1. 食事をしている際、口内に軽く刺すような痛みを覚え、鏡を見てみると大きな血豆ができている。そういう事象が二回連続して発生しています。気味が悪くて嫌ですねぇ。大して痛くもないのですが、潰さないよう気を配るのも面倒です。二回の共通項は、どちらも夕飯時であり、メニューは天ぷらそばだったということです。
食ったのは別々の店であったため、針の混入などという物騒な事態を空想する必要は無いでしょう。アレルギーか何かかな? 原因を切り分けるため、私はそば単品と天ぷら単品を別々に食ってみることに決めたのだった……
2. そんな話はどうでもよいのですが、どうも年末あたりから憂鬱で、何をやっても全然気が晴れません。本当は、私は何にも興味がないんじゃないかという気がする。こんなのはただの気分に過ぎないとわかってはいるのですが。とにかく今はどうしようもない。こんな時は酒を飲んだってますます陰気になるだけです。しばらく控えよう。
そろそろ私も、こういう気分への対処法を確立しても良いころだとは思っています。どうせ長い付き合いになるのです。良し悪しは置いておいて、毎年のようにやって来るのだから……冬にはわかりやすく憂鬱になるし、春は不安でうろうろし出すので、私は実に単純な性質をしています。単にそういう性質だというだけなので、それ以上のこともない。
そうだ、しょせん我々の精神なんて外的な刺激への応答に過ぎないのです。私はすぐ物質的なものを不当に見下したがるのですが、そんな古臭い物心二元論に縋るのはやめましょう。いったい何をもって精神が肉体より高尚だなんて言うのか? むしろ前者は後者に従属しているようにさえ見える。
たとえば人間の苦痛を簡単に和らげる力を持つのも、やはり身体的な感覚であり、それは暖かさ、酩酊、満腹感、お喋り、くそ、全部頭を鈍らせるものばかりではないですか! 私はそんなもの嫌いです。嫌いだ!
いや、やめましょう進んで不幸になりたがるのは……みっともないですからね……それに私は既に一つ、明確な対処法を持っています。どんなに寒くても散歩をするのです。最近の不調の一因は、やはり正しい散歩を怠ったことにあるらしい。昨日の夜中に歩き回ったので今は少し元気です。やっぱり目的地があったり、誰かと一緒だったりすると、いくら歩いても散歩の代替にはならないようです。
しかし冬の夜は過酷だし、そもそも外へ出る勇気自体がなかなか湧いてこないし、何か代替案はないものか?
3. 多少の精神力が残っている場合には、本を読んで回復できることもあります。この前改めて読んだOracle Nightは、記憶していた以上に面白かったので満足です。
この本では一つの挿話が重要な役割を果たすのですけど、後述するように、私の脳味噌にはその部分だけが独立して残っていたようです。読み返してちょっとしたショックを受けた。「マルタの鷹」という実在の小説で言及される、Flitcraftという男のエピソードなんですが、今読み取れる限りではこんな内容らしい。
妻子を持ち、仕事でも成功している満たされた男、Flitcraftが工事現場の下を通りかかっていたとき、彼の目の前にいきなり梁が落ちてくる。落ちる場所が少しでもズレていたら、確実に死んでいたくらい近くに。この世界は単なる偶然に支配されており、すべてのことには理由も秩序もさっぱり存在しないことに気づいた彼は、家族を捨てて新しい街へ向かい、むしろ自分自身を偶然性の手に委ねることを決意する……
主人公はこのエピソードを流用して新たな小説を書き始め、さらにその小説内の作中作として、まさにOracle Nightというタイトルの本が出てくる、という入れ子構造になっています。
ちなみに私はOracle Nightのことも、その中で読んだ挿話もすっかり忘れた状態で、Flitcraftのエピソードと酷似した始まり方の話を書こうとしていたことがあります。結局頓挫しましたが、当時は完全にオリジナルだと信じ込んでいました。忘却って怖いですね。
なお、このOracle Nightの主人公が書く小説も、同じく頓挫しています。私はそんなところまで、無意識のうちに真似してたのか? まさか、単なる偶然でしょう……