「本を読むことは、その本の著者や登場人物と友人になることである(だから本を読んで見識を広めるのがよい)」というようなことを、中高の時の校長が言っていました。何かの引用だったのか、彼自身の言葉だったのかは覚えていません。
当時の私は今よりもさらに拗らせており、自分以外の人間など全員馬鹿だと考えていたし、資本主義社会における成功者の話なんて聞くものかと思っていた(私学だったため)ので、碌に校長先生のお話など聞いていませんでした。それでも覚えているのだから繰り返しというのはこわい。
ともかく、その論で行くと、私は随分友達の多い人間だということになります。やったね。まあ私の実生活における友人関係はさておいて、なかなか含蓄のある言葉だとは思いませんか。私のような、本をそこそこ読んだというだけで偉くなったように錯覚している人間と、立派な人と知り合いだというので自分の価値が高められたように感じている人間は、対極の存在のようではありますが、本質的には大差ないということです。
両者に共通するのはたぶん自信がないということでしょう。外部の権威に頼らなければ自己を正当化できないのです。その程度が甚だしければ病的ではありますが、ある意味当たり前のことでもある。
いや、まあ自分にとっての価値のみを確固たる基礎として、そこに迷うことなく大伽藍を築いてしまえるような人物は確かに格好良いですよ。シュヴァルの理想宮やダーガーの王国には私だって憧れる。でも常人がそんな精神性を持ち続けるのはあまりにも困難です。
だから私たちは分かりやすい判断基準として、ある程度広く承認された権威を求めるのだと思います。私の能力とか精神性とか、もしも共通の基準がなかったなら、何がそれらを証明してくれるでしょうか? 他者に対してはもちろん、自分自身に対してさえ、自分が意味のある人間だと言い張れなくなってしまうに違いない。私から経歴や資格、その他一切の『客観的』情報を取り除いたら、いったい何が残るというんですか?
もちろん真の意味で客観的な基準など存在しないので、ある集団で評価されることが、別の集団では全く無価値ということもあり得ます。集団というのを、地域、時代などに置き換えてもよい。だから永劫不変の、真の価値みたいなものを信じさせようとしてくるのはただのカルトです。
というか、仮に全ての人が認める基準が存在したとしても、それは人間とかいう一種族が勝手に作った枠組みの中でしか通用しないものなので、あまり意味があるとは思えません。精いっぱい良く見積もっても、ある一つの(何ら必然性のないルールに基づいた)ゲームの得点以上のものではない。
まあ、人間がそういうことにあまり自覚的ではなく、何か一つの価値基準を本気で盲信している場合もあります。良いのか悪いのかはよく分からん。そういう時、彼の奉じる価値が広く一般に認められている場合にはつい嫌悪感を覚え、逆に余人には理解されないものであるほど高尚らしく思えてしまうのも、私にはどういう理屈だか分かりません。
大勢が一緒に動いてるとなんか何も考えてなさそうで嫌だって以上の感情はないのかもしれない。しかし群れから離れて一人で孤高の道を歩む人も、別に何も考えず適当に歩いてるだけかもしれないので、数の多寡で判定するのは不当ですね。でも……やっぱ人と違うのって格好良いじゃないですか……? 多数派の認める価値とは別軸の基準を採用することで、世間における自分の劣位を無効化しようとするのも、よくある生存戦略ではある。
話があまりにも逸れてしまいました。この辺で冒頭の言葉に戻ると、確かに私は好きな作品の著者のことを勝手に知人だと思い込んでいるので、歴史の本などを読んでいると知り合いがたくさん出てきて楽しいです。完全に一方通行な親近感。これは地の文というものがある媒体の方が生じやすいのではないでしょうか。まあ直接会ったら絶対友達になれなさそうな人の方が多いのですが、そもそも作家なんてそんなものだろうという偏見があります。
まだ校長先生がご健勝なら、今でも生徒達に持論を披露していることでしょう。思い返してみれば結構興味のある内容を喋っていたような気もするのですが、我々は話の中身よりも、それがあまりに何度も反復されることを理由にして寝ていた記憶があります。私もなんだかんだで似たような記事ばかり書いているような気がするな。飽きたら寝てください。私ももう寝ます。