大して残っていない寿命を惜しみつつ、物憂く病床に寝転んでいるばかりとなった今、しきりに思い出されるのは夢のことである。
夢といっても若き日に空想した、実現の見込みもない大望を指すのではない。そんな望みはとっくの昔に忘れてしまった。忘れるくらいだから本気でもなかったのだろうと思う。私は若い時分にさえ熱意のある性質ではなかったし、平坦に生きて平凡に衰えたその先に、この没趣味な白い病棟があったというだけの話である。
寝て見るあの夢だ、私の言いたいのは。
どうせ眠るくらいしか仕事はないのに、起きている間まで夢のことを考える必要はなかろう。この前、医者と話していたらそんな内容のことを言われた。余命いくばくもない老人を前にして薄情な医者もあったものだが、中身については私も同意する。しかし私だって好きでやっているわけではない。
例えば上品とはいえない散らかし方をした食事のトレーを看護師が回収しに来る気まずい時間だったり、あるいは隣の婆さんが矢鱈げっぷが出るというので検査の用意をさせられているのを見ている時だったり、そういうふとした瞬間に、夢の内容が思い出されるのである。
それも近ごろ見たものではなく、青年期や、ほとんど子供のころに見たような夢が多い。最近はよく寝るくせに全然夢を見ないせいかもしれない。そういう意味で、あの医者の指摘はあたらない。
私の乏しい知識によれば、基本的に夢を見るのは浅く眠っている時であり、だったら最近の薄く引き伸ばしたような睡眠は格好の夢見時であるはずなのだが、そう単純でもないらしい。ともかく私にとって、夢とは過去にあり、今にはないものである。
それは老いのせいで失われたもののうち、最も惜しくない事柄の一つだ。夢なんぞ見られなくとも良いから、私は新聞を読める程度の視力と、自力で用を足せる程度の脚力を取り戻したい。ありふれた切実な要望であり、それらはもちろん死ぬまで叶うことはない。
一方、普通の夢なんて起きれば忘れてしまうものだ。記憶の整理だろうと無意識的欲求の発露だろうと、それらは現実の私の人生に、何ら影響を及ぼしてこなかった。勝手についてくるオマケみたいなもので、単純にどうでも良いのである。
先ほども述べたが、忘れてしまう程度なら重要なことではない。
と、ここまで考えたところで、私の思い出す夢が、もう数十年も前のものであることに思い至る。その記憶は、もっと覚えておくべき有用な知識や、思慮深い老爺になるために必要だったはずの含蓄ある教訓などを押しのけて、私の脳味噌の中に居座り続けていたことになる。
それらは重要なことだから忘れなかったのだろうか。いやいや違う。私は多少耄碌しているかもしれないが、論理学の基本くらいは覚えている。前項が真であったとしても、忘れなかったものがすべて重要だということにはならない。たぶん私の思い起こす夢は、掃除し残した塵のように、どこか隅の方に集まっていた記憶なのだ。
そろそろ、夢の中身の話をしてみても良い頃合いかもしれない。する必要があるのかどうかは分からない。再三言うが、とるに足らない内容だからだ。しかし折角覚えているのだから何かに使えないだろうかという、貧乏性が私を黙っておかせないのである。
なにせ凡そ七十年だ。かつて還暦祝いで貰った六十年物のワインより、寝かせた時期は長い。それだけの年月は、熟成にせよ腐食にせよ、とにかく何らかの作用を及ぼさずにはいないだろう。私にとってつまらぬものでも、存外若い聞き手には使い道があるかもしれない。無ければ単に聞き流して欲しい。元より他人の夢の話など、その程度のものだから。
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