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無理解以上。

自分以外のひとが書いた文章を読ませてもらって、「そうそう、ほんまにそのとおり」を超えて「自分がもやもやしていたことの正体はこれだったのか!!」と心に波しぶきが立つような体験を、このブログの世界で何度もさせてもらっている。

 

最近も、度々。

 

「この文章は、どんな場所で、どんなスピード感で書かれたものなんだろうか」と想像しながら読む。溢れ出すような思いを、その熱量のままどんどんと書き進むのか、じっと静かに自分に向き合って、ぽつぽつと、少しずつ書き重ねていくのか、どうであっても、書かれた文章によってわたしの心を突き動かしてくれるひとが、この世界に、しかも日本語を介するという限定した環境のなかに、居てくれることに、すごく勇気づけられる。

 

いま、というか、ここ数か月、いや、もっと前からだな、モヤモヤとして、納得がいかなくて、関係するひとの誰と話してもすっきりしなくて、むしろ話せば話すほど、どうしようもない溝みたいなものを感じてしまうことがある。

 

それは、「家事労働」と「ケア」。

そこに、「カネ」を重ねて考えてしまうことへの自己嫌悪や罪悪感と開き直りの堂々巡りが、最近のわたしをじわじわと疲れさせる。

 

とりとめなく、思っていることを、とにかく書いてみる。読みにくくなることは、なにとぞご容赦くださいませ。イメージするなら、のんちがぽつぽつ独り言なのか、聴いてほしいのか、よぅわからん感じで話しているものが文字起こしされている、みたいに受け取っていただけたら。

 

介護保険の運用のされ方については、現場にいる者の端くれとして腹立たしさと行き詰まりを感じているのはもちろんそうなのだけれど、でも、介護保険制度によって、「介護にはカネがかかる」というのがハッキリと世の中に可視化されたことは、ものすごい大事件だったと思う。ここに到達するまでに、一体どれだけの人たち(とりわけ漢字の一部に「女」がつく「嫁」「娘」「妻」たち)が歯ぎしりしてきたことだろうか。もちろん、制度ができてから久しいけれど、「カネ」が発生する状況になっても、相変わらずその担い手の多くが「女」たちであることは、見ての通り。

 

いまのところ、わたしは、明確な「身体介護」を仕事以外の場で提供する状況にはない。でも、たとえば「仕事の日は毎朝おかんの家で朝ごはんを一緒に食べる」、「おかんができない用事を代わりにやる」、「病院受診や美容室、買い物、など歩いて行けない場所への送迎をする」、それと、これが一番実はキツいと感じているけど、「今後の暮らしも含めて、おかんの不安や諸々の感情について、傾聴する」・・・といったことに割く時間と気持ちは結構なボリュームをもってわたしの日々の暮らしを圧迫している。もちろん、育ててもらって、相棒ちゃんのことも面倒みてもらって、経済的にも一時期は支えてもらって、感謝していないわけがないけど、それでも、申し訳ないけど、「圧迫」という言葉をここに書くことに、ものすごい躊躇は、ない。と書きつつ、これらのことを愛情に溢れて実践しているひとを知っていたりするので、心苦しいというか、なんだか自分が酷い人間に思えたりもする。けど、敢えてそのまま、書き進めることにする。

 

おかんに対してさえそんなことだから、とっくの昔に父親でなくなっている、血縁上の父にまつわる諸々の関わりには、心底疲れる。しかも最近さらにその濃度が「増し増し」状況なのだ。

 

よくもまぁ、どんな気持ちで養育義務を途中で放棄した子どもを頼るのかと呆れる。認知症のつれあいと一緒にサービス付きマンションに移り住んでもうすぐ2年になるのに、もとの住まい(それなりの家賃のUR)に家財道具を置いたまま(あまりに酷い当初の状況は一旦回避済み。でも、最終の整理には父本人の意思決定がどうしても必要。)、空家賃を払い続けているのだけど、その最終の始末を延ばし延ばしにしている。自分と認知症のつれあいの蓄えは確かにまだもう少し余裕があるのだろうけど、なんとなく、娘の私がなんとかしてくれると思っているのがありありと伝わってくる。しかも、それをやらなきゃならないしんどさに対する想像が微塵もない気がしてならない。

 

口では申し訳なさそうなことを言っているけど、実は「それぐらいのことは大したことじゃない」と思っている。ひとつの家庭の営みに「始末」をつけることの大変さを、まったくわかっていないとひしひしと感じる。メラメラと腹が立つ。

 

思えば、おそらく、わたしや弟の父親であることを放棄して家を出て行ったときも、そのあとにおかんがどれほど大変な思いをして家庭を持ち堪えなければならないかを想像さえしなかったに違いない。働いて、子どもを育てていくことの「ただごとでなさ」なんて、まったく考えることもなかったに違いない。

 

その延長線上に、いま、わたしは立っていて、父親でない父の、「終活」の一部を担うことになっている。もはや「カネ」でしか解決(いや、解決なんてできない。気休め、ぐらいのものか)できないのだけど、そう発想している自分がカネの亡者みたいに思えて自己嫌悪になったりもする。

 

やるけどね、もちろん。誰かがやらないと、どうしようもない。知らん顔は、自分の仕事柄からも、できない。そのことによってどういう迷惑がかかるか、想像できてしまうから。

 

でも、本当に、楽じゃないのよ。

 

当たり前じゃないのよ。

 

そのしんどさが、とても優しいと思える弟であっても、わかってないなと感じる。その根底にあるものは、やっぱり、「家事労働とケア」の軽視じゃないかと思う。無理解というより、もっと無自覚な、もっと染み付いた感覚。だからこそ、理解を求めても虚しくなってしまう感じ。

 

そういうことに、とてもざわついているこの頃。

 

あーー、なんともカッコ悪い文章だけども、書き留めておかなきゃ、自分のことを自分が蔑ろにしてしまう気がして。

 

推敲もせず、このまま、今のままを。

 

 

 

 




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