鍋は幸福の表象である。
我々が鍋料理について考えるとき、同時に陰惨、憂鬱な光景を思い浮かべることはむずかしい。なぜならそれらは対立する概念であるから。
煮立った水の泡や、そこから立ち上る湯気を想像してみると良い。鍋といっしょに悲痛な情景を描くことの困難さがすぐに分かる。そこに鍋があるとき、彼/彼女は貧困であっても一定の満足のうちにあり、失意に沈めど或る種の滑稽さと共にある。鍋を見てさえダンテの血の河の苦悶を思い浮かべるような人は、既に魂が地獄に囚われているから、万物に絶望を見出すはずである(それは必ずしも間違っているとはいい切れない)。
あるていど豊富な種類の具材を想像させる。
鍋を食っている人間が、その翌日に食う物もなく行き倒れるという事態は想定し得ない。最低限の生活水準さえ下回るようなら、自力でそれを調理することは不可能だからである。したがって、鍋は真のどん底というものと縁がない。
無論、まだ下があるということが、陰気な気分で鍋をつついている人間の慰めになるとは限らない。むしろその事実は彼/彼女をいっそう陰気にするかもしれない。本当の、それ以上転落しようのないどん底というのは、常に自暴自棄な快楽を伴う。惨めさに酔うことは徹底的に痛めつけられた人間に与えられる最後の権利であり、悲劇の持つ美しさというのは要するにこれである。
しかるに鍋を食っている人間にはその権利がない。その人は自らの悲惨さに耽溺することができないのである。煮立った鍋の前に座り世界を呪っている人物を見れば、余人は苦笑するばかりであろう。鍋は同情すべき懊悩をも、その日常性と卑近さで覆い隠してしまう。恐るべき効能である。
たとえば酒についても、我々は同じようなことを言えるかもしれない。背後にどんな事情があろうと、酔っ払いというのは醜悪か、滑稽か、せいぜいその両方でしかない。しかし酒と鍋が類似しているのは、そこまでである。悲劇に途中経過としての自棄酒はあっても、自棄鍋というものはあり得ない。もしも後者が登場したなら、舞台はたちまち喜劇にすり替わってしまう。
さらに一点付け加えるなら、鍋というものは温かい。一方の酒は大抵冷たい。同じ酒同士で比べるとしても、悲嘆にくれてウイスキーを呑む人と、熱燗を呷る人ではずいぶん違う。しかし後者は幾分大衆的ではあっても、まだ辛うじて悲劇との繋がりが切れてはいない。それが鍋なら? 先に述べた通りである。
血潮は温かく、死体は冷たい。温暖な場所に住む者には楽天家が多く、寒冷地に居を構える人々は抑鬱的になりがちだという。
しかし、鍋!
鍋を食うものはその温かさの故に幸福であろうか。傍からすればさほど不幸に見えないのは間違いない。だが理想化された鍋の像とは異なり、現実の鍋とは冷めゆくものである。その人が鍋を食っているという事実に変わりはない。けれども内実はどうであろうか。どうして同じ鍋を囲んでいない人々が、その心情を推し量ることができようか。
今日も彼/彼女は浮かない顔で鍋を食っている。それは悲劇ではありえない。まさに鍋を食っているという事実そのものが、その人を決定的な悲惨から、そして人々の憐れみからも遠ざけるのである。鍋の効用は果たして祝福か、あるいは呪詛であろうか?
我々には分からない。部屋には湯気が充満しているばかりである。