であり、『羅小黒戦記』の寒木春華スタジオの製作陣が、その「animate」技術の一流の使い手であることは先述した通りだ。シャオヘイや無限のような中心人物から、セリフのないモブキャラまで、ちょっとした所作の描き込みによって、まさに「命が吹き込まれた」ような実在感を与えられている。しかし逆に言えば、だからこそ「命が失われた」瞬間のショッキングさも際立ち、その死に戦慄させられることになる。

前に『戦火の馬』というイギリスの演劇を観た時、素晴らしいパペット技術で見事に「animate」されていた馬が、物語の中で死んでしまい、パペットマスターの手を離れ、「ただの物」になった時の無常な衝撃と悲哀に近いものを感じた。命を輝かせる技術は、命の不在も鮮烈に示すことができるのだ。

そう、今回の続編『羅小黒戦記2』では、前作では直接的に描かれなかった「死」や「殺戮」が、かなり率直な形で、正面から描かれることになる。

一瞬のアクションや描写で「こいつは段違いに強いぞ」と観客に確信させる館長のダーソン(大松)も、セリフこそないが切れ者っぷりを所作や動きで感じさせるダーソンの右腕的なキャラクターも、戦いの中であっさり命を落としてしまう。脇役やモブにも「アニメの力」で生命力を与えてきた製作陣が、自らの得意を逆手に取って、観るものの横っ面を張ってみせる、いきなり強烈なアクション見せ場となっていた。

この冒頭のバトルでは血は一滴も流れないので(妖精はたぶん流血しないという設定や、中国ならではの規制やレーティングといった事情もあるだろうが)、露骨にバイオレンスを描いた平均的な実写/アニメ作品よりも、見た目のインパクトは本来「弱い」はずだ。にもかかわらず『羅小黒戦記2』の冒頭アクションが、血がブシャーと飛び散るバイオレンスでキャッチーな作品よりも格段に、ショッキングだったのは驚くべきことだ。

ここで、先述のファーストショットに戻ってみよう。冒頭の時点で、この『羅小黒戦記2』でどんな話を描くつもりなのか、端的に表現されている。それは自然(妖精)vs人間の対立だ。その点では前作と同じなのだが、今回はとりわけ自然サイドから見た人間たちの暴力性・加害性にも切り込むということを、最初に改めて提示している。
前作『羅小黒戦記』では、フーシー(風息)という中心人物のあり方に、「自然vs人間」の対立構造が象徴されていたが、とはいえ「人間→自然」への暴力性・加害性は(冒頭の森林破壊とフーシーの回想を除けば)具体的に描かれることはなかった。

もちろん環境破壊や動植物といった生命への抑圧は、現実に存在する身近な問題なので、アニメ内で描かれずとも人間の暴力性は自明ではあるし、フーシーにしても単純な悪役としては決して描かれていない(現に中国本国では映画の公開後、フーシーを悼む有志ファンの植林キャンペーンが盛んになったそうだし)。とはいえ「自然(妖精)と人間との対立・共存」という、『もののけ姫』にも通じる複雑で重厚なテーマを踏まえれば、前作で人間側がほぼ透明化されていた点は、やや食い足りない面も否めなかった。

だからこそ、本作の不穏なファーストショット、からの現代兵器の身も蓋も無い暴力性を描いた冒頭のバトルに、「前回は描ききれなかった部分に踏み込むぞ」という作り手の気概を感じるようだった。ここで描かれた人間側の暴力がもたらした惨禍は、最重要キャラ・ルーイエ(鹿野)の過去を筆頭に、『羅小黒戦記2』の物語全体に暗い通奏低音として響き続ける。

さらに、『羅小黒戦記2』のファーストショットでもうひとつ注目すべきは、トカゲがバッタを捕食するという、自然界にそもそも必然的に存在する「暴力」(と呼ぶのか適切かはともかく)にもクローズアップしていることだ。これは、自然(妖精サイド)も決して純粋無垢なだけの存在ではなく、その内側に様々な事情や複雑な関係性を抱えていることを象徴しているようであり、そのこともまた、本作の中で語られることになる。

そもそも妖精が「自然」を象徴する存在として描かれている以上、そこに複雑さや過激さが内在することは当然でもある。また人間の関与によって、自然がその姿を恐ろしくも変えてしまうことも自明だ。現実にも、穏やかだった自然環境が人間活動による気候変動で激化し、大勢の死者を出してしまう…といった構図も紛れもなく存在する(それこそ日本で紛糾中のクマ問題を例に出しても良い)。トカゲに銃をつきつける人間の偏執狂的な姿は、自然に無闇に介入せずにいられない人の愚かさの象徴でもある。

さらに言えば、トカゲとバッタの間に存在するミクロな「暴力」に、場違いにも思える銃という「暴力」を突きつけた人間もまた、マクロ的な意味では「自然」の深遠な循環の中に回収されうる儚い存在にすぎない、といった哲学的な(中国思想的なというべきか)ニュアンスも、映画を観た後では感じずにいられない。本作の射程の広さをいきなり提示する、見事な冒頭シークエンスだった。

 

○ルーイエ登場!凸凹ノワール探偵パート

この衝撃的な冒頭のバトルをはじめ、後述する中盤の大アクションからラストバトルまで、本作『羅小黒戦記2』は、とてつもないクオリティと分量の「アクション」に溢れかえっている。だからこそ逆にあえて、最もアクション的では「ない」パートの凄さを少し語ってみたい。それは、ルーイエとシャオヘイが師匠・無限を陥れた犯人を探すため、人間界をウロウロするという一連のシーンである。個人的に、どんなアクションやバトルよりも「ヤバい」と感じたのはここだった。

流れを簡単に説明すると、無限とともに妖精たちの本拠地を訪れたシャオヘイが、かつて無限に師事していた「姉弟子」であるルーイエと出会い、ともに会館(妖精のための支援施設)へ向かう。しかし無限は、冒頭の妖精惨殺事件の犯人ではないか?という濡れ衣を着せられてしまい、身柄を一時的に拘束されることになった。無限のためにも、弟子のシャオヘイとルーイエだけで真相を探り出そう!というあらすじである。

この2人が謎解きミッションの旅を通じて、反発しつつも心を通わせていく様子が、前半の主な見どころとなるのだが、その過程を動きや絵によって表現する過程が、まさにアニメーションの真髄と呼ぶべき力に満ちているので、刮目してほしい。

まずは誰にでもわかりやすい魅力として、とにかく美術が素晴らしい。会館同士を繋ぐ瞬間移動装置「転送門」を駆使して、中国(たぶん)各地の会館をテンポよく巡っていくのだが、それぞれ個性あふれる建築や自然の様子が本当に目に楽しく、一種の観光ムービーのような趣きもある。これほどハイクオリティな絵をバンバン(いわば)使い捨てていく大胆さと贅沢さも相まって、こんな映画があっていいのか、2千円とかで見せて大丈夫なものなのかこれは…と、ひたすら圧倒されてしまった。

一方で、「美術が素晴らしい作品」というだけなら、必ずしも珍しくはないはずだ。やはり本作の凄みはアニメーションにあり、それが美術の素晴らしさを増幅させているのだと感じる。単に美しい絵の書き割りが置いてあるだけではなく、メインキャラ、モブキャラを問わず、その世界で生きる人々のささやかな所作や、細かな身体性の表現を駆使することで、まるで本当にその巨大で多彩な世界が存在し、そこでの時間を一瞬だけ切り取って見せてくれているような、幸せな錯覚をもたらす。

さりげなくも印象深かったキャラクターの身体性の表現を、2つだけ紹介したい。凸凹弟子コンビの行動が始まって、まず目についたのは「歩幅」の違いだ。

無限と別れて蒼南会館を後にした2人は、文字通り「歩調」すら揃わない。身体能力の極めて高いルーイエの歩みに、お子様ゆえ歩幅の狭いシャオヘイがついていけず、じわじわ引き離され、またちょっと早歩きになってついていこうとする(ルーイエもシャオヘイに歩調を合わせてやるわけでもない)という、非常に細かいアクションを、決してわざとらしくなく、丁寧にもほどがあるアニメーションで表現している。

移動スピードの違いによって2人の実力差、精神的な距離を描く表現は、それ以降も繰り返される。2人が本当の意味で「並び」「同じ方向を見る」瞬間は、激闘を終えた最後の最後まで待つことになるが、そこで交わされるシンプルだが胸に刺さるやりとりと合わせて、じっくり噛み締めたいところだ。

そしてもう一つ、襲撃された流石会館を2人が訪れ、帰りに再び転送門に足を踏み入れる時、シャオヘイが、体を少し動かして「よいしょ」というような動きをする。足元は映っていないので見えないのだが、カットが切り替わることで、入り口には敷居の木があり、今の動きはシャオヘイがそれを跨いでいたのね、とわかる。
この「またぐ」動きを省略したところで、誰も「敷居の木があるはずなのに、おかしい!」などと言わないはずだ。しかし本作のアニメーションの哲学に則れば、たとえ画面からは見えなくてもそこに敷居が「ある」以上、シャオヘイの体躯は小さいので、またぐ動きは必要となる。こうした小さい描写の積み重ねが、このフィクショナルな世界が「存在」することの説得力を生む。まことに地味だが、本作のアニメーションがなぜ凄いのかを説明するような、立派な「アクション」だったと思う。

 

○ぶっとんだ激闘!航空機アクション

そんな具合に、いわゆるアクションではない場面にさえ「アクション」が溢れている本作の、アクション的な見どころをあげていたらそれだけで日が暮れてしまうので、あと一つだけに厳選したいが、観た人の誰もが認める本作最強のアクションシーンといえば、やはり中盤の航空機アクションだろう。

「公共交通機関」を舞台にしたアクションという意味では、前作のリフレインと言えなくもない。前作『羅小黒戦記』の同じく中盤で繰り広げられた、都市の地下鉄のなか(と上)で展開する、2Dアニメーションの快楽に満ち溢れた激闘は、今や語り種となっている。

シャオヘイが地下鉄に乗り合わせた乗客を助け、1人の子どもと少しだけ心を通わせたことが、人間に対する感情の転換点となるという点では、物語のターニングポイントになるアクションシーンでもあった。

そして今回『羅小黒戦記』の航空機アクションは、前作の鉄道アクションを遥かに上回るスケールで、大空が舞台のバトルが展開する。乗客を満載したジャンボジェットが、異能を持つ「敵」たちに襲われて墜落し、迎え撃ったうえで乗客全員をなんとか救助しなければいけないという、手に汗握る圧巻のシークエンスだ。

異常事態が起こる直前、飛行機の窓の外に広がる「雲海」に、まるでクジラのような巨大な怪物が浮かび上がる絵面には、まるで空飛ぶ『ジョーズ』のようなセンス・オブ・ワンダーを感じる。「骨の龍」という面白い造形のクリーチャーが主軸となった天空バトルには、一種の怪獣映画のような迫力と緊張感、ワクワク感がある。

前作の地下鉄アクションでは、敵の妖精が能力を使う様子に驚いた車内の乗客たちが、驚きをあらわにしながらそれぞれ全く違うリアクションで逃げ惑う様など、現実の人々のリアリティ豊かな反応によって、劇中で起きている異常な事態が強調されていた。

今回は、さらにそれを上回る。なんといっても、乗客の数が桁違いだし、舞台も上空という未知の領域だ。作画監督・大爽氏もこのシーンの大変さについてこう語っている。

「たくさんの酸素マスクが、それぞれの角度でみんな揺れているんですよ。旅客機が落ちて、乗客が勢いで手を上げたり、大きく揺さぶられるところも大変でした。アニメーションの難しさが詰まったシーンでした。」

(パンフレット収録のインタビューより)

でしょうね!!!と肯首するほかない。いくら天才アニメーター集団の寒木春華スタジオとはいえ、さすがにちょっと心配になるほどの密度とリアリティ、そしてアイディアが詰め込まれた、圧巻のアクションシーンだ。数ある航空パニック映画の中でもトップクラスの出来栄えを誇るシークエンスではないだろうか。(飛行機の中で観るのはやめておこう。)

高速で墜落しつつある航空機から、乗客を全員助け出すという無理難題に挑むルーイエとシャオヘイたち。その解決策はド派手で突き抜けた、なんなら若干のバカっぽさすら漂う、大胆な力技となるのだが、それでも説得力とリアリティを感じさせるのは、制作陣の地道な努力の賜物である。

インタビューによると、監督の顧傑氏がアクション全体の流れを設計しつつも、スタジオの誰も航空機の知識がなかったので、航空アドバイザーを呼んで専門的な助言をもらい、航空的におかしなところがあれば指摘してもらったという。制作陣の哲学としては当然のことだろうとは思うが、これほど荒唐無稽でぶっとんだアクションの中でも、地に足のついたリアルさを追求しようという姿勢には素直に敬服する。

象徴的なのは、飛行機が落下していく緊急事態の中で、乗客の子どもが「トイレに行きたい!」と叫ぶ件だ。状況が明らかにそれどころではないので笑えるが、無性に「あ〜、子どもってこうかもな!」と思えるし、意外と本当の災害現場でも(子どもに限らず)こういう「それどころじゃないだろ」な感じの言葉が飛び交っているかもしれないな、と思うと微笑ましいような怖いような感情も覚えて、とにかく不思議なリアリティがあった。

2人の監督はそれぞれ、

木頭(MTJJ)監督「想像しただけで面白くて、エキサイティングなシーンになりそうじゃないですか。であれば、創作の難易度を理由に、それをやらないという選択はありませんよね。面白そうだと思ったら、作りたくなるじゃないですか。」

顧傑「今回は、第1作がクオリティの最低ラインでしたが、次回を作るときは本作が、最低ラインになります。楽しみに待っていてください。」

などと、アニメを極めし達人、というかもうマッドアニメンティストみたいなことを言っているが、戦慄しつつも楽しみに待ちたいものだ…。

先述したように、一作目では地下鉄バトルが物語の折り返し地点になったが、本作の航空機バトルはさらに重大な転換点となる。人命救助のためにヒロイックな活躍を見せたルーイエと、シャオヘイの間に存在する、微妙だが決定的な差異が明るみに出ることで、2人は対立することになるのだった。ルーイエの変遷こそが、本作の中心となる。

 

3)『羅小黒戦記2』最高のキャラクター・鹿野(ルーイエ)を語る

ようやく最後のパートに辿り着いた。本作の鍵を握る人物・ルーイエがいかに素晴らしいキャラクターか、ということを語り、この記事を終えたい。すでにネタバレしまくってるので今更だが、ここからは『羅小黒戦記2』の結末も含めた完全ネタバレとなるので注意してほしい。

 

〜〜〜以下、完全ネタバレ注意〜〜〜

 

ルーイエがなぜ素晴らしいキャラなのか。それは……かっこいいからだ。まじでかっこいい。最高にかっこいいので好きだ。

「いや浅すぎるだろ」と思うかもしれない。だが孔子曰く、「すべての海は浅瀬から始まる」。いや孔子はそんなこと一切言ってない、ないのだが、まずは可能な限り浅いところから出発することも時には大切だ。シャオヘイと無限の旅が浅瀬から始まったように。

そう、ルーイエはかっこいい。派手な演出とかもなくスッと立っているだけの登場シーンからいきなりかっこいい。会話シーンでもほとんど喋らず(全セリフ合わせても3ツイート分くらいしかないのではないか)、チーネンのような敵対的な長老が相手でも怯むことなく、端的で短いセリフでスッと相手の心を刺す。そういう基本的な佇まいと振る舞いがかっこいい。

パンフレットの設定イラスト↑にすら「かっこいいお姉さん」と書いてある。「髪をおろした姿も素敵……」とも言われている。他のキャラにはこうした「お前の感想だろ」という主観的なコメントは特にないのだが、地の文さえ魅了するほどルーイエはかっこよすぎるのだろう。

パンフ文にもあるように、ルーイエの服装もキャラのかっこよさ描写の重要な部分で、革ジャンとダボっとしたパンツをほどよく着崩したメイン服を筆頭に、おしゃれでありながら、飛んだり跳ねたりするアクションに耐えうる現実的な格好でもあってかっこいい。シャオヘイと一緒に高級ホテルに宿泊する楽しいシーンのゆったりした部屋着すらかっこいい。まさにビジュ爆発といえよう(←意味はよくわかっていないが、たぶん合ってる。)

ちなみにだが、ホテル宿泊後にシャオヘイの服装が変わっていて、無限が選んだのであろう適当な子ども服から、ちょい大人っぽいゆったりカジュアル着こなしオシャレ少年という感じの風貌になるが、状況的にこの服はルーイエが買ってくれたのだと思われる。言われてみれば結構ルーイエの着こなし(ジャンパー+ダボパン)を踏襲している気もする。その辺の店でシャオヘイに似合う服を物色するルーイエの姿を想像すると微笑ましい。

見た目だけではなく、強さの表現も秀逸だ。必ずしも「最強」ではないところも逆にかっこいい。無限の弟子である以上、いうまでもなく無限よりは弱いはずで(長老や他の一級執行人と同等or以下くらい?)、作中ぶっちぎり最強格というレベルではないはずだが、だからこそ比較的リアリティのある「プロフェッショナル」としての描写の数々に痺れる。それでいて「霊の追跡」というニッチながら重要な特定分野では自ら「最強」を名乗る、という自信の現れもかっこいい。

『羅小黒戦記』シリーズのバトルの魅力として、実際に「超能力」を持っている人が現実世界で戦おうとしたらこうなるだろうな、というリアリズムが挙げられる。能力によっては炎や氷など派手なエフェクトは出るが、技名を叫んだりは当然しないし、隙の多い大仰なポーズも取らない。最短距離、最小費用でその場の最大効果を目指す、まさにコスパ最適解アクションの魅力に満ちているからこそ『羅小黒戦記』のバトルは見ていて気持ちいい。ルーイエのアクションはその新たな最上級だろう。先述した圧巻の航空機アクションでの、上へ下への大移動はもちろん、これまた圧巻のラストバトルで特殊能力を封じられた状況下での、鍛え上げた肉体技を駆使した激闘も目を見張る。

そんなひたすらクールでかっこいいルーイエは、(師匠の無限と同じく)表情を変えることはほとんどないが、本作で一回だけ、とびきり眩しい笑顔を見せてくれる瞬間がある。それは…ニセ無限がシャオヘイにボコボコにされる姿をスマホ撮影するシーンだ。よりによってこんなシチュエーションでそんな良い笑顔を…!?というのが笑えるのだが、人間なのに最強な師匠・無限に抱く複雑な感情の現れでもあるし、それを同じ妖精であるシャオヘイと分かち合う瞬間という意味では、弟子2人が打ち解ける過程を描く上で意外に物語上でも大事なシーンと言える。

ルーイエの魅力を語る上で、これも言っておかなければいけないが、『羅小黒戦記』シリーズの方針としてはもはや当然とはいえ、女性キャラに対して過剰に性的な表現とか、消費っぽい視線をほぼ全く感じさせない、というのも(ぶっちゃけ日本アニメではいまだにありがちなだけに)それだけで相当フレッシュに感じてしまう。

もちろん中国には中国社会ならではの事情や制約(性関連の表現規制など)があるし、『羅小黒戦記』の女性キャラ描写のフェアさにしても、いわゆる"西欧的な"(という言い方も不適当とは思うが)フェミニズムやポリティカル・コレクトネスの潮流とは、また別の文脈から醸成されたものなのだろうとは思う。だが根本的には、ルーイエのような秀逸なキャラクターも、優れたクリエイターの「人を人として描く」という哲学の結晶であるように感じる。

たとえば今年のアメリカ映画でいえば『ウィキッド ふたりの魔女』のエルファバと、本作『羅小黒戦記2』のルーイエはどちらも素晴らしく奥深いキャラクターであり、現代の国際水準のポリティカル・コレクトネス的な価値観に照らし合わせても違和感なく、性差別的な視線も感じさせない、フェアな造形の女性キャラでもある。注目すべきは、それぞれの国(この場合はアメリカ/中国)のクリエイターが辿ってきた道筋は全く異なるということだ。政治体制や規制など外的要因はもちろん、文化の歴史や摂取してきたコンテンツなどの個人的体験も全く違うはずである。それでも収斂進化に似た形で、同時代に同じくらい優れた造形のキャラや作品を生み出しているという点に感銘を受けるし、希望を感じもした。当然だが、優れた創作に至る道はひとつではないのだ。

さて、ルーイエはかっこいい、ということを散々語ってきた(20回くらい「かっこいい」という言葉を使った気がする)。その上で、ルーイエというキャラクターの秀逸なところは、「現代的でかっこいい女性キャラ」というだけの存在にとどまらず、彼女を痛みや脆さも抱えた等身大の人間(妖精だけど)としても描き切っていることだ。

ルーイエの人間性を最もよく浮かび上がらせるのは、「戦争」が投げかける闇の濃さである。ここであえて言い切ってしまいたいが、『羅小黒戦記2』は戦争の悲惨さを描いた映画であり、反戦映画である。

一言で言えば本作は、戦争によって無惨に失われた子ども時代に囚われていたルーイエが、シャオヘイとの旅路を通じて、自分の中の「子ども」と向き合い、解放し、子ども時代に別れを告げる物語でもある。それをセリフに頼らず、純粋にアニメーションとストーリーテリングの力だけで完璧に表現していることが何より素晴らしい。

前のパートで語ったように、「移動」の変化によって、2人(ルーイエとシャオヘイ)の関係性の移り変わりを表現する手腕は見事だ。2人は出会った直後は全く歩調が揃わず、少しずつ打ち解けていくものの、ルーイエの移動スピードにシャオヘイは追いつけない。車や飛行機といった乗り物でこそ並んで座るが、同じ方向に移動しているだけであって、必ずしも互いに理解し合えているわけではない。そして航空機バトルを経て、ついに2人の決定的な考え方の違いが明らかになり、ルーイエとシャオヘイの道は分かたれてしまう。
しかしその衝突を経て、シャオヘイはルーイエの過去を知ることになる。

『羅小黒戦記』シリーズが個人的に好きな点は、静かなところだ。基本的に感情表現が淡々としており、過剰なエモや説明セリフに頼ることなく、あくまで脚本のロジックや細かなアニメーションによって、人々の内面を描こうとする。「よほどのこと」がない限りキャラクターに感情を爆発させたりはしないし、そもそもキャラクターが叫ぶこと自体がかなり珍しい。(その意味で、日本でメガヒットした『鬼滅の刃』のアニメ版とは本当にびっくりするほど対照的だ!)

『羅小黒戦記2』においてもそのドライな方針は貫かれるのだが、ただ一つ、キャラクターが声の限り叫ぶ場面がある。それが、この過去の回想シーンで、戦争によって大切な人々を全て失ったルーイエの慟哭だ。基本的にエモの昂りを抑える作りであるからこそ、この場面のルーイエの悲痛な感情の爆発は、否応なく観客の耳に残り続ける。

この悲劇を止めるため、この叫びを繰り返さないために、ルーイエは、シャオヘイは、そして無限は、やり方こそ全く異なるものの、自分にできることをやろうとする。根本的にはそれが『羅小黒戦記2』のテーマだ。戦争に踏みにじられたルーイエの慟哭と、そこから始まる彼女の歩みを通じて、「戦争を起こさないため」の苦闘を描く物語である以上、(こういう括りを好まない人もいるのかもしれないが)まさに字義通りの「反戦映画」ではないだろうか。

 

だが同時にここで、ルーイエというキャラクターの複雑な側面が立ち現れてくる。彼女の輪郭を浮かび上がらせる陰影は、まさに前作『羅小黒戦記』の中心人物、フーシー(風息)が担っていたのと同じものだ。人間の戦争のせいで大切な人々を失ったルーイエは、「戦争を止める」という大義のためであれば、必ずしも人間の命の安全を保証しない…どころか、あえてリスクに晒すことも厭わない。ただしその場合も(飛行機シークエンスのように)「死なせない」ために全力は尽くすので、何も人間を「犠牲にしよう」としているわけではないため、「悪」というよりは一種の合理主義者としても描かれている。

しかしシャオヘイは、たとえ大義のためでも、人命を危険に晒すようなルーイエの行動を許せなかった。たしかに救助は成功したとはいえギリギリだったし、一歩間違えれば乗客は全滅していたかもしれない。人間に故郷を破壊されたのに、ここでしっかり怒れるシャオヘイの心根の真っ直ぐさをむしろ眩しく感じてしまうが、その怒りには前作でまさに自分を「犠牲」にして大義を実現しようとしたフーシーに対する、やるせない思いも混ざっていたのだろう。

シャオヘイの意見も単に「子どものお花畑な綺麗事」ではなく、しっかりした説得力を持つのは、本作が飛行機のモブ乗客のような一般人の描写にも気合いを入れてきたからこそだ(改めて「トイレ行きたい!」は秀逸なセリフだ、あの愛すべき子の命を危険に晒したと考えれば、確かにルーイエの行動は許し難く思えてくるのだから)。安易に答えを出せるはずもない問題の前で観客も宙吊りになる中、結局は分かり合えないのかと失望したのか、ルーイエはシャオヘイの元を去り、ひとり「戦争を止めるため」の戦いに出向く。

そして始まる戦いの最中、黒幕がその姿を現したことで、ルーイエ自身もまた、「必要な犠牲」という言葉の欺瞞を改めて突きつけられ、激昂することとなる。ここが本作の微妙にして複雑なところで、正義vs悪の激突というよりは、見方によっては、「似たもの同士」の闘いなのだ。いわば、"正しさ"寄りのグレーゾーン(平和のためには人間が死ぬリスクも許容しうる)vs"悪"寄りのグレーゾーン(あえて特定の誰かを犠牲にすることで世界の均衡を保つ)の対決なのだから。しかしだからこそ、「犠牲」「無駄死に」と軽々しく口にする黒幕に対して、爆発するルーイエの怒りには、悪を許さぬ義憤という以上に、より入り組んだ複雑なニュアンスを感じさせる。

客観的には「似たもの同士」だからこそ、「犠牲」にまつわる線引きの違いが微妙だからこそ、決して許せないラインもあるのだろう。ルーイエの怒りの一部は、シャオヘイほどには純粋にも高潔にもなれず、「必要な犠牲」を許容してきた自分自身に向けられたものでもあったのかもしれない。

怒りをエネルギーに変え、1vs多の闘いを続けるルーイエは徐々に追い込まれていくが、そこにシャオヘイが駆けつける。ルーイエの悲痛な過去を知ったシャオヘイは、自分と彼女の境遇を重ね合わせ、たとえ完全な相互理解が難しくとも、彼女を助けようと走ってきた、いや翔んできたのだ。

激しい戦いの果てに、最後はお互いへの信頼と連携によって強敵を打ち破る。戦闘後に交わされた会話から、2人が(肉体的のみならず精神的にも)「歩く」方向やスピードには依然として大きな違いがあるとわかる。人間と戦争になったらどっちの味方をするんだ、という問いに対してシャオヘイは「僕は正しいほうにつく」と返すが、ルーイエは「私は妖精につく」とあくまで言い切る。二人の歩んできた道のりの違いが生むこの断絶は、決して埋められることはないのかもしれない。それでも、互いを助け合い、悲惨な戦争を止めるために全力を尽くした2人はいっしょに寝転び、まだ見ぬ未来のごとく無限に広がる空を眺めるのだった。

映画は終わりを迎えつつあるが、最後に、ひとつの長い回想シーンが始まる。それは、戦争ですべてを失ったルーイエが、その後どのような日々を過ごすことになったか、をセリフ無しで描いたアニメーションだ。絶望の底に沈み、誰も信じることができなくなり、愛する人々を救えず生き延びた自分自身すらも許せなかったのかもしれないルーイエは、自暴自棄になっていた。世界の残酷さ、人間の傲慢さ、そして自分の弱さへの怒りを胸に秘め、憎んでいた人間である無限を訪れ、彼の近くで(食べ物を盗んだりしつつ)生活を続けるうちに、いつしか2人は師匠・弟子のような関係になっていく。

最初のうち、ルーイエは怒りを暴力として発散するだけだったが、無限の指導のもとで、次第にその激情を、秩序だった「力」に変える方法も学んでいく。館の仕事にも励んで実力を高めて、仲間にも一目おかれる存在になっていったようだ。しかし強者として自らを高めていく彼女の姿からは、自分の弱さや感情を押し殺しながら突き進む、頑なな感情もまた色濃く感じ取れるのだった。

この回想シーンは、映画の冒頭の、シャオヘイと無限の修行や日常のシーンに綺麗に呼応している。シャオヘイだけではなく、ルーイエもまた本作の主人公であり、彼女には彼女の物語があったことを、改めて観客に提示してみせる。 「強くなるための努力」という、アクション映画や少年漫画における王道の「修行パート」をモンタージュ形式で語ることで、強くなる過程がもつ、前向きで爽やかな健全さを示すのは、シャオヘイにもルーイエにも共通する要素だ。

うまいのは、シャオヘイとルーイエの経験の共通点(修行、食べ物、娯楽…)を重ね合わせると同時に、2人の違いを対比してもいることだ。無限と一緒に楽しげな日々を送るシャオヘイとは違い、孤高の強者となっていくルーイエの日常には、どこか虚しさと寂寥感が漂っている。(シャオヘイとの交流を予感させる、孫悟空に似た子どもとのふれあいも一瞬描かれるとはいえ。※11/17追記:この子どもは流石会館の調査の時に少し出番のあったルーイエの弟子の幼少時のようです。)それによって「強さ」そのものだけでは、人の心に空いた穴が満たされることはない、と暗に示しているようだ。実際、シャオヘイに出会うまでのルーイエは、どこか心に虚無感を抱えていたのだと思う。

しかし、本作『羅小黒戦記2』を通じて、ルーイエの心にささやかな変化が起きる。それが立ち現れるのが、ラストシーンだ。

回想シーンが終わって時系列が現在となり、蒼南の街をルーイエとシャオヘイ、そして無限が3人で歩いている。序盤に同じ場所で描かれた「先を歩くルーイエに追いつこうとするシャオヘイ」という立ち位置が変化・逆転し、「無限と並び歩くシャオヘイを、後ろから見守って歩くルーイエ」という構図になっている。※11/17追記:自分では未確認ですが、アイスを買う場面の時系列が、実はルーイエが無限&シャオヘイと会う直前の回想だった、という見方もあるようです。仮にその場合も、戦闘後に改めてこのシーンを思い出したという意味で、ルーイエの心の変遷を示す場面だと思いますが。

ルーイエが微笑ましく眺めていた、アイスをねだる無邪気なシャオヘイの姿が、突然、ある子どもの姿に変わる。その子どもとは、幼き日のルーイエ自身だった。かつての自分…というより、こうあったかもしれない、こうあってほしかった、幼く幸福な自分の姿を、ルーイエはシャオヘイの中に見たのだ。
もちろん、そんな幸せな子ども時代はもう戻らないし、そもそも存在したわけでもないのかもしれない。戦争のせいで残酷にも失われた、大切な人たちが帰ってくることも決してない。憎しみや葛藤が彼女の中から完全に消えることもなさそうだ。それぞれ事情や立ち位置の異なる無限やシャオヘイと、本当の意味で「歩調」が揃うこともないのだろう。
それでも、シャオヘイが無限との旅や鍛錬を通じて変化したように、今度はルーイエがシャオヘイとの旅を通じて、境遇や考え方が違うシャオヘイと心を通わせた。前を歩くシャオヘイの姿に、ルーイエは自分自身を重ね合わせ、その幸せな未来を願うことができた。それはルーイエが自分の中の「子ども」を解放できた瞬間であり、彼女がずっと囚われていた「子ども時代」に、別れを告げた瞬間でもあったのだ。

 

『羅小黒戦記2』はこうして終わる。…と思いきや、エンドロールの後に、ひとつだけささやかな映像が流れる。そこには誰の姿も映っていない。無限とシャオヘイが暮らす家から、屋外の自然や空がのぞくだけの光景だ。※11/17追記:背景にはルーイエが建てた家も映っていたようです。ただ、「はっ!ふっ!」というような、修行中と思しきシャオヘイの声が響くのだった。大事件は終わっても、そしていつか次なる大事件が起こるとしても、日常は、そして修行は続いていくのだ。

先ほど書いたような、「修行」…つまり「強くなる」ための努力や鍛錬が本来的にもっている、明るく前向きで健康的な側面に、改めて光を当てて映画を締めくくったように感じた。

突然、記事の最初に戻ってみるが、私達は国というエコーチェンバーの中にいる。国家というフィルターバブルの中に閉じ込められている。気持ちよくてバズりやすい「日本スゴイ」バブルの膨らみは、現実の世界が今どうなっているのか、今いるこの社会にどんな問題があるのかという実態から私達の目をそらす。自国を誇るだけならまだいいが、他国への見下しや敵意を煽り、外国人や少数者への憎悪を煽り、自分の金や権力に変えようとする不届きな輩も後を絶たない。国というバブルは、世界各地で「役に立つ」のだ。

それでも、アニメは、映画は、アートは、時としてそんな強固なバブルを打ち破ることができる。良い作品とは、地理や社会や政治の制約によって分断された私達を結びつけることができる、奇跡なのだ。奇跡を生み出すためには、才能と運だけではなく、日々のたゆまぬ鍛錬と努力が、そう、「修行」が大切だ。

『羅小黒戦記2』の静かなラストからは、苦境の中でも決して未来を諦めないシャオヘイたちの精神を感じさせるとともに、これからも凄いものを、もっと凄いものを作り続けるからね、という作り手たちの決意表明も感じた。これを見ているあなたたちも一緒にがんばろう、というメッセージだって読み取れる。

そのメッセージに、再びバブルを超えることを祈って、こんなお返事を返すとしよう。「奇跡を届けてくれてありがとう。シャオヘイみたいにがんばるよ。」

 

ーーーおわりーーー

 

 

 

もう2万字も書いたので本記事は終わりですが、「細かすぎて伝わらない『羅小黒戦記2』の好きなところ」みたいな感じでつらつらと箇条書きで雑感を書いたので、べつに読まなくてもいい有料パートとして公開します。Blueskyなど他SNSで書いたことの寄せ集め+アルファって感じなので、投げ銭感覚で。2万字も書いておきながら無限や他の重要キャラクターについては全然言及できなかったのでちょっぴり補足。

 

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